表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/63

第8章―6

「病室にいる僕は――もう、お姉ちゃんも気づいていると思うけど――ずいぶんと前に、世界から忘れられてしまってるんだ。そうだね……今の、この姿の頃から」

 カスミはぞっとした。アキラの本当の姿は、元の世界で少年から青年へと成長してしまっているのだ。

 いったい、どれほど気の遠くなるような時が過ぎてしまったのだろう――。

 いったい、どれだけの時間、孤独な闇の中、少年は眠り続けてきたというのだろう――。

「この体は……まあ、だから贈り物みたいなものさ。成長もしないみたいだし、壊れることもなさそうだ」

 ――ただ一つのことを除いてはね……。

 病室で眠る自分がベッドの上で、そのとき心から望んだことを除いては――。

 少年は一人、胸の内でつぶやいた。

 ――贈り物……誰からの……?

 カスミもまた一人、そう思った。この問いに、答えは返ってこないような気がしたから。

「僕の身体はね――理由は分からないんだけど――元の世界で、どんどん眠りが深くなっていって、長くなっていって……」

 やがて、目覚めなくなったんだよと、少年は記憶をなぞるように語っていった。

「でも、眠ってはいたけど、意識はあったんだ。いや……あれはただ夢を見ていたのかもしれない……。いろんなことを考えて、いろんな夢にひたっていた……」

 ――そうして、いつしか世界から忘れられていったのね……。

 私みたいに――。

 カスミの小さな胸は、切なさで溺れそうになった。

「呼吸が弱くなったから、鼻に管を通して酸素を送ってもらっている。食べることができないから、点滴で栄養を補給してもらっている。排泄もできないから、カテーテルを入れてもらって……」

「いいから……」

 カスミはそっと少年の手を握りしめた。

「もう……いいから……」

 少女は優しく、幼い少年の独白を引きとめる。

「ごめん……辛い話をして……」

 カスミは無言で首を振った。

 青年の身体は、世界から忘れ去られて以降も、ルーティンワークという名のシステムによって生かされ続けていた。驚くべきことに、彼の身体はその定型業務の実行過程で『もの』として扱われ、点滴類の交換だけでなく、床ずれを防ぐ体位変換、排泄物の処理といったことまでも、この長期間にわたり滞りなく実行されてきたのだ。青年の命に関わる不測の事態も起こらず、自身で選ぶこともできない運命をここまで先延ばしにしてきた。誰かの意図も介在せず、ただ淡々と――。

「家族はどうしてるの……?」

「面会にはもちろん来ないよ。僕のことはもう忘れているからね。この世界のルールは本当に徹底している」

 困ったもんだよねと、少年は無理するように乾いた笑顔を浮かべた。

「家には戻ってみたの?」

「一度だけね。この体で行ってみたよ。でも、お姉ちゃんと同じさ。もうそこに、僕の居場所はなかった……」

 少年のその気持ちは、カスミにも痛いほど――痛すぎるほど分かった。彼女も、あの忘れられた日を最後に、一度も家には戻っていない。いや、近づいていないと言うのが正確だろう。

 そこに自分がいなくても、家族が仲睦まじく過ごしている――どうすれば、そんな光景を心穏やかに眺められるというのだろうか。

 カスミとアキラとでは、この世界での成り立ちは大いに違う。それでも――

 ――私と同じなんだな……。

 悲痛な思いに胸がちくちくする。同時に、その胸にあいた幾つもの小さな穴から、不思議な一体感を伴う、温かな慈愛がわき出てくるのを感じていた。その優しい温もりに、カスミ自身もまた包まれていく。

「それがどうしたっていうの……。何も変わらない。私たちはこれからも――少しはケンカもするかもしれないけど――ずっと仲良く暮らしていくの。本当のお姉さんと弟みたいに……アキラは本当はお兄さんだけど……まあ、そんなことはどうでもいいか。とにかく、私たちはこれまでみたいに、お互いのことを大切に思いながら一緒に暮らしていくのよ」

 ――私は……。

 アキラがいてくれるだけで、この少年がそばにいてくれるだけで、もう充分だ。他に何も望まない。

 私はアキラを愛している――。

「でも、もうすぐ僕は……この世界からいなくなる……」

 それは青天の霹靂のように突如として、力なき少女の魂を打ち砕いたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ