第8章―6
「病室にいる僕は――もう、お姉ちゃんも気づいていると思うけど――ずいぶんと前に、世界から忘れられてしまってるんだ。そうだね……今の、この姿の頃から」
カスミはぞっとした。アキラの本当の姿は、元の世界で少年から青年へと成長してしまっているのだ。
いったい、どれほど気の遠くなるような時が過ぎてしまったのだろう――。
いったい、どれだけの時間、孤独な闇の中、少年は眠り続けてきたというのだろう――。
「この体は……まあ、だから贈り物みたいなものさ。成長もしないみたいだし、壊れることもなさそうだ」
――ただ一つのことを除いてはね……。
病室で眠る自分がベッドの上で、そのとき心から望んだことを除いては――。
少年は一人、胸の内でつぶやいた。
――贈り物……誰からの……?
カスミもまた一人、そう思った。この問いに、答えは返ってこないような気がしたから。
「僕の身体はね――理由は分からないんだけど――元の世界で、どんどん眠りが深くなっていって、長くなっていって……」
やがて、目覚めなくなったんだよと、少年は記憶をなぞるように語っていった。
「でも、眠ってはいたけど、意識はあったんだ。いや……あれはただ夢を見ていたのかもしれない……。いろんなことを考えて、いろんな夢にひたっていた……」
――そうして、いつしか世界から忘れられていったのね……。
私みたいに――。
カスミの小さな胸は、切なさで溺れそうになった。
「呼吸が弱くなったから、鼻に管を通して酸素を送ってもらっている。食べることができないから、点滴で栄養を補給してもらっている。排泄もできないから、カテーテルを入れてもらって……」
「いいから……」
カスミはそっと少年の手を握りしめた。
「もう……いいから……」
少女は優しく、幼い少年の独白を引きとめる。
「ごめん……辛い話をして……」
カスミは無言で首を振った。
青年の身体は、世界から忘れ去られて以降も、ルーティンワークという名のシステムによって生かされ続けていた。驚くべきことに、彼の身体はその定型業務の実行過程で『もの』として扱われ、点滴類の交換だけでなく、床ずれを防ぐ体位変換、排泄物の処理といったことまでも、この長期間にわたり滞りなく実行されてきたのだ。青年の命に関わる不測の事態も起こらず、自身で選ぶこともできない運命をここまで先延ばしにしてきた。誰かの意図も介在せず、ただ淡々と――。
「家族はどうしてるの……?」
「面会にはもちろん来ないよ。僕のことはもう忘れているからね。この世界のルールは本当に徹底している」
困ったもんだよねと、少年は無理するように乾いた笑顔を浮かべた。
「家には戻ってみたの?」
「一度だけね。この体で行ってみたよ。でも、お姉ちゃんと同じさ。もうそこに、僕の居場所はなかった……」
少年のその気持ちは、カスミにも痛いほど――痛すぎるほど分かった。彼女も、あの忘れられた日を最後に、一度も家には戻っていない。いや、近づいていないと言うのが正確だろう。
そこに自分がいなくても、家族が仲睦まじく過ごしている――どうすれば、そんな光景を心穏やかに眺められるというのだろうか。
カスミとアキラとでは、この世界での成り立ちは大いに違う。それでも――
――私と同じなんだな……。
悲痛な思いに胸がちくちくする。同時に、その胸にあいた幾つもの小さな穴から、不思議な一体感を伴う、温かな慈愛がわき出てくるのを感じていた。その優しい温もりに、カスミ自身もまた包まれていく。
「それがどうしたっていうの……。何も変わらない。私たちはこれからも――少しはケンカもするかもしれないけど――ずっと仲良く暮らしていくの。本当のお姉さんと弟みたいに……アキラは本当はお兄さんだけど……まあ、そんなことはどうでもいいか。とにかく、私たちはこれまでみたいに、お互いのことを大切に思いながら一緒に暮らしていくのよ」
――私は……。
アキラがいてくれるだけで、この少年がそばにいてくれるだけで、もう充分だ。他に何も望まない。
私はアキラを愛している――。
「でも、もうすぐ僕は……この世界からいなくなる……」
それは青天の霹靂のように突如として、力なき少女の魂を打ち砕いたのだった。




