第8章―2
解熱作用のある薬は、ビルから一番近い薬局ですぐに見つかった。だが、セルフレジは設置されていない。
――どうしよう……。
いつもなら、そんなふうにカスミは迷ったはずだ。
――馬鹿馬鹿しい……。
こんなことで迷うなんて――。
カスミはお釣りが出るに充分な代金をレジに置き、すぐさまビルの屋上へと取って返した。
――本当に、大切なことって何だろう?
この社会のルールを守ること?
世界の意思に素直に従うこと?
――そうね、みんなが気持ちよく、誰にも迷惑をかけないで生きていくには必要なことよ。
今まで、私はずっとそう思って、そう生きてきた。
呪いにかかってきた――。
――でもね、きっと、もっと大切なことがあるはずなんだ。
それで他の人が不幸になってしまってはいけないけど、そうでなければ、本当に自分が大切だと思うものを、ささやかに大切にしているものを、もっと大事にしたっていいはずなのよ。
――きっと、私は……。
今まで、本当に大切なものなんて無かったんだ……。
――トモコも、家族も……。
心から、大切に思ったものなんて無かったのかもしれない――。
――でも……。
今、この胸の中にある熱い想いは偽りなんかじゃない。
――アキラを失いたくない……。
アキラを大切に思っている。世界なんかよりも、ずっと――。
――こんな世界なんて、どうでもいい……。
アキラがそばにいてくれるだけで、私はもう充分だ――。
アキラに薬を飲ませる。少年はもう何かを騒ぎ立てることもなく、素直にカスミの買ってきた錠剤を口にした。
「少し眠ったら? 何か食べれる? お粥ぐらいなら食べれるかな――」
カスミはスマホでレシピを調べ、鍋に米と水とを量り入れていった。蓋をせず、そのままガスコンロの火にかける。
「だいぶ前に、お姉ちゃんに薬を買ってきたことあったよね。あのとき、僕もお粥を作ってあげようと思ってたんだよ」
本音を言えば、今は大人しく、この少年には眠っていてほしかった。いつもの頭をキンとさせるような、かん高い声はどこかに影を潜め、どう贔屓目に見てもアキラの声は弱々しかったのだ。
「それで、僕はレトルトパックのお粥を買ってきたんだ」
「うん、美味しかったよ」
「お粥の作り方ぐらい知っておかないとね」
それから、アキラは少し間をあけて言った。
「僕はいったい何を勉強してきたんだろう。本をたくさん読んだって、本当に大切なことを、僕は何一つ身につけてなんかいない……」
「それなら、私だって何も分かってないよ。今も、お粥の作り方、スマホで調べたぐらいなんだから」
「でも、それは今の僕には大事なことだよ。お姉ちゃんは、僕のために調べてくれたんでしょ」
――お粥の作り方が、そんなに大切なことなんだろうか……?
「でも、まあそうか。大事な人が弱っているときに、お粥がすぐに作れるようになるのは大切なことかもしれないね。でもさ、そんなに何でも、前もって知っておくことなんてないんじゃない。必要になったら調べたらいいんだよ。だって、何が大切なことなのか、そんなの、そのときになってみなければ分からないんだから」
「それだと、気づいたときには、もう遅かったってことにはならない? 本当に必要になったときに、それが間に合わなかったとしたら――」
いったい、アキラは何について話をしているんだろう――カスミの頭に微かな不安がよぎる。
「なんだか、大切なものを見つけなさいって、脅迫されてるような生活になりそうだね。毎日、心配して過ごしてる。大切なものを取りこぼさないようにって。そんなだと、本当は違うのに、これは自分にとって、かけがえのないものなんだぞって、思い込んでしまうこともあるかもよ」
「大切なものは、無理して見つけるものじゃないってこと?」
「探そうとするのは悪いことじゃないと思うよ。ただ、自分に何もないからって、自分に嘘をついて、これがなければ生きていけない、なんて無理やり思い込まないようにしないとね」
不意にアキラは口をつぐんだ。それは、時が少し止まってしまったような、あるいは時間が微かに断絶してしまったような、そんな錯覚をカスミに与えた。
「ねえ……お姉ちゃん、聞いてもいい……? そんなふうに思ってるお姉ちゃんは、だったら大切なものって何かあるのかな……?」
なぜだろう。カスミには、そのときのアキラの声がすごく切実なものに聞こえたのだ。
どうして、そんな声で聞いてくるの――?
どうして、そんなことを聞いてくるの――?
カスミはじっと考えた。適当にはぐらかすような問い掛けではないと、痛いほど少年の気持ちが伝わってきたから――。
「少し前までは、それはトモコだと思ってた……。無二の親友……互いにそう思い合っていた……。でも、違っていたのよ。この前のことで感傷的になって、そんなことを言ってるんじゃないの。私はじっくりと考えて、自分の心と向き合って、そして、分かったの。私の心は、氷のように冷たい……。あのとき、トモコに声をかけたのは、優しさなんかじゃない。義務感にかられたから。世界がそうしろと、私に囁きかけたから……」
カスミの述懐に、アキラは黙って耳を傾けていた。
「トモコだけじゃない。母も父も、お姉ちゃんも、私には本当に大切な存在ではなかったのよ。私の心は虚ろで、ぽっかりと穴が空いているの。人が作ったルールを必死に守ることで、それが大切なことだと思い込むことで、私は自分の心を守ってきた……」
――でも、今は……。
「ねえ、アキラはどうだったの? アキラには、何か大切なもの、あった?」
カスミは尋ねた。それは、今、聞くべきことだと、確信をもって、自身をカスミは疑わなかった。
少年が答える。
「何もなかったよ……」
ひどく寂しい声であった。初めて、アキラの本当の声を聞いたような気がして、カスミは切なく胸を締めつけられる。
「お姉ちゃんみたいに、自分を誤魔化したこともない。本当に、僕には何も、大切なものなんて無かったんだ。そんなものを見つける前に、僕は……。だから、僕はここに……」
アキラは何かを語ろうとして、その何かをぐっと飲み込んだ。
カスミが口を開く。今、この瞬間をおいて他にないと思ったから。
「ねえ、アキラ……。あなたは、この世界の秘密を知っているんでしょ……?」
バカだなあ、お姉ちゃん。何を言ってるの。世界の秘密だって? 出来の悪いマンガや小説の読みすぎなんじゃない――。
そんな軽口が返ってくるのを、カスミはどこかで祈っていたのかもしれない。
このまま、この二人の日常がいつまでも続いていってほしいと、どこかで願っていたのかもしれない。
「知ってるよ……」
少年は静かにつぶやいた。




