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第8章―7

「ううん、もうすぐ世界から追い出されると言った方が正しいのかな……」

 ――何を言ってるの……。

 アキラが何を言っているのか、分からない――。

 いや、このときアキラがどんなことを口にしようとも、決してカスミには理解できなかっただろう。彼女の頭は、その活動を完全に止めてしまっていたのだから。それが自分の意思によるものなのか、それとも心身の防衛反応であったのかは定かではない。時が止まってしまった――そんな見当違いのことを思ったりもした。

「どういう……」

 その言葉をしぼり出すだけで精一杯であった。カスミ自身も何を聞きたいのか、考えがまとまらない。

「この身体はもうすぐ終わるんだ。それが最初の約束だったからね。いろんな物事に締め切りがあるように、この身体を使う期限も決まっていたんだよ」

 いったい、誰との約束なのよ――!

 そんなひどい条件、いったい誰が――!

 それはカスミの胸の内だけに轟いた、少女の魂を今にも引き裂いてしまいそうな大絶叫であった。その不条理な約束をもたらした何者かに、最大限の恨みを、憎しみを覚えて――。

「何の話をしてるのよ。冗談言ってるなら笑えないよ……。こんなときに、そんな嘘なんてつかないでよ……」

 少年が嘘をついていないことなんて、カスミが一番よく知っている。今まで、秘密はあっても、アキラが嘘をついたことなんて一度もなかったのだから。

「そんな冗談、おもしろくないよ……」

 涙を隠すように、カスミはアキラの膝に顔をうずめた。

 少年は愛おしい眼差しで少女を見つめる。彼女はきっと辛い思いをしているのだろう。それでも、話を続けなければならない。話しておかなければならないのだ。少年に残された時間は限られている。この穏やかなひと時は――許された時間は――あとわずかしか残っていないのだから。

「体の調子が悪いのは、兆しなんだ。長くもって、あと数日だと思う……」

 カスミは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、懇願するような目で少年に訴えかけた。

「何とかならないの……?」

 アキラは首を振る。

「それに……」

 嫌な予感がした。

 世界はまだ私を、この少年を痛めつけようというのか――。

「体だけの話じゃないんだよ。たぶん……それよりも先に、僕は世界から思い出されてしまう――」

 ――何を言ってるの……。

 次から次へと、私のあずかり知らないところで、少年と世界は話を進めていこうとする。

「思い出されるって……」

「そうだよ、お姉ちゃん。僕は元の世界に戻るんだ。あのベッドで眠る、本当の僕の身体に戻っていくんだ」

「ちょっと待って! それって――」

 カスミは、あの病室の光景を記憶の中に探る。

 かすかな電子ノイズをあげ動作する機器。そこから伸びる無数のラインと管。そして、それらが集まっていく先には、名前を失った青年がベッドの上で眠り続けている。

 いろいろな考えが、思いが、カスミの頭をめぐる。何を話せばいいのか、何を聞いたらいいのか……。

 ――考えろ……考えろ……。

 カスミは迷いの中で浮かんできた言葉を、その都度、その都度、必死の思いで拾い上げ、紡いでいった。そうやってできた文章が意味をなしていようと、いなかろうと、そんなことはどうでもいい。とにかく、アキラに聞かなくてはならない。確かめなくてはならない――。

「戻るって……いなくなる……? あのベッドの上に……眠ってる身体に戻る……?」

 アキラは、すぐにそれと分かる、無理した笑顔をつくってみせた。その瞬間、たがが外れたみたいに、カスミの抑えていた感情が言葉となって噴き出した。

「動けないのよ! 何も話せない――笑ったり、泣いたりすることもできなくなるのよ!」

 アキラは困った表情をして、それから、子どもに駄々をこねられている父親のように――穏やかに微笑んだ。

「もう、それは止められないんだよ。どうしたって、無理な話なんだ……。」

 ――どうにかしないと……。

 アキラがいなくなる。戻ってしまう……あの冷たい病室に――。

 ――そして……。

 眠り続けてしまう……永遠に――。

 そのとき、不意にカスミの脳裏をかすめるものがあった。

「私のせい……?」

 あまりに突拍子のない少女の述懐に、アキラは驚きの表情を浮かべる。

「私がアキラを必要としたから……?」

 ――アキラさえいればいいと思ってしまったから……?

 トモコの一件で、カスミは気づいてしまったのではなかったか。誰にも必要とされなくなった人間が、世界から忘れられてしまう。誰からも気づかれなくなってしまう。

 そう、まさしく今の自分のように――。

 だとしたら、その逆もまた起こりうるはずではないか。

 ――私が、アキラにそんな感情を抱いてしまったから……?

 だったら、そんな感情は今すぐ捨ててやる。今までそうであったように、私は本当に誰かのことを想ったりなんかしない。

 この少年のことだって、初めて会ったときのように、単なる隣人として割り切れるはずだ。

 ――私には、それができる……。

 できるはずなんだ――。

 この渇ききった心が、ぽっかりと穴のあいた虚ろな魂が、私自身である限り……。

 だが一方で、その困難さに身悶える自分がいる。

 ――簡単じゃない……。

 簡単なわけない――。

 ――アキラのことを、どうでもいいなんて……。

 どうすれば、そんなふうに思えるというの――。

「忘れるから……。アキラのことなんて、私の心の中から追い出してやるんだから……どうでもいいって……。だから……だから……」

 カスミは少年の瞳を見つめた。

「お願いだから、いなくならないでよぅ……」

 子どものように泣きじゃくりながら、カスミはただ懇願することしかできなかった。


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