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第2章―1

 薄闇の布がかけられていく町は、誰かが急ぎ足で店じまいをしていっているような気配があった。町は陽を失いつつあった。

 通勤客が駅からはき出されていく。もうそんな時間帯だ。カスミは、家路につく人々の流れに逆行するように、混雑する駅前を走っていた。

 あの後、カスミは玄関で姉を待ちかまえていた。自分が見えなくなったのが――見ようとしなくなったのかもしれない――母だけであることを切に祈りながら。

 帰宅した姉は――だが、目の前に立つカスミをまるで空気のようにスルーしていった。カスミの目先をかすめるように通り抜けていった。

 玄関の扉が開き、母は姉を家の中へと迎え入れた……。

 ――もう、パパだけだ……。

 カスミはいても立ってもいられなかった。

 ――駅で待たないと……。

 カスミは駆け出していた。何かに追われるように町を走り続けた。

 駅に向かう途中も、容赦なく人はカスミにぶつかってくる。いや、このときのカスミは自分の方から相手に衝突していたのかもしれない。

 ぶつからないようにだとか、衝突してごめんなさいだとか、そんなことを考える――思いつく余裕など当然ありはしなかった。

 なんとか駅に到着した。だが、下手な場所に立っていれば、カスミはすぐに誰彼と突き飛ばされていってしまう。人が待ち合わせで立つような場所にはいられない。そんな都合のいい場所には次々と誰かがやってきて、カスミは無言のうちに追いやられていったのだ。

 カスミはどうしたって人が寄りつかない駅構内の片隅に居場所を見つけるしかなかった。不思議と、その場所が自分を呼んでいるような気がした。カスミはささやかな安全地帯から、改札口に現れる父親の姿を待ち続けた。

 カスミがただその場にたたずむ間にも、数え切れない人々が改札を抜け駅を後にしていく。

 ――あの人達には、帰る場所がある……。

 不意にそう思ったとき、カスミは焦燥感にかられた。

 もし最後の頼みの綱が切れてしまったら――父親に気づかれなかったとしたら――自分はいったいどこに向かえばいいのだろう……。

 ――こんなにも、私の世界は脆かったのか……。

 生意気にも世界のすべてを知った気になっていた。

 友情がすべてだと幻想を抱いていた。

 世界の在り方について、そんな悲観的な言葉が次から次へとあふれていく。

 このとき、カスミは追いつめられていた。だから、そんなふうに考えてしまうのは仕方のないことでもあった。

 だが一方で、それらは真実ではなかったにせよ、誤りでもなかったのである。

 最悪の事態におちいれば、何とかして祖父母の所に行かなければならない。

 ――でも……。

 カスミはその先のことを考えるのをためらった。自分を待ちかまえている未来……想像するのが恐ろしかった。

 現状、家族のみならず友達にまで――いや、通りすがりの人達にさえ――カスミは見えていない。気づかれていない。

 カスミは実在として確かにそこにある。思念体とか霊体とか肉体をともなわない存在ではない。人々は容赦なくカスミにぶつかってきて、翻弄されるように彼女は突き飛ばされているのだから。

 自動ドアも反応する。各種センサーにカスミはしっかりと見えている。

 おそらく人の目にも――生物が持つセンサーにも――カスミの姿は像としてとらえられているはすだ。

 ぶつかったときも、相手は訝しがりながらも反応している。触覚というセンサーがカスミを実体として認識している証拠であった。

 それなのに、どうしても相手の意識にのぼらない。人だけではない。犬や猫といった動物までも、どうやら自分という存在を気づけないでいるらしいのだ。

 祖父や祖母も望み薄の予感がしていた。自信などもうどこにも残ってはいなかった。

 ただ、もしこの事態が――病いが――伝染性のものならば、まだ救いはあるかもしれない。遠方にいる祖父母には、いまだその病毒の手は届いていない――。

 たとえそれが、結局は時間の問題に帰結するにしても、心の平静を保つため、今のカスミにはその細い線にすがるほかなかったのである。

 改札からは、どんどん人がはき出されていく。カスミは瞬きするのも忘れ、父親を見逃すまいと目を凝らし続けた。やがて人混みの中に父らしき姿が現れ、カスミは逆行する人の流れもお構いなしに、その人物に近づいていった。――父親だった。

「お父さん!」

 カスミは父親の前に立ち塞がるようにして、そう叫んだ。悲痛な響きが声を震わせていた。

 だが――。

 予期できたことだ。うすうすカスミも分かっていたはずだ。ただ、それを言葉にするのをずっとためらってきた。

 カスミは、自分の置かれた最悪の状況を、あらためて思い知らされた……。

 父は一直線に向かってきた。

 カスミを――自分の娘を――突き飛ばした……。

 父親は怪訝な表情を浮かべ辺りを見渡した。そして、頭をひねると、その場を立ち去っていった。

「お父さん! お父さん!」

 床に倒れたカスミは、何度も何度もそう泣き叫んだ。まるで幼児が置いてけぼりにあったときのように。本能がそう叫ばせていた。

 だが、父親が振り返ることはなかった。その背中は小さくなっていき、やがて人混みの中に消えていった。

 カスミの悲痛な声だけが、その場に取り残されていった。だが、その声さえ――気にかける者もまた誰もいなかったのである。


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