第6章―1
その日は朝から、やけにカスミの機嫌が悪かった。
アキラと相談して決めた当番は色々とあったが、朝食をつくるという今朝の仕事もカスミはしっかりとこなしていた。簡単なサラダをつくり、ソーセージと卵を焼いて、コーンスープも付けている。食パンをコンロで炙れば、お店のものと遜色のないモーニングセットの出来上がりだ。
だが、今朝の食卓には何かが欠けていた。それは互いに交わす言葉であったかもしれないし、何気なく浮かべるささやかな笑顔であったかもしれない。
カスミの口数は少なく、アキラが振った話題への反応も「うん」だとか「へえ」だとか、まるでそこに見えない行き止まりがあるみたいに、二言三言も行けば止まってしまう。返された言葉にも――表情にも――説明するのは難しいが、どこか険があるように感じてしまうのだ。
――どうしたんだろう……?
今、彼女が何を思い、何を考えているか。そんなこと、アキラに分かるはずがない。
少年はただ察することしかできない。理解できない不安にただ怯えるしかない。
他人の胸の内をのぞくことは容易くない。むしろ、人の気持ちを本当に理解できるなどと思っているなら――幻想を抱いているなら――それは傲慢というものだろう。アキラはそう思う。
人は簡単には自分の心をさらけ出したりはしない。同じ意味合いにおいて、人は誰かを容易には自分の中に受け入れたりはしない。
自分の魂と心は、何人にも汚されない――当人にとっては――神聖で絶対的な不可侵の領域なのだ。
この朝の気まずさが何であるのかを――アキラはカスミの不興を買うことを恐れ、その浅く土を被った根っこの部分を探るのをあきらめた。
「食器、洗ってくるよ」
静かな朝食がすむと、アキラはただちに皿やコップを重ね、スポンジと洗剤とを一緒にフライパンに放り込んだ。
「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけて」
カスミがそう口にしてくれたおかげで、アキラは少しだけ気持ちが軽くなった。
――たまたま、何か機嫌が悪くなるようなことがあったのかな……?
ビルの非常階段を下りながら、アキラはそう考えた。
それとも、そう思っている自分の方が、どこか間違っているのだろうか――。
彼女は普段となんら変わらない。そこにいるのは、いつも通りのカスミで、観察しているアキラの方がどこかおかしくなってしまったのかもしれない。小さなズレは、そうとは気づかれにくく、やがて大きな差異へと成長していってしまうものだ。そして、深い水の底でひそかに育まれた、その大きな断絶もまた疑われることはない。逆にどうかすると、それが人としての自分の成長だと信じてしまう事態だってありえるのだ。
――分からない……。
世の中は、分からないことだらけだ。アキラの中に自然とその言葉が浮かんできた。
図書館で本をたくさん読んだって――むしろ読めば読むほどに――分からないことが増えていく。それは世界が指し示す真理の――あるいはその側面の――暗喩のようなものなのだろうか。
――いやいやいや……。
そこまで考えて、アキラは頭を振った。
――僕はいったい何を考えている……。
真理? 暗喩?
そんな大層な言葉が出始めた頃から、アキラは自分の思考がずいぶんと突飛な方向に脱線しだしていると、思わず吹き出していた。
――そうさ、たまたま機嫌が悪かっただけさ。
理由もなく――そういうことが、人にはままあることなのだろう。
アキラはもう、今朝の出来事について考えるのをやめた。頭の中を切り替え、爽やかな朝がまだ欠伸をこぼす町を、渓流に泳ぐ淡水魚のように、すいすい、すり抜けていった。




