表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/63

第8章―2

 解熱作用のある薬は、ビルから一番近い薬局ですぐに見つかった。だが、セルフレジは設置されていない。

 ――どうしよう……。

 いつもなら、そんなふうにカスミは迷ったはずだ。

 ――馬鹿馬鹿しい……。

 こんなことで迷うなんて――。

 カスミはお釣りが出るに充分な代金をレジに置き、すぐさまビルの屋上へと取って返した。

 ――本当に、大切なことって何だろう?

 この社会のルールを守ること?

 世界の意思に素直に従うこと?

 ――そうね、みんなが気持ちよく、誰にも迷惑をかけないで生きていくには必要なことよ。

 今まで、私はずっとそう思って、そう生きてきた。

 呪いにかかってきた――。

 ――でもね、きっと、もっと大切なことがあるはずなんだ。

 それで他の人が不幸になってしまってはいけないけど、そうでなければ、本当に自分が大切だと思うものを、ささやかに大切にしているものを、もっと大事にしたっていいはずなのよ。

 ――きっと、私は……。

 今まで、本当に大切なものなんて無かったんだ……。

 ――トモコも、家族も……。

 心から、大切に思ったものなんて無かったのかもしれない――。

 ――でも……。

 今、この胸の中にある熱い想いは偽りなんかじゃない。

 ――アキラを失いたくない……。

 アキラを大切に思っている。世界なんかよりも、ずっと――。

 ――こんな世界なんて、どうでもいい……。

 アキラがそばにいてくれるだけで、私はもう充分だ――。


 アキラに薬を飲ませる。少年はもう何かを騒ぎ立てることもなく、素直にカスミの買ってきた錠剤を口にした。

「少し眠ったら? 何か食べれる? お粥ぐらいなら食べれるかな――」

 カスミはスマホでレシピを調べ、鍋に米と水とを量り入れていった。蓋をせず、そのままガスコンロの火にかける。

「だいぶ前に、お姉ちゃんに薬を買ってきたことあったよね。あのとき、僕もお粥を作ってあげようと思ってたんだよ」

 本音を言えば、今は大人しく、この少年には眠っていてほしかった。いつもの頭をキンとさせるような、かん高い声はどこかに影を潜め、どう贔屓目に見てもアキラの声は弱々しかったのだ。

「それで、僕はレトルトパックのお粥を買ってきたんだ」

「うん、美味しかったよ」

「お粥の作り方ぐらい知っておかないとね」

 それから、アキラは少し間をあけて言った。

「僕はいったい何を勉強してきたんだろう。本をたくさん読んだって、本当に大切なことを、僕は何一つ身につけてなんかいない……」

「それなら、私だって何も分かってないよ。今も、お粥の作り方、スマホで調べたぐらいなんだから」

「でも、それは今の僕には大事なことだよ。お姉ちゃんは、僕のために調べてくれたんでしょ」

 ――お粥の作り方が、そんなに大切なことなんだろうか……?

「でも、まあそうか。大事な人が弱っているときに、お粥がすぐに作れるようになるのは大切なことかもしれないね。でもさ、そんなに何でも、前もって知っておくことなんてないんじゃない。必要になったら調べたらいいんだよ。だって、何が大切なことなのか、そんなの、そのときになってみなければ分からないんだから」

「それだと、気づいたときには、もう遅かったってことにはならない? 本当に必要になったときに、それが間に合わなかったとしたら――」

 いったい、アキラは何について話をしているんだろう――カスミの頭に微かな不安がよぎる。

「なんだか、大切なものを見つけなさいって、脅迫されてるような生活になりそうだね。毎日、心配して過ごしてる。大切なものを取りこぼさないようにって。そんなだと、本当は違うのに、これは自分にとって、かけがえのないものなんだぞって、思い込んでしまうこともあるかもよ」

「大切なものは、無理して見つけるものじゃないってこと?」

「探そうとするのは悪いことじゃないと思うよ。ただ、自分に何もないからって、自分に嘘をついて、これがなければ生きていけない、なんて無理やり思い込まないようにしないとね」

 不意にアキラは口をつぐんだ。それは、時が少し止まってしまったような、あるいは時間が微かに断絶してしまったような、そんな錯覚をカスミに与えた。

「ねえ……お姉ちゃん、聞いてもいい……? そんなふうに思ってるお姉ちゃんは、だったら大切なものって何かあるのかな……?」

 なぜだろう。カスミには、そのときのアキラの声がすごく切実なものに聞こえたのだ。

 どうして、そんな声で聞いてくるの――?

 どうして、そんなことを聞いてくるの――?

 カスミはじっと考えた。適当にはぐらかすような問い掛けではないと、痛いほど少年の気持ちが伝わってきたから――。

「少し前までは、それはトモコだと思ってた……。無二の親友……互いにそう思い合っていた……。でも、違っていたのよ。この前のことで感傷的になって、そんなことを言ってるんじゃないの。私はじっくりと考えて、自分の心と向き合って、そして、分かったの。私の心は、氷のように冷たい……。あのとき、トモコに声をかけたのは、優しさなんかじゃない。義務感にかられたから。世界がそうしろと、私に囁きかけたから……」

 カスミの述懐に、アキラは黙って耳を傾けていた。

「トモコだけじゃない。母も父も、お姉ちゃんも、私には本当に大切な存在ではなかったのよ。私の心は虚ろで、ぽっかりと穴が空いているの。人が作ったルールを必死に守ることで、それが大切なことだと思い込むことで、私は自分の心を守ってきた……」

 ――でも、今は……。

「ねえ、アキラはどうだったの? アキラには、何か大切なもの、あった?」

 カスミは尋ねた。それは、今、聞くべきことだと、確信をもって、自身をカスミは疑わなかった。

 少年が答える。

「何もなかったよ……」

 ひどく寂しい声であった。初めて、アキラの本当の声を聞いたような気がして、カスミは切なく胸を締めつけられる。

「お姉ちゃんみたいに、自分を誤魔化したこともない。本当に、僕には何も、大切なものなんて無かったんだ。そんなものを見つける前に、僕は……。だから、僕はここに……」

 アキラは何かを語ろうとして、その何かをぐっと飲み込んだ。

 カスミが口を開く。今、この瞬間をおいて他にないと思ったから。

「ねえ、アキラ……。あなたは、この世界の秘密を知っているんでしょ……?」

 バカだなあ、お姉ちゃん。何を言ってるの。世界の秘密だって? 出来の悪いマンガや小説の読みすぎなんじゃない――。

 そんな軽口が返ってくるのを、カスミはどこかで祈っていたのかもしれない。

 このまま、この二人の日常がいつまでも続いていってほしいと、どこかで願っていたのかもしれない。

「知ってるよ……」

 少年は静かにつぶやいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ