第8章―5
「知ってるよ」
何事でもないように、少年はそう言った。いや、言いのけたのだ。
そのまま、何かを語ってくれるものと期待していたが、アキラの方から口を開く気配は見られなかった。
カスミは勇気を出して、もう一つの質問を投げかける。
「フジサキという人を知っている……?」
平静さを装う仮面の下で、かすかにアキラの表情が揺れた。
「フジサキ……アキラ……」
その名を聞いた瞬間、少年は観念したかのように表情を崩し、柔和な笑顔を浮かべた。
「なんだ……知ってたの?」
何か後ろめたい気持ちを取り繕うように、カスミは説明していく。
「街で、たまたまアキラを見つけたの。本当に偶然にね。それで追いかけていったら、病院の中に入っていって……。ねえ、あの人は誰? 同じ名前の人。アキラと無関係ではないんでしょ?」
ここにいたって、カスミはもう一つの可能性に、ささやかな希望を託していた。アキラが、その青年の名を借りているという可能性だ。
――理由なんて分からない……。
でも、それなら理屈は通る。
このおかしなルールがまかり通る世界で、まだ常識が支配するこの景色のさなかで、かろうじて納得はできる。人の名を借りることの正当性は別として――。
だが、少年が返した答えは、それとは真逆の、カスミの理解をはるかに超えるものであった。
「そっか……。じゃあ見たんだね、本当の僕の姿を……」
その瞬間、カスミの目から涙があふれ出す。止められない――。自分でも、この涙がどうして出てくるのか、ただただ困惑するしかなかった。
アキラに裏切られたような気がしたから――?
この世界の秘密をずっと黙ってきた。
それとも、あの不遇の青年が、まだ見た目も幼い、この無邪気な少年であったから――?
小さな体に、押しつぶされそうなまでの悲愴を背負わされ、その姿に憐憫を覚えずにはいられなかった。
アキラはゆっくりと起き上がり、洗い立てのタオルを探してカスミに手渡す。泣き止まないカスミに向かって、子どもをあやすような優しい声でアキラは話し始めた。
「お姉ちゃんが薬を買ってきてくれて、本当に嬉しかったんだ。僕のことを思って、そうしてくれたんだよね。こんなに大事にされるなんて、こんなに大切に思われることなんて、僕にはもう二度とないんだってあきらめていたから……」
カスミは顔を上げなかった……上げられなかった。
「だけど、僕には本当に薬は必要なかったんだよ。――誤解しないでね、薬を買ってきてくれたことはとても嬉しかったんだから。でも、この体は――どんなに苦しくたって、熱が出たって、死なないんだ……」
――死ねないんだよ……。
心の中で、少年はそう小さく付け足した。
「いったい、どういうことなの……?」
カスミは顔を上げ、アキラを真正面に見すえた。涙にぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見て、アキラが優しく微笑む。
カスミは、その奇妙な告白を気味が悪いなどとは少しも思わなかった。それどころか、この少年の置かれた境遇に――おそらく、その大部分は悲劇だ――カスミは本気で同情し、心を寄せずにはいられなかった。
アキラと過ごした日々は偽りなどではない。カスミは心から少年を信頼していたし、心から彼を――愛おしいと感じていた。その想いは、誰にも――自身でも――覆すことなんてできそうにはなかった。
「この体は借りものなんだよ」
いったい、誰に借りたというのだろう――。
「そんなこと、どうやったらできるのよ……」
アキラは答えない。ただ困ったように微笑むだけだ。
――答えられないの……?
どうして……一瞬、少年のことを疑わずにはいられなかった。だが、すぐに思い直す。
アキラが、私を陥れるようなことをするだろうか――。
この少年にとって、私はどうでもいい存在だろうか――。
――ううん、そうじゃない……。
私がアキラを想うように、アキラも私のことを想ってくれている。
――大切に思ってくれているから……。
言わないんだ、私のために。
それを聞いてしまったら、きっと私に良くないことが起こる――。
「言えないのね、私のために……」
カスミの言葉に、少年ははにかんだ。彼女なら分かってくれるはずだと――その嬉しさに、思わずこぼれた笑みのようであった。
これからアキラの口から語られる物語は、カスミに話しても許される真実に限られるのかもしれない。
だとしても――。
カスミは思った。
――いったい、それは誰に許されるというのだろう……。




