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第6章―2

 公園の水道で食器やフライパンを洗いながら、アキラはここ一月の出来事を振り返っていた。

 カスミが初めてのアルバイトを経験して以降、同じ手順と手法で、すでに五回の交通量調査のバイトをこなしていた。

「もう少しで、今日は働き損になるとこだったよ――」

 危うくバイト代を貰いそびれそうになったときもあったが、それを除けば、仕事はいつも概ね順調であった。

「やっぱり、僕がついていないとダメだね」

 アキラも自分の用事がないときは――いったい少年にどんな用事があるというのだろうか――頼まれてもいないのに、バイトにいくカスミに付き添った。

 そんなわけで、今現在、経済的にすぐ困ってしまうという状況にはない。

「交通量調査のバイトって、結構、競争率高いんだよ。うかうかしてたら、すぐに無くなっちゃうんだから」

 カスミは機会があれば、常に募集されているアルバイトに応募していたし、本当に必要なものだけを購入し倹約にも努めていた。

 ――何を買ったかな……。

「ご飯、炊きたいよね」

 お米を炊くために鍋を買った。

「冷蔵庫は無理でも、少しくらい何か冷やして保存できるものってないもんかな?」

 当然、ビルの屋上に電気など来ているはずもない。冷蔵庫を買えるかどうか以前の問題なのだ。

「じゃあさ、クーラーボックスってやつはどう」

「冷やすために氷が必要でしょ?」

「スーパーに置いてくれてるじゃない。無料で持っていってくださいって」

「えー、でもなぁ……」

 食材を無駄にしないため、一気買いはできない。そのため、カスミ達はほぼ毎日、馴染みのスーパーに足を運んでいた。アキラはそこで提供されている保冷用の氷を使わせてもらえばと提案したのだ。

「いくらタダだからって、クーラーボックスに使うのはやっぱりダメでしょ」

 ――まただ……。

 どこまで、この世界に遠慮すれば気がすむんだろう?

 アキラはカスミのことが心配になった。将来、カスミが本心から譲れない選択を、誰かと取り合う形で突きつけられたとき、はたして彼女はどう決断するのか。笑顔をつくって相手に譲る――そんな光景しか浮かんでこない。

 ――それで、カスミは幸せになれるんだろうか……。

 と、そんなことを胸の内で本気で心配している自分に、アキラは思わず自嘲してしまった。

 ――自分がそんなことを気にするのか……。

 よりにもよって、こんな自分が――。

 恥知らず――そんな言葉が頭をよぎった。

 それに、実際のところ、何かを選択する未来なんて、カスミには――もちろんアキラにも――残されてはいないのかもしれないのだ……。

「毎日、買い物しているのは本当なんだし、ビルに持ち帰るまで冷やしておくのも、間違ったことしてるわけじゃないでしょ」

 アキラはそう説得し、常識的な範囲で利用させてもらうならとカスミを納得させたのだった。

 クーラーボックスを手に入れると、途端に料理に使える食材が増え、メニューの幅が一気に広がった。中でも卵と牛乳、チーズやバターといった乳製品が保存できるようになったのは大きい。それらは小分けにして購入することが難しかったからだ。

「やっぱりシチューやグラタンって美味しいよね」

「グラタンにチーズをのせて焼くことはできないけどね」

「そういうのって、生グラタンって言うのかな!」

「無理して名前をつけなくてもいいんじゃない……」

 カスミに浮かれていると思われたんじゃないかと、アキラはほんのり茹であがった自分のほおをさり気なく誤魔化さなくてはならなかった。実のところ、そのときのアキラは天にも昇るような気持ちになっていたのだ。

 ――まさか、手作りのグラタンが食べれるなんてね……。

 アキラにとって、それは忘れることのできない特別な料理であったのかもしれない。

 ――それから、他に何を買ったっけ……。

「ねえ、アキラ。これ、どう思う?」

 バイトから帰ってくるなり、カスミは嬉々として袋から服を取り出し、そう尋ねたものだ。

「――前に買った服とそんなに変わらないね」

 カスミは分かりやすく膨れっ面になり、お子ちゃんには難しかったかなどと呟きながら、机の上に購入した服を並べていった。

 似たような色合いのTシャツを二枚と黒のジーパン。確かに、最初のバイト代で手に入れたファストファッションの服と代わり映えのしないものばかりだった。

「お姉ちゃんはスカート履かないの?」

「まあ、今はズボンの方がいいかなって……」

 年頃の娘だ。おしゃれもしたいだろうに、結局は実用的なデザインの服に行きついてしまう。実際のところ、それまでのカスミはズボンを履くことの方が稀であったのだ。

 ――カスミならスカートの方が似合ってると思けどな……。

「あれ、まだ袋に何か入ってる?」

 机の端に置かれたエコバッグが、潜めた膨らみを隠しきれないでいた。

「ああ、これは何でもないの。それより――!」

 慌ててカスミは、袋を背中の後ろに追いやった。

「アキラの下着だけど――」

 またか、という表情をアキラは浮かべた。

「前も言ったけど、パンツなんてたくさんあるからいいよ」

「ちょっと、本当にやめてよね。拾ってきた下着を着るなんて――」

 実のところ、さすがにアキラでも、拾ってきた――どこの誰が履いたかも分からないような――パンツを使うのには抵抗があった。だから、カスミには内緒にしていたが、衣服類の中で下着だけは、申し訳ないと思いつつ、お店から黙って拝借していたのだ。必要最低限――アキラが自分に課したルールにのっとって。

 結局のところ、その後、押し切られる形でアキラの下着も買うことになるのだが。

 ――でも、どうしてかな……。

 買ってもらったパンツを履くと、やっぱり気分はよかったのだ。

 こんなふうに、二人の生活は慎ましくも――実際には慎ましいという言葉でさえ事足りぬ生活ではあったけれども――まるで本当の姉弟のように、ぬくぬくとした毎日を過ごせるまでになっていた。

 アキラはよく笑うようになった。誰かを上から見下ろすような、人工知能の浮かべる乾いた冷笑ではない。腹の底から――それこそお腹が痛くなるほどに――魂が揺れてもたらされる愉快な気分を、少年は押し留めることができなくなっていたのである。


 公園での回想は、アキラの心を元気づけた。洗い物に行ってくると屋上を飛び出したときに抱えていた感情も、今となってはどこへやら、思い返すのも難しいほどだ。

 ――そうさ、たまたま機嫌が悪かったんだ。

 人には、そういうことがままあるんだよ。

 行きと同じことを考えながら、アキラはビルの屋上に戻ってきた。

 ――きっと、カスミは笑顔で迎えてくれるはずさ。

 ありがとう、という言葉と一緒に――。

 だが、非常階段を上りきって屋上を見渡しても、カスミの姿はどこにもなかった。洗濯物を放り込んだカゴがそのまま放置されている。

 嫌な予感がした――。

 アキラは急いでブルーシートのテントに駆け込んだ。

 そして、愕然とすることになる。

 ずっと危惧していた事態が――この世界でもっとも気をつけなければならない事態が――そこに待ち受けていたのだった……。


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