第6章―3
テントの中は、アキラが独りで暮らしていたときのように、役割を忘れてしまった時間がその動きを止めていた。
カスミはすぐに見つかった。重ねて敷かれたダンボールの上で、毛虫みたいに毛布にくるまって――。
「お姉ちゃん!」
アキラは飛びつくように、カスミの傍らに膝をついた。
「アキラ……おかえり……」
「どうしたの、大丈夫?」
カスミは何でもないのよと、無理して笑顔をつくった。だが、顔面は蒼白で、まるで血が通っていないかのようだ。
「全然、大丈夫そうじゃないよ。熱はあるの?」
「熱はないと思うよ……。頭痛がひどいだけ……。ねえ、アキラ、そんなに心配しないで……。横になってたら、すぐに良くなるから……」
「そんなはず、あるわけないよ! お姉ちゃんは病気のこと、甘く見てる!」
アキラの顔は本気で怒っていた。目が少し潤んでいる。怒りをもたらすものは、何も不安やストレスばかりではない。悲しみもまた、さまざまな形をとって世界に表出するのだ。
「僕、薬局に行ってくる」
そう言い残すと、アキラはもうテントを飛び出していた。
「アキラ、本当に大丈夫だから……」
だが、少年の背中にカスミの声が届くことはなかった。
どうして、この事態が――病気にかかってしまうことが――この世界において、もっとも危惧しなければならないことなのか――。
アキラは町を走っていた。
――薬局に行けば薬は手に入る。でも……。
そこまでなんだ――。
つまりは、それ以上、手の施しようがないということだ。
医者にかかれない――。
単純明快で、これほど致命的な事実はない。この世界で、アキラ達は自由と引き換えに、支払わなければならない代償を突きつけられているわけだ。
薬局に置かれている薬でどうにかなればラッキーだ。だが、その病が専門性の高い治療装置を必要としていたら? 単純であったとしても手術が必要になったとしたら?
――この世界は、すべてが自由で、すべてが不自由だ……。
僕らは自由の刑に処せられている――。
アキラは薬局に駆け込むと、脇目も振らず、風邪薬が陳列されている棚を目指した。目の前にさまざまな名称がつけられた商品が並んでいる。名前だけでなくパッケージのデザインも、繁華街で主張しあうネオンサインみたいに、眺めていると目がチカチカしてくる。
いったい、カスミに必要な薬はどれなのか――。
薬局に常駐している薬剤師に尋ねることなど当然かなわない。
――なんで、こんなにいろいろあるんだよ。もっと、はっきりさせてくれよ!
多くの選択肢が用意されていることと、最善の選択ができることは同義ではない。むしろ、選択肢が増えれば増えるほど、人は立ちすくみ、何も選べなくなってしまうのだ。
――これも何かの啓示だって……。
あいつらは言いたいのか!
世界が指し示す、真理の――あるいはその一部、その側面の――メタファー。
――ふざけるな!
アキラは、その見えざる声の持ち主に向かい悪態をついた。
アキラは幾つかの商品を手に取り、必死にパッケージ裏に記載されている薬の説明や効能に目を通した。どれも似たようなことしか書かれていない。
はっきりさせてくれ――。
アキラはもう一度そう思った。
――思い出せ、カスミは何て言ってたか……。
熱はない……頭痛がひどい……。
風邪だって熱が出ないこともあるだろう。
――でも、今カスミが苦しんでいるのは、頭の痛みなんだ……。
病名なんて分かるはずがない。何の病気かなんて決められるはずもない。
――ちゃんと医者に見てもらっていた自分でさえ……。
アキラは頭を振った。また明後日の方向に思考がそれようとしている。今はそんなことを考えているときではない。
――頭が痛いと、カスミが言っている……。
それなら、今すべきは、その痛みを抑えてやることだろう。
アキラは鎮痛剤が置かれている棚を探した。風邪薬に負けず劣らず、その陳列棚もまた、夜の街のように煌びやかに着飾っていた。
再び、アキラは幾つかのパッケージを手に取り、記載されている説明を目でなぞっていった。書いてあることなど、どれも大して変わらない。
――それならもう、いっそのこと……。
アキラは陳列棚で一番幅を利かせている――もう安泰だと大きな顔をしてふんぞり返っている――パッケージを一つ、つかみ取った。
――要は、一番売れてるってことだろ。
アキラはレジに直行した。だが、この店にセルフレジは設置されていない。
――お姉ちゃんは文句を言うかもしれないけど……。
アキラはポケットに突っ込んでいたお札を取り出すと、それをレジ台の上に叩きつけた。何かがあったときのためにと、カスミが手渡してくれていたお金だ。
レジに立っていた店員は、不意に揺れた台を訝しげに眺めた。そして、さらに困惑し顔をゆがめることになる。このお金はいったい何処から来たのだろう――と。
――足りるはずだよ。
アキラの姿はもう店の中にはなかった。手にした薬の金額は確認した。消費税もしっかり計算した。
アキラは走っていた。町を、人をすり抜けて――。
馴染みのスーパーにさしかかる。
――カスミは、ご飯、何か食べられるかな……。
すぐに思いついたのはお粥だ。お米をくたくたになるまで炊いた、とろとろの白がゆ。
――作り方が分からない……。
自分は、この世界のすべてを知った気になって……でも、本当に大事なことは何一つ分かってなんかいない。
アキラはスーパーに立ち寄り、レトルトパックの白がゆを購入した。セルフレジを操作しながら、アキラは自分の無能さに身悶えた。無力さを歯痒く感じた。
カスミが目覚めると、目の前にこちらをのぞき込むアキラの顔があった。
――こんな表情もできるんだ……。
寂しさともまた違う。心細そうに――まるで母を失う子どものように――怯えていた。
「お粥、食べる? 薬も買ってきたんだ」
「ありがとう……。でも、本当に風邪とかじゃないの」
「……」
アキラはまだ納得がいっていない顔をしていた。
――どう言えば、いいのかな……。
カスミは悩んだ。今の自分の状態をどこまで――どの段階まで――説明したらいいのだろうか。
「女の人はね――」
カスミは微笑を浮かべながら話し始めた。実際に、少し横になっていたことで、ずいぶんと気分は良くなっていたのだ。頭の中であれほど暴れていた痛みも、今ではわずかばかりの余震を残すばかりだ。
「女の人はね、月に一回、こんなふうに心と体が崩れるときがあるの。病気じゃないのよ」
「じゃあ、本当に大丈夫なんだね?」
「うん。明日になれば良くなってると思う」
腰が砕けるように、アキラの顔から力が抜けていった。残されたのは、心底安堵した表情――混じり気のない純粋な思いであった。
「よかったー。お姉ちゃんがいなくなっちゃうんじゃないかって、本当に心配したんだから」
カスミは思った。
――私はもう……。
私の都合でいなくなるなんてこと、できなくなったんだね……。




