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第7章―3

 ――日が暮れるのも早くなったな……。

 もうそんな時季かと、えも言われぬ感慨にカスミは襲われた。

 まだ桜の花が舞っていた……。

 皆に忘れられた、あの日の夕暮れ――こんなふうに世界は随分と早く閉じられていったような気がする。

 ――急がないと。

 カスミは夕食の材料を買い出しに、帰宅する人々で混み合う町中をすり抜けていった。

 相も変わらず、誰彼となくぶつかってこようとする。それも仕方のないことだ。彼らの瞳には、カスミの姿は映っていないのだから。一方的に避けるのはカスミの方ばかり。何かの罰ゲームのように、それにももう慣れてしまっていた。

 そんなふうに、カスミが駅にほど近い歩道を進んでいたときのことだ。

 ――あれ……?

 ふとすれ違った人物に見覚えがあった。通り過ぎてしまってから、時間差でカスミの意識に上ってきたのだ。

 振り向く――。確認せずにはいられない。

 ――トモコ……?

 親友であった。いや、かつての――と、付け加える必要があったかもしれない。

『私はカスミのことを忘れない』

 そう言ってくれた親友は、もういない。障害物としても数えてもらえぬカスミのすぐ横を、無表情に彼女は通過していった。

 ――元気にしてるのかな……。

 そう思ったところで、声をかけることもかなわない。いや、躊躇われると言った方が正確なのだろう。

 自分のことが見えていないとはいえ、町中で同級生と鉢合わせしてしまうと、今でも体に緊張が走る。居心地が悪くなる。

 この日も、かつて親友だった子……と、小さな痛みを胸に抱えながら、ただすれ違っていくものと思っていた。これからの二人の人生が、互いに平行線をたどり、決して交わることはないのだろうとの確信をもって――。

 だが、何かが違う。カスミのそんなセンチメンタルな気持ちとは別のところで、胸騒ぎを覚えずにはいられない小さな違和感が、そこにはあったのだ。幼い胸に生まれた、小さなしこりのように……。

 カスミは、トモコを目で追いかける。

 一人ではなかった――。

 彼女の隣には、歩調を合わせるようにして歩く、大人の男性の姿があった。

 たまたま同じスピードで歩いているのではない。そこには明確な意図をもって――男性だけではない、トモコもまた――並んで歩こうとする、二人の姿があったのだ。

 ――トモコ、お父さんいなかったよね……。

 真っ先に浮かんだ言葉がそれであった。彼女を弁護するために、だが、カスミの中にも迷いが浮かび……。つまりは、隣にいる男性が、トモコの母と離婚したはずの本当のお父さんだと、カスミはまず思い込みたかったのだ。

 二人の距離は親子のそれに近い。手を繋いではいなかったが、互いに少し動かせば、すぐに触れてしまうような位置にある。それは他人の距離ではなかった。

 カスミは二人が手を繋いでいないことに、少なからずほっと胸を撫でおろす。

 この年代の女子が、はたして父親と手を繋ぐなんてことがあるのだろうか――。

 中には、そんな仲良しな親子関係もあるだろう。だが、大勢がそうであるように、カスミもまた――父親との仲は良好ではあったが――父と娘が手を繋ぐ、そんな発想を思いつくことなどありえなかったのである。

 目の前を行くトモコと男性の距離は、だから、カスミにとってはまだ救いであった。離れていた父親と娘の久方ぶりの再開。そう思い込むことができたから――。

 だが、胸騒ぎはおさまらない。カスミは買い物のことも忘れ、二人の後を追いかけた。

 二人の背中を視界の中央にすえ、見逃さない程度に間隔をあけ追跡する。そんなことをせずとも、誰からも気にもされず、見えてもいないはずなのに。時折り、電柱の陰に隠れてみたりもする。それは、どこか後ろめたい気持ちがあるからなのだろうか。それに、この胸騒ぎはいったい何処から来るものなのだろうか。

 ――ああ、嫌だな……。

 そっちには行きたくない――。

 角を曲がるたび、二人が向かう先を、カスミは祈るような気持ちで見守った。街はすっかり夜の底に沈み、いつしか道路は明滅するピンク色のネオンに照らし出されていった。

 意識的にか無意識か、カスミは胸の内にくすぶる、まだ形を成さない不安の影を必死に押し隠していた。自身に決して気づかせないように。あたかも愚者を演じているかのように。

 そんな姿の見えない不安が際限なく掻き立てられる場所に、いつの間にかカスミは足を踏み入れてしまっていたのである。

 きっと二人は親子に違いない――。

 近道のため、こんな場所を通っているんだ――。

 ここを通り抜けた先に、きっと二人が本当に行こうとしている目的地があるんだ――。

 カスミは自分に言い聞かせる。何度も何度も。祈るようにして。

 同時に、叫んでもいた。行かないで――心の中でトモコに呼びかけ続ける自分がいる。

「行かないで……」

 カスミはつぶやく。思いは、いつしか本当の声になっていた。

 だが、その声は消え入りそうにか細く、トモコと自分を隔てるこの距離を越えるには、あまりにもはかなく無力だったのである。

 ホテルが軒を連ねる界隈であった。艶やかな光に淡く照らされた道を、腕を組んだ男女がちらほらと行き交う。どこか甘く濃密な匂いが、カスミの肌にねっとりと絡みついてきた。

 ――行かないで……。

 もう一度、そう思った。

 カスミの眼差しの先で、トモコと男性はホテルの中へと消えていった。


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