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第9章―5

 その後も、アキラの病室には続々と親族が集まってきた。皆、一様に困惑の色を浮かべ、少年の両親を励ましたり、中にはお悔やみの言葉をかける見当違いの者まで現れた。誰もが戸惑っていたのだと思う。責めることはできない。

 例えば、行方不明になっていた親族の子どもが、長い年月を経て戻ってきたとする。それも不幸であるには違いないが、今回の件はそんなこととは比べるべくもない。常軌を逸している……。誰もが――肉親でさえ――少年の存在を忘れてしまっていたのだから。すべての人の記憶から、彼にまつわる全てが欠落し、気にかけることすら許されなかった。

 だが、本当に大事なのは、これからのことだろう。この長く、ぽっかりとあいてしまった空白を、どうやって埋めていくのか――ここに集まった者たち全員に課せられた難題だ。

 病室の窓際にたたずんでいたカスミは、そんな彼らの様子を見届け、そっと病室を後にする。最後にベッドに横たわる青年の寝顔を一瞥し、また来るねと小さくつぶやいた。

「どうして……どうして……今の今まで、アキラのことを忘れてしまっていたの……?」

 これで、いったい何度目だろう。カスミの去った病室で、アキラの母親がまた、一人では抱えきれない困惑を吐露する。それは、この部屋にいた誰もが感じている思いでもあった。

「ずっと……ひとりで……」

 ベッドの傍らで、ふたたび項垂れる母親の小さな肩に、アキラの父親がそっと手をそえる。だが、それで慰められるなどとは――慰めの足しにもならない――彼自身も思ってはいなかった。彼もまた、どうにもならない当惑を抱えた張本人であったからだ。

 そんなとき、ふと父親の目に映る景色があった。思わず、つぶやく。

「いや……ひとりではなかったのかもしれない……」

 その言葉に、母親は訝しげに顔を上げる。

「誰かが一緒にいてくれたのかもしれない……」

 父親は窓の方を指差した。

「ほら、あそこに……」

 窓際に花が飾られていた。幼い子どもが使うような水色のコップ、そこに幾本かの黄色い花が挿さって揺れていた。

「ツワブキの花……」

 胸のうちで、母親はその小さな花の花言葉を思い浮かべていた。


 病院の外に出たところで、まるで何かに引っぱられるみたいに、ぴたりと少女の足は止まってしまった。簡単には、次の一歩を踏み出せそうにない。カスミは病棟を振り返る。

 ――ここにいたって、私には何もできない……。

 でも、いったい私は、これから何処に向かえばいいんだろう――。

 少年のいなくなった、あの廃ビルの屋上に戻らないといけないのだろうか……。

 教えを乞うように、少女は天を仰いだ。初冬の空は何事もなかったみたいに、涼しげで美しい表情を浮かべている。はるか上空、雲がうっすらと筋をひく――そのさらに向こう側、宇宙が透けて見え、世界はまぶしいくらいに光であふれていた。

 その瞬間――その光景を目にした瞬間――カスミの中に、ふつふつと込み上げてくるものがあった。抑えきれない激情……。次から次へとあふれ出てくる。

 カスミは叫んでいた――。

「ふざけるな……! くそっ……くそっ……くそっ……!」

 カスミは足下の地面をしたたか踏みつけ、拳をぶんぶんと振り回した。憤りは空を切る。目から涙が飛び散った。

 はたから見れば、駄々っ子がただ地団駄を踏んでいるようにしか見えなかっただろう。もちろん、誰かに気づかれるわけでもない。

 それでも、このときのカスミは、自分のそんな無様な姿を誰に見られたっていいと思った。恥ずかしいとか、はしたないとか、もうそんな気持ちはどうでもよかった。

 どこからともなく、際限のない怒りが――悲しみを伴った憤りが、とめどなく湧き出てくる。身を焦がすその熱に、カスミは自身の体をただただ委ねるのみであった。

 ――私は何に怒っている……?

 アキラをこの世界から消してしまった元凶……私自身に怒っているのだろうか――。

 彼を必要だと思ってしまった……。

 彼を大切だと思ってしまった……。

 ――その気持ちを抑えきれなかった……。

 わたしの心は強かったんじゃなかったの――?

 ひとりでだって、やっていけるはずだ。だから、あの少年のことなんて、どうってことない存在だと――今まで、家族や友達をそう思ってきたみたいに――うそぶくことが、私にはできたはずなのに……。

 ――それなのに、私はアキラを必要とした……。

 少年の存在をあきらめきれなかった――。

 結果、彼はこの世界から消えてしまい、あの薄暗い病室へと――永遠に目覚めぬ闇の中へと戻っていってしまった……。

 ――私のせいだ……。

 だが、その一方で、それができなかったことも、カスミにはよく分かっている。少年を必要ないなどと、自身にどう嘘をつくことができようか……。

 それに、少年が皆に思い出されたことも、やはり祝福されるべきことのように思えるのだ。

 ――じゃあ、どうして、こんなにも私は腹を立てているのだろうか……?

 私自身に対して――それはもちろんだ……。でも、他にも許せない何かがあるような気がする――。

 カスミはもう一度、空を仰ぎ見た。

 ――そうだ……。

 この空を見上げたとき、私は怒りを抑えきれなくなったんじゃなかったのか――。

 カスミが見上げた先には、平然と涼しい顔で、どこまでも続く美しい景色が広がっていた。超然と、そこに完璧であり続けようとする世界の色と形――。

 ――そうだ……。

 私は……この世界に――。

 そう思った瞬間、

「くそっ……くそっ……くそっ……! ふざけんな……ふざけんな……ふざけんなぁ――!」

 カスミはまた叫んでいた。どこまでも透明に澄みわたる、この他人事のような空に向かって叫んでいた。叫びは、その向こうにいる誰かに対してであったのかもしれない。

 こんな世界に誰がした……。

 こんな世界を誰がつくった……。

 ――こんな悲しい世界を……いったい誰が……。

 誰が望んで……こんな世界をつくったっていうの……。

 ――返してよ……。

 お願いだから、返して……あの少年がもう一度……笑う姿を……。

「……返してよぅ……」

 少女は、その場に崩れ落ちた。


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