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第9章―4

 顔を洗って屋上のテントに戻ってくると、いつからか、ずっと掛けっぱなしにしていた学校の制服に目がとまった。どこにでもよくあるオーソドックスなセーラー服。カラーとスカートの裾に一本の白いラインが入っている。

 カスミは制服を手にとり、その濃紺の生地をしばらくじっと見つめていた。そこに何かを――思い出という言葉にしてしまうには、あまりにもその本質を欠いた何かを――テキスタイルの向こうに映し出していたのかもしれない。

 少女は制服の袖に腕を通した。今日という日には、この装いこそがふさわしい。

 今日は式典なのだ――。

 それは、晴れやかで喜ばしい祝祭の儀であるのだろうか……。

 それとも、永遠の断絶に苦悶する告別の儀となってしまうのだろうか……。

 ――分からない……。

 今の少女には、そんなことを真剣に考える余白など、どこにも残されてはいなかった。それどころか、

 ――ときどき虫干しはしてたけど……。

 うん……カビ臭くはない――。

 そんなことしか、頭の中に思い浮かんでこないのだ。

 ともかく、少女は制服に身を包む。誰に言われるでもなく、そうしなければならないと思った。

 カスミは、少年が使っていた水色のプラスチックのコップを学校の制カバンに忍ばせ、それを肩にかける。それからテントの中を一瞥し、何かを振り切るように外へと足を踏み出した。本当は、ここでこのまま、ぬるま湯のような思い出にずっと浸っていたかったのかもしれない。

 外に出ると、いつも少年と一緒にご飯を食べていた屋外のテーブルに、黄色い花束が置かれていた。そっと手に取る。それは顔を洗いにいった公園で目についた、少女もその名を知らぬ野生の草花であった。

 その咲き姿は路傍にあって、とても力強く見えた。凍える大気の底で、耐え忍ぶように――そして、どこか誇らしげに――花は笑って揺れていた。あの少年の笑顔のように。


 カスミは町を進んでいく。誰彼となくぶつかってこられるのは今に始まったことではない。それなのに、何かが違う。ふわふわと浮かんでいるような感じがするのだ。

 浮いているのは、体のような気もするし、魂であったかもしれない。ともかく、それらは地に足をつけず、マシュマロのトランポリンの上を跳ねているような、とても希薄で頼りのない感覚であった。

 ――違う世界に入り込んだみたい……。

 元の世界から、こちらの世界に落とされたときのように、何かルールが変わってしまった――というのではない。それなのに、なぜかカスミには、そんなふうに感じずにはいられない。

 ――ああ、そうか……。

 世界なんて簡単に変わってしまうものだったんだね……。

 世界の法則が書き換わってしまう――そんな大それたことがなかったとしても、世界の形は簡単に変わってしまう――。

 ――私の見方ひとつで、世界は、その色を変えてしまう……。

 そう思うと、自分がこの忘れられた世界に来たことも――言葉で上手く言い表せなかったが――ひどく納得のいく事象のように感じるのだった。

 ――世界なんて、いつだって、どこでだって……。

 人の思いで……人それぞれの思いで……簡単に変わっていってしまう――。

 胸に大きな穴を穿たれ、空気の抜けた風船みたいに、魂は形を見失う。そんな、ふわふわとした喪失感にさいなまれながら、カスミはいつしか目的の場所に到着していた。

 少年が眠る――眠り続けている――あの白亜の病院であった。


 時が止まった病室の片隅、埃をかぶったイスが、少年の境遇にあおりを受けたみたいに、やはり忘れられ寂しく放置されていた。カスミはその埃を軽くはらい、ベッドの傍らに持っていき腰掛ける。

 病室はまだ薄暗いままだ。うねるように、おとなしく電子音を響かせる機器も、床上を這いずりまわる管やラインにも、昨日と変わったところは見られない。

 カスミはベッドに横たわる少年に寄り添った。

「ねえ、アキラ……そこにいるの……?」


 返事はない――。


「これでよかったの……?」

 ――たとえ、あなたがそこにいたとしても……。

 あなたには、私が見えないのかな――。


 世界は隔てられてしまった――。


 ――でも、私には見えているよ、あなたのことが……。

 覚えているよ……あなたと過ごしてきた日々のことを――。

 カスミはまた、込み上げてくる感情と、あふれ出そうになる涙を、ぐっと堪えなければならなかった。

 少女は青年の額に手をやり、鬱陶しげな髪をかき分ける。優しく頭を撫でる。

 ――ああ、やっぱりアキラとおんなじだね……。

 もうそれだけで、あっさりと涙はこぼれていってしまった。

 少年と青年――見た目は変わってしまっていても、伝わってくる肌の温もりと感触は、カスミの手がよく覚えているものだったのだ。


 忘れるはずがない――。


 そうしているうちに、

「いったい、どういうことなの――!」

「分かりません……。私たちにも何が起こっているのか……」

 遠くから、そんな声が聞こえてきた。病室の外が、何か慌ただしい気配に覆われつつある。

 やがて、その喧騒の元凶は病室の前にやって来て、唐突に扉を――およそ病院という場にふさわしくない勢いで――開け放った。複数の看護師が部屋に飛び込んでくる。各々が、信じられないといった表情を浮かべていた。

「先生を呼んできて! それから、ご家族の方にも連絡を――」

 一人の看護師が廊下を走っていった。

 カスミはベッドを離れ――後ろ髪を引かれる思いは否めない――病室の窓際へと、そっと、その身を寄せる。

「こんなことってあるのかしら……」

「点滴は交換されています。記録もちゃんと残って……。あ……これ私の字だ……」

 その看護師は罪を犯したみたいに絶句し、どこか悲愴な表情を浮かべた。

 その後、入れ代わり立ち代わり医師や他の看護師たちがやって来ては、ただおろおろするばかりの様子を、カスミは病室の隅っこから、じっと静かに見つめ続けていた。

 やがて、少年の両親と思しき二人が病室にやってきた。お母さんだろうか、一人の女性が青年を抱きしめ、その胸に顔を埋め号泣する。

「ごめんね……ごめんね……」

 何度も何度も、懺悔するみたいに……。

 ――アキラ、みんながあなたのこと、思い出したみたい……。

 帰ってきたんだね、こっちの世界に――。

「お帰りなさい……」

 少女は小さくつぶやいた。


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