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第8章―4

 ――でも、どうして私は……。

 初めて会うこの人に、そんなふうに優しく思ってあげることができるのだろう……。

 こんなに温かい気持ちになれるのは、どうしてだろう――。

 誰に対しても、そんな感情を抱けるわけではない。

 ――私なら、なおさらだ……。

 冷たい感情。乾いた心。誰にも、閉ざした自分の胸の内へと入り込ませたりはしない――。カスミは自身をよくわきまえていた。もはや、自嘲さえ、もれ出てくることはない。

 そして、はたと気づく。こんな気持ちを抱くのは、偶然ではないことを。

 ――私は、この人を知っている……?

 カスミは、青年の綺麗な寝顔に、自分のよく知る人物の面影を重ねた。

 ――!

 そんなはずない……。

 そんなこと、あるはずがない――。

 順当に考えるなら、ベッドに横たわる青年は、自分が頭に思い浮かべた、その人物の家族や親類ということになるだろう。それが納得のいく、妥当な落としどころというものだ。

 だが、このときのカスミは、とてもそうとは思えなかったのである。むしろ、確信をもって――。

 そう、カスミは直感してしまったのだ。青年が――なぜ、そう思ったのだろう――彼女のよく知る、その人物そのものだということに。本人そのものだということに。少女は、悲しく、気づいてしまったのであった。

 カスミはベッドサイドのネームプレートを確認する。部屋が暗かったせいだけではない。そのプレートもまた、時を経て衰え、文字は失われ、青年の名を世界から奪いとっていた。

 カスミは後ろめたい気持ちを抑え、自分でも気付かぬうちに震えていた手を、そっとベッドに伸ばしていった。恐る恐る、割れものを扱うように布団をめくっていく。すき間から青年の腕がのぞいた。

 ――入院している人の腕に……確か……。

 現れた腕は、幽鬼のごとき無血色の肌をしていた。肘窩にほど近い場所には点滴の太い針が突き刺さり、つながった管を止めるテープに皮膚はかぶれ、うっすらと血がにじんでいた。

 カスミは、その痛々しい景色に目を背け、青年の手首に巻かれているであろうリストバンドを探し求めた。

 はたして、そこに、この青年の名は残っているのだろうか――。

 彼の名前を知りたい。それは当然の思いであった。だが、同時に、カスミはこうも思っていたのだ。

 ――せめて、名前だけでも、この世界に残していてあげてほしい……。

 そう願っていた。

 この小さなリストバンドだけでもいい。彼が確かにこの世界にいたという証が残っていますようにと――。

 カスミはもう気づいていた。この青年もまた、自分と同じ、世界から忘れ去られた、こちら側の住人なんだと。

 どんな理由で、どんな仕組みで、彼が生きているのか――生かされているのか――それは分からない。途方もなく長い年月を、誰からも忘れられ、そして、ここで眠り続けている。それはもう、ネームプレートの文字がかすれ、彼の名前が失われてしまうほどに。

 カスミはそっと、労るように青年の腕に手をそえた。手首のバンドに顔を近づける。

 ――ありがとう……。

 胸の奥で、小さな感謝の言葉がこぼれる。うっかりしてしまえば、言葉は雫となって、目から流れ落ちてしまいそうであった。

 神様……ありがとうございます――。

 そこに、証は残されていた。青年がここにいた、世界に存在していた、確固たる証が――。

 かろうじて。そして、奇跡的に――。


 カスミは青年の名を読み取る……。

 

 ――これは偶然なの……?

 それとも、私はまた、この世界にたぶらかされている――?

 その青年の名を、カスミはよく知っていた。


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