第1話 歯車の回転
窓から入り込む7月の温風は、16時に差し掛かる今、オレンジ色の夕陽とともに、氷山高校を撫でる。暑いとも思わず、寒いとも思わない。強いて言うなら、涼しい。その程度の曖昧な微風に、今日も彼は黒髪を靡かせる。
基本、生徒が軸となって活動することを許された氷山高校。もちろん、制限は緩かった。例えばそう、彼が耳につけているイヤホンと、机に置かれたミカンのロゴの入ったスマホを持ち込み、授業以外での使用が認められたり。
グラウンドからの部活の声。今になっては無縁の、暑苦しくて青春を匂わせる声音。彼はそれに、耳を傾けることは一切ない。何故なんて言わずもがな、イヤホンをしているからだ。
しかし、そんな彼も、時として耳を傾けることがある。
窓の外、快晴の青空を見つめる彼――歌枕奏は、肩に何かが柔らかく触れる感覚を身に感じ、「うわっ!」と、思わず肩をビクつかせた。
驚いて一瞬視界が歪むほど狼狽した奏は、その衝撃を受けた先を見る。
「……ゆ、夢咲?」
そこに立っていたのは、同じクラスに所属し、色々と噂の絶えない美少女である――夢咲日和だった。
日和はコクッと静かに頷くと、奏と目を合わせる。が、それから先、何かしらの言葉をかけることはない。ただ、手を伸ばしていて、無言を貫いていた。
「え?これ……俺の右耳の……」
人から呼ばれることを考慮して、奏はいつもこの時間、1人でイヤホンをする際は、廊下側、つまり右耳のイヤホンをつけない。
それは自分で把握済み。だからこそ、日和がイヤホンを持って手を伸ばす意味を、未だに理解していなかった。日和は見つめるだけで無言。何かを口にすることは一切ない。
それも当然だ。何故なら日和は――滅多に声を出さない、無口な人として知られているから。だから奏も答えを見つけられない。
「……つけろってことか?」
ブンブンと横に2度振る。
どういうことだ……?
「あっ、落ちてた?」
ブンブンと縦に2度振る。
「あぁー……そういうことか。悪いな、取ってもらって。ありがとう」
ニンマリとする日和の右手から、そっと指に触れないようにイヤホンだけ取る。女子との関わり、というか、人との関わり方を熟知していない奏なりの取り方。
実は奏、運動は得意であり、学力は落ちこぼれ。よくあるコミュ強の性質を持つのだが、その本性は、同級生とだけ、上手く話せないという、少し変わった性格をしている。
現に、日和の目も見れず、何か文句を言われないようにと考え込みすぎて、触れることすら危惧した。しかしまぁ、理由はそれだけではないのだが――。
そんな奏は、日和に対して取ってから戻る、若しくは帰ると思っていた。だが、一向に動く気配はない。次第に冷や汗がポツポツ湧き出る感覚が全身を襲う。
「……夢咲?」
コクッと、今度は、「何?」と言いたげな表情で、首を斜めに曲げる。
「……えっと……戻らないのか?」
言われてすぐ、その秀才の一端を担う頭脳は、意味を理解した。縦に頷いて、戻ることを拒否すると。
「あの……」
久しぶりに聞く、日和の声。あまり人前で声を出さず、無口、または寡黙な人だと言われる所以となっている声。女子にしては、とても声が低いのだ。
男子のように、ではなく、女子としての基準で言うと、とても低い。全然女子だと判別は出来るが、おとなしく、普段から声も出さず、お淑やかな印象を与える日和は、より一層、低い声だと思わせる。
「そのイヤホンで聞いてるのって……」
次にハッとしたのは、またしても奏だった。イヤホンで聞いてるものが何なのか、それを問われたことに、それはもうコミュ障レベルマックスの狼狽を。
「えっ……?聞い……た?」
「ごめんなさい。つい気になって」
話せば会話は人並みに出来るのが日和だ。寡黙であっても、人と接することが苦手などではない。だから、柔らかく華奢な声音で、優しく肯定する。
嘘ぉだぁろぉぉぉ!!!!
奏は心の中で激しく燃え上がった。焦熱であり、真顔を保ててるのが不思議なほどに。それもそのはず。この歌枕奏、人の声、特に女性の特徴的な声を聞くのが大好きな、所謂声フェチという性質を持つのだ。
そして今聞いていたもの。それは音楽ではなくて――過去に録音していた、日和の声だったのだ。
ヤバいヤバいヤバいヤバい!死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!どうする?ここで土下座するか?!いやいや、手遅れだろ!
賢く、悪知恵でも狡猾な男ならば生み出せたのだろうが、あいにくと奏は善人の類だ。悪辣なことは一切出来ない。
「あ、あはははー……あの……その……」
爆発寸前の奏。目の前が暗くなるのを感じる。そんな時。
「あぁ、いえ。そんな気にしないでください」
やべぇと思い続けるばかりで、答えに辿り着く気配もなかった奏を助けたのは、目の前に立つ、白髪で150前半の身長をした華奢な体躯の美少女だった。
「えぇ?」
情けなく、攻めていたのに一気に逆転され、背水の陣となった奏のバカ面は、見る分には面白い。
「なんて言えば良いか分からないんですけど、その、私の声を好いてくれてるのは嬉しいですし、そういうフェチ?性癖?というのも、魅力的だと思いますよ」
「……えっ、あっ」
会話が成り立たない。けれど、日和の言うことは、絶対に本心からだと、その時奏は理解した。