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第5章―5

「思ったんだけど……」

 毛羽だった、だが太陽のいい匂いのする毛布にくるまり、カスミはそう切り出した。

 ブルーシートでしつらえられたテントの天井を、スマホのライトが照らしている。拾ってきた段ボールを幾重にも重ねた上に、二人はまるで姉弟のように並んで横になっていた。

「今のこの状況って、いったいなんなんだろうね――」

 家族でもない二人が、こんなボロボロのバラックに並んで寝ている――その現在の状況を言っているのだろうか。アキラは最初、本気でそう考えた。

 ――いや、それはさすがにないか……。

 確かに、この奇妙なシチュエーションは興味深く、考察に値するものであるようには思われたが――。

 アキラが返答を戸惑っていると、先にカスミが口を開いた。意見を求めているのではないようだ。自分の考えを聞いてほしい、あるいは話しながら考えをまとめたい――ここは聞き役に徹しておくべきだなと、アキラは思った。

「何かの病気やウイルスではないと思うの。初めの頃は、そんなふうに考えたりもしてたけど――。ここまで来たら、さすがにその可能性はないかなって。それぐらい、私にも分かるよ」

 つまるところ、当初カスミが考えていた、遠方で暮らす祖父や祖母に助けを乞う――その選択肢を、彼女はみずから放棄したということだ。天から垂らされた、その細すぎる線にすがるのは、あまりに危うく心許ない。いらぬ期待は、それが潰えたとき、カスミの心を無惨に引き裂いてしまうだろう。

「あと、こんなことも考えてみたんだけど……」

 自分でそう振っておきながら、カスミは言い淀んだ。

「まさか、実験か何かで、わざとみんな、私たちのこと無視してるわけじゃないよね」

 国が主導して実施されている社会的な実験――要は大規模な村八分が行われているのではないかとカスミは言いたいのだ。

 ――それにしたって……。

 あまりにも隙がなさすぎだろう。

 どれだけ皆の演技が徹底しているというのか。ここまで綻びの一つも見せる気配はなかった。カスミはまだ三日しか経っていないが、それとは比べるべくもない時を――途方に暮れるに充分な時間を――アキラは独り、この世界で生きてきたのだ。それだけの年月、舞台に立つ役者が一切のNGを出さずに演じきる――一流の演者ばかりがそろっているではないか。

 ――どれだけ贅沢なキャスティングなんだよ。

 もしそうだったならと、アキラは胸の内でほくそ笑んだ。

「そんなわけないよね――」

 みずから仮説を持ち出しておきながら、カスミは苦笑いを浮かべた。

「どうして、そうじゃないって言い切れるのさ?」

 アキラも当然その可能性はありえないと思っている。だが、言い出したカスミが早々にその選択肢を切り捨てた理由を――ちょっとした反発心が芽生えたのかもしれない――問い質さなければと、アキラは疑問を投げ返したのだ。

「だって、そんなことされる価値が、私にはないんだもん。こんな、どこにでもいるような中学生を相手に、そんな大掛かりなことして、何の意味があるっていうの?」

 カスミはさらに付け加えた。

「どんな得があるっていうの? それはアキラだって同じでしょ」

 最後のフレーズは、確かに何一つ言い返せない、ぐうの音も出ない真理をつかれてはいた。だが、そんなふうに言い切られてしまうと、やはりどこか微妙に納得のいかないもやもやとしたものが、アキラの胸の内にわき上がってくるのだった。

「そんなことないかもしれないよ。お姉ちゃんには、実はものすごい価値があるのかもしれないよ」

 カスミは毛布から手を出して、ないないと、しつこいくらいに顔の前でその手を振った。

 ――そう思ってるのは、お姉ちゃんだけかもね……。

 自分でも意識しないように努めていた、アキラの深層に秘められていた言葉――それが思わず心の表層にまで浮かび上がってきていた。

 ――いけない、いけない……。

 今はまだ、そのときではない――。

「ねえ、アキラはどうして、こちら側に来たの? あのホテルの屋上に、気づいたら立っていたって言ってたよね――」

 カスミの方から話題を切り替えてくれた。アキラは、少しほっとした。

 あのまま『価値』について議論を続けていれば、アキラは余計なことまで口走っていたかもしれない。

 ――それに、カスミはさっき……。

「どうして――」

「こちら側に――」

 そう聞いてはこなかったか。

 ――気づき始めてるのかもしれない……。

 それはまだ無意識のまどろみの中で、言葉としては形作られてはいなかったとしても――。

「ねえ、前はどこに住んでたの?」

「覚えてないんだ。この町に住んでいたのは間違いないんだけど……」

 アキラはそこで話を止めようとした。だが、その続きはと期待するカスミの目にうながされ、アキラは口を開かざるをえなかった。

「いろんな光景が、町の景色が、どこか頭の中に引っかかってはいるんだ。でも、そこで自分は何をして――何を考えていたのかも――さっぱり覚えていないんだ」

「ふーん……」

 カスミはアキラの目を覗き込んで、何かを考えているようだった。

 ――見透かされたか……?

 だが、自分は上手くやれたはずだ。演じられたはずだ。

 その気になれば、アキラはみずからに、偽りを真実だと吹き込ませることもできるのだから。

「そっか……。それは、なんだか寂しいね」

 ――寂しい……?

 久しく胸の奥でわき起こらなかった感情だ。その名を耳にして、なぜかアキラの心はそっと揺れた。

 その言葉が、ただ空気を振動させる空虚な物理現象だったなら、アキラの魂はこんなにも震えなかっただろう。自分の内と外とでは、世界の法則が異なるのだ。

 カスミの発した言葉には心がこもっていた。温かい気持ちが込められていた。

 カスミの魂の在り処ではたらく法則もまた、アキラのそれと寸分違わない。それが、この気だるい世界を媒介して、アキラの元にもたらされたのだった。

 ――どうして、こんなに……。

 アキラは自身の心の動きに困惑せずにはいられなかった。

「どれも理由としてはしっくりこないね……」

 そう言い返すのが精一杯であった。

「そうだね……。じゃあさ、他にどんな理由が考えられるか、アキラには分かる?」

 そのときのアキラは、あまりにも心が揺れていて冷静ではいられなかった。だから、ただ一言、アキラはつぶやいてしまったのだ。

「それが、世界の仕組みなんだよ……」

 それは答えとしては、まったくもって理解できない、納得しがたいものであった。にもかかわらず、それは限りなく真実に近い答えのように――カスミには聞こえたのだった。


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