第7章―4
「気づいたの……。私、やっと気づいた……この世界の仕組みを……」
満天の星々が見下ろすビルの屋上で、アキラは一斗缶ストーブに火を起こし終えたところであった。
階段を駆け上がる音が近づいてきたかと思うと、なりふり構わずといった様子のカスミが屋上に飛び込んできた。はあはあと息を荒げながら屋上の入り口で立ちつくしている。焚き火の灯に照らされた顔は、涙でもうぐしゃぐしゃになっていた。
カスミはアキラの姿を認めると、さらに気持ちが込み上げてきたのか、堰を切ったように瞳から大粒の涙をあふれさせた。そして、そのまま崩れるように座り込み、顔を手で覆い隠した。
「気づいたの……。私、やっと気づいた……この世界の仕組みを……。どうして、私がみんなから忘れられなければならなかったのかを……」
無防備に泣きじゃくる幼子の姿がそこにあった。アキラは何も言わず、そっと毛布をカスミにかけてやった。軍手をはめた手で一斗缶ストーブを彼女の方に寄せる。
毛布にくるまれたカスミの肩が小刻みに震えている。この世界の冷ややかさが身体に浸透していき、今まさに彼女の魂までも凍えさせようとしているのかもしれない。こんなストーブではカスミを温めてやることはできない。そんなことはアキラも重々承知していた。
「私が世界から忘れられてしまったのは……」
震えながら、カスミは声をしぼり出した。風が吹けば、今にも消え入りそうなロウソクの灯に似て、あまりに悲しく切ない声であった。
「世界から忘れられてしまったのは……私が……私が……誰からも必要とされてなかったからなんだ……」
カスミがアキラと出会ったばかりの頃、家族や友人から忘れられ、誰からも気づかれなくなってしまう、この異常な状況について話し合ったことがある。ウイルスを介在した病いや社会的実験としての陰謀説……いずれも原因としてはしっくりこないものばかりだった。しかし、思い返してみると、それらはすべて形ある――実体のある理由であった。
それが、人の気持ちであったり、心であったりと、何やら掴みどころのない虚ろな居場所に原因があるという。こんな話、いったい誰が真剣に聞いてくれるというのだろう。信じてくれるというのだろう。
もうすぐ、あきれ顔をしたアキラが、いつものように大人びた口調で諭してくれるかもしれない。
何を夢みたいなこと言ってるの、お姉ちゃん――。
そんなことあるわけないじゃない――。
そんな正論でカスミの目を覚ましてくれるはずだ。だが、いつまで経っても、アキラが口を開こうとする気配はなかった。
「私たちは誰からも必要とされない……。いらないのよ……。だから、世界から消えるの……」
今も、カスミは声を押し殺して泣いているのだと、アキラには分かった。こういうとき、そっとしておいてあげるのが正解なのだろうか。それとも、話を聞いてあげるのが正しいのだろうか。
分からない……。
世界の深淵に触れてはいても、人の心はいつも分からないことばかりだ――。
ならば、自分の心に素直に従ってみようとアキラは思った。
「いったい、どうしたっていうの、お姉ちゃん……。どうして、そんなふうに思ったの……?」
「私は、あそこで止めるべきだったのよ……。友達を……トモコを……。誰にも気づかれないとか……そんなの関係なかったはずなのに……。」
トモコはときどき嗚咽で息ができなくなりながらも、必死に喉の奥から声をしぼり出し続けた。まるで誰かに述懐するように。懺悔でもするかのように。
「だって、誰にも気づかれなくったって、私はトモコを止められたはずなのに……。誰にも見えてなくったって、私は誰かを押し飛ばすことだって、引き止めることだってできるのよ……」
カスミは肺の片隅に残った空気さえも使いきり、自分の中に巣食った毒素を吐き出していった。最後まで言葉を綴ることが、自分の責務であるかのように。許されざるとも、それが最低限の贖罪であるかのように。
「気づかれなくたって……体をはって止めることができたはずなのに……。抱きしめることができたはずなのに……」
カスミは顔を上げた。ぐしゃぐしゃになった顔をアキラにさらけ出した。あさましい自分を、惨めな姿を、洗いざらい目に焼きつけてくれと、その瞳が語っていた。
「トモコを抱きしめてあげられなかったのは……私がトモコのことをその程度にしか見てなかったってことでしょ……。そんな自分を誰が本当の友達だと思ってくれるの! 必要としてくれるの!」
――この世界は、よく見ている……。
私の本当の姿を――。
「誰からも必要とされないなら、存在することに値しないって……。だから、世界は……私をこの世界から消したのよ……」
――それが、この世界の仕組み……。
神様や悪意達がデザインした世界の形……。
法則……約束事……。
――私が消えるのは当たり前のことだったんだ……。




