第7章―1
あの夏の日は、いったい、いつの頃の話だったろう。花火を見上げた夜が終わってしまってからも、二人が顔を見合わせ笑う日々は続いた。相手を思いやる毎日が、並んだ音符のように優しく奏でられていった。
たとえば、カスミがバイトを終えた帰り道。誰彼となく突き飛ばされ歩いてきた彼女を、アキラは街の一角で迎えるように待っていた。スーパーでアイスを買い、食べながら一緒に家路へと向かう。
たとえば、何もすることのない平日の午後。図書館のソファーで、めいめいが選んできた本を静かに眺めていた。その内に、だんだんとまどろんできて、二人は肩を寄せ合い眠ってしまう。
たとえば――。
たとえば……。
そんな、ささやかな日常が幾つも通りすぎていき――だが、しかし、カスミはまだ元の世界には戻れないでいた。
世界は慎重にすぎるほど、みずからの秘密を懐深く、そっと大切にしまっていた。そう、見方によれば、まるでカスミと張りあうようにして――。
夏は過ぎてしまった。秋はかげりを見せ始めていた。大陸の外れでは、寒気団という名の軍隊を引き連れた将軍が、虎視眈々とこちらに渡る機会をうかがっていた。もう、冬が訪れようとしていたのだ。
「こんなところで焚き火しても大丈夫なのかな……」
カスミの目の前に、盛大に炎を噴き上げる一斗缶が置かれていた。切り抜かれた上部の開口部からは、パチパチと爆ぜる音に合わせ、火の粉が舞い上がっている。幾筋もの線を描き、宙へと帰っていく。
「あいかわらずの心配性だね。こんな世界に遠慮してやる必要なんてないのに。でも、まあ大丈夫だよ。ここで火を焚いてるからって、気にする人間なんて誰もいやしないんだから――」
――そういうことじゃないんだって……。
カスミがそう思っているところへ、お姉ちゃんの考えなんてお見通しだよと言わんばかりの、得意げな顔をしたアキラが説明を続けた。
「今まで、火事になったことなんて一度もないから。周りのビルも、ほら、こんなに離れてる。それに見てよ、この屋上。燃えるものなんて何もないでしょ」
確かに、周囲のビル群は自分たちを、この場所を、必要以上に避けるみたいに距離をとっている。カスミ達が住んでいる屋上も、がらんと自分達の荷物以外に目につくものはない。
――私達の荷物は燃えたら困るでしょ……。
「それよりも――」
こんな些末なことなんて、もうどうでもいいからといった調子で、アキラはさっさと話題を切り替えた。
「そんなことよりも、今考えないといけないのは台風のことだよ」
「そうだけど……」
「台風が直撃したら、ここは本当にやばいんだから。全然、風を防いでくれないからね。前に張ってたテントも飛ばされたんだよ」
町に台風が訪れようとしていた。季節外れの――と頭に飾りがつけられる類いの台風だ。明日の夕刻から明後日の未明にかけ、このビルの屋上は、ものの見事に暴風域に飲み込まれてしまう。
「そうだね……。どうしよう。どこか別の場所で、明日の晩は過ごそうか」
「それがいいと思うよ。荷物は非常階段に置いとこうよ。シートをかぶせて、とにかく飛ばされないようにヒモでぐるぐる巻きにしてやったらいいんじゃないかな」
「荷物はそれでいいけど、私達はどこに行ったらいい? 駅前のファーストフードにでも行く?」
――あそこなら真夜中でも営業している。
「でも、落ち着かないよね。あの店、夜になっても、お客さん多いし。横になって眠れないし――」
「そっか……。一晩中、テーブルに突っ伏して寝るのは、さすがにしんどいもんね」
「お姉ちゃんは寝られると思うけどね。僕は繊細なんだよ」
はあ、何言ってんのよ。どの口が言うか――。
カスミは分かりやすく頬を膨らませてみせた。
「じゃあ、他にどこか良い場所、思いつく?」
「横になって寝れる場所でしょ。そうだなあ……。あ、駅の構内とかショッピングモールとかは?」
「いや! 絶対にいや! それって、泥棒みたいに忍びこむってことでしょ」
「えー? ナイスアイデアだと思うけどなー。きっと温かいし、雨も風も全然へっちゃらだよ。横にもなれるし……。あ!」
いいこと思いついた――アキラの顔がそう言わんと輝いた。
「却下! どうせ、良からぬこと考えたんでしょ」
――家具屋さんにでも忍び込んで、ベッドで寝ようなんて言い出すんじゃないの?
「ショッピングモールに家具屋さんが――」
「却下!」
アキラはまた、えー、と大げさに眉をしかめてみせた。
「でも本当に、どこで一晩、明かそうか。人には迷惑かけたくないし……」
「人が寄りつかないといえば公園だよ」
それはそうだ。誰が好き好んで、台風の夜に公園に行きたいなんて思うだろう。
――公園か……。
カスミは普段よく利用する――お手洗いを借りたり、洗濯や洗い物をする――公園の景色を思い浮かべた。
「確か屋根のついた休憩所みたいな所があったよね」
アキラも同じ光景を頭に描いていたようだ。
「東屋のことでしょ。でも、あそこ、壁がないよ。きっと風もきついから、横から雨も吹き込んでくると思うし」
「そうだね……。あ、じゃあさ、このブルーシートを持っていって、そこにテントを張ればいいんじゃない? どうせ取り外さないといけないんだし」
カスミは最初、うーんと迷っていたが、よくよく考えると、それも悪くない選択肢だなと思うようになった。
――誰かに迷惑をかけることもなさそうだし……。
気兼ねなく一晩を過ごせるかもしれない。
「そうだね。それも悪くないかもね」
「もし思ってたよりも台風が凶暴だったら、最悪、トイレの中に避難すればいいんだし――」
――うーん……。できれば、それは避けたいな……。
心の中で、カスミは静かにそうつぶやいた。




