夢
「行ってくるよ、愛しい人。必ず戻るからここで待っていて」
「待っているわ、愛しい人。あなたが無事に戻るまで」
小さな村が点在し、小さいが豊かな土地を擁する領地を治める若き男爵グザヴィエ・ドゥ・オーベルジュは、重厚な鎧を身にまとい、愛する妻に笑顔で手を降って戦地へと赴いて行った。
*
グザヴィエ・ドゥ・オーベルジュが十五才、ブロンシュ・ドゥ・ガルシアが十三才のときに二人は政略結婚として結ばれた。
両親を黒死病で亡くしたグザヴィエが様々なしがらみを断ち切り、若くして男爵家を継ぐことに対してブロンシュの父ガルシア子爵が後ろ盾になるという契約のもとに結ばれたものだった。
周囲の思惑はどうであれ、若く美しい二人は幸せだった。
淡い金色の髪に透き通る泉のような瞳のブロンシュとさらりとした黒髪に新緑のような瞳のグザヴィエは一対のお人形のように美しく、一年にわたる相続争いの末に決まった若く美しい小領主夫妻は領民からも祝福を受けた。
まるでおままごとのような結婚生活だったけれど、ブロンシュは美しく凛々しいグザヴィエが大好きだったし、グザヴィエもまた、妖精のように可憐で健気に女主人として振る舞うブロンシュを慈しんでいた。
しかし、幸せで穏やかな生活は長く続かなかった。
十年ほど前のこと。はるか遠く海の向こうにある大国イングランドがグザヴィエたちが住むフランスへ王位継承を求めて戦争を仕掛けた。その後、それをきっかけに国内で諸侯たちによる領地争いの争いが始まり、農民による反乱も頻発し国内は混乱していた。
やがて、近隣の制圧を主に担っていたグザヴィエにも遠征の命が下った。
グザヴィエは弱冠十六才で、少ない騎士たちを従えて戦地に出ることとなったのだ。
「ブロンシュ、本当に実家に戻らなくてもいいのかい?」
「父も兄も戦に参ります。わたくしは女主人としてこの城を守りますわ」
グザヴィエは困ったように目尻を下げ、鎧をかちゃりと鳴らしながら指先で優しくブロンシュの頬を撫でた。
「では……。行ってくるよ、愛しい人。必ず戻るからここで待っていて」
「待っているわ、愛しい人。あなたが無事に戻るまで」
手を降りながら去っていく夫を、ブロンシュは無理やり作った笑顔で見送った。
***
「奥さま、食糧が残り少なくなりました」
「庭に植えた野菜がもう少しで収穫できるわ。城の周りに罠を仕掛けましょう。なんとか頑張りましょうね」
*
「奥さま、数人の下女が逃げ出しました」
「まあ……。林の中には動物もいるわ。無事に村に辿り着ければいいのだけれど。……モリーもおうちに帰りたい?」
「私は奥さまのそばにいますよ」
「ありがとう、モリー」
*
「奥さま、私たちもこの城から出ましょう」
「モリー、わたくしはここでグザヴィエさまを待つわ。約束してるの」
*
「モリー、どこへ行くの?」
「申し訳ありません、奥さま。この城にはもう誰もいません。ここにいては餓死してしまいます」
「待って! 待ってモリー! 一人にしないで……!」
*
記憶にあるのは、ドンっという音と飛び散る赤い血。……そして、久しぶりに口にする肉。
***
(夢をみていたのね)
ブロンシュはゆっくりと体を起こし、ぱちぱちと瞬いた。
手の中からするりと鎖が落ちる。
「グザヴィエさま……」
ブロンシュの瞳の色をしたブルートパーズとグザヴィエの瞳の色をしたペリドットが埋め込まれた金のペンダントは、ブロンシュがグザヴィエに贈ったものだ。
戦地に行く前、お守りとして手渡した。グザヴィエは嬉しそうに目を細め、肌身離さず持っていると言って首にかけた。あの笑顔は忘れられない。
ブロンシュは目の前でペンダントを揺らし、口を尖らせてじっと見た。
「どうしてあなただけ戻ってきてグザヴィエさまは帰ってこないのかしら?」
ペンダントトップがゆらゆら揺れる。二つの石はキラキラ輝いているが、地金は少しくすんでいる。ブロンシュは少し首を傾げた。
「あー、戦地にあったのだものね。それは汚れても仕方がないわ。磨いてあげましょうね」
柔らかな布で優しくペンダントを磨く。
「ねえ、あなたはグザヴィエさまがどこにいるか知っている? ずうっと待っているってお知らせしたいの」
外は夕闇に包まれている。ブロンシュは優しくペンダントを磨いた。
*
百年前、城の周囲の森はまだ木がまばらに生えた林だった。グザヴィエがいなくなり徐々に人が減り、木々が成長して森になった。
その中をブロンシュは待ち続ける。
初めの頃は大勢の使用人とともに城と領地を守っていた。
年を経るにつれ使用人が少なくなり、隣の領地に住む母との往復書簡は途絶えた。最後まで側にいてくれた侍女のモリーもいなくなった。
森は広がり、城は周囲の街や村から隔絶された。やがて『忘れられた森』と呼ばれるようになる。
だからブロンシュは知らなかったのだ。父も兄も帰ってこなかったことを。自分の住む領地も父が治めていた領地も今はもうないということを。
*
ある日、目覚めたブロンシュは体の重さを感じ鏡を見た。
今では見慣れたその姿。
頭には捻れるように細く鋭い角が生え、瞳は赤く小さな唇の端からは小さなキバがのぞいている。自らの手に視線を落とすと爪も長く鋭く硬い。
ブロンシュは『異形』となっていた。
グザヴィエを愛するあまり、グザヴィエの帰りを待つために他者を犠牲にしてきた見返りに呪いを受けたのだ。
たった一人になり食べるものがなくなったブロンシュは、迷って城にやってきた人間を襲った。
殺さなければ自分が襲われていた。若い女の一人暮らしだと知った旅人は態度を豹変させた。ブロンシュは城に仕掛けられた罠や武器を使い、必死で抵抗した。
そして、生き延びるために喰らう。
まずは持っている食糧を。そしてその後は……。
足りなくなれば本能のまま村へと降りる。その頃にはブロンシュの姿は異形となっていた。
それを繰り返していると、いつの頃からか森の入り口に屠られた鹿や牛が置かれるようになった。
*
こんなにも醜い姿になってしまった。
それでも待つと約束したのだから。愛しい人が帰ってくるまで、なんとしてでも生きなきゃいけないから。
わたくしが愛するのはあなただけ。
*
ブロンシュはため息をつきながら重い体を起こす。
「前に持ってきてもらった食糧、まだあったかしら」
ブロンシュは、村人たちが置いて行った贄を収めてある地下へと階段を降りていった。