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第5章―4

 いざスマホの画面を前にしてみると、いったい何を書けばいいのだろうと、指は表示されたキーボードの上をしばらくさまよった。

 伝えたいことは山ほどあるはずなのに、文字にしてみると、なぜか空虚な絵空事みたいに感じられる。どこか他人事のような、孤独な記号達が寂しく、ただ寄り添っているようにしか見えなかった。

 助けて――!

 つまるところ、訴えたいのは、その一言につきる。だが、素直にその言葉を綴れないのは、無駄だろうと、早々にあきらめている自分が、どこかにいるからなのかもしれない。それよりも、

 私はここにいる――。

 私は消えてなんかいない――。

 そちらの方が、今の感情としてはしっくりくる。

 大変だけど、私は元気にしているよ。頑張ってるよ――。

 それは誰かに知ってほしいというよりは、自分を鼓舞するために、自らの存在を振り返るために、どうしても必要な作業のように思われた。

 ――自分はここにいる。

 消えてなんかいない……。

 カスミはスマホに残る、古い文字を掃いて消していった。まっさらな画面に向かって、新たな文字に想いを託し、文章を綴っていく。

 まずは家族へのメッセージだろう。最初に書き始めたのは母親に向けてのものだった。深く考え、そうしたのではない。何の疑問も浮かばず、それは必然のことのように思われた。


 お母さん、元気にしてる?

 私も元気に頑張ってるよ。

 今日、晩ご飯を作ろうとしたんだけど、いろいろと足りないものもあってダメだった。

 でも、いつかはちゃんと作るつもり。

 ご飯を作るのって大変なんだね。いろんなこと、考えないといけないんだね。

 いつも美味しいご飯を作ってくれてたんだ……。


 文字がにじんで上手く見えなくなった。目には涙があふれていた。

「お姉ちゃん……」

 アキラがタオルを手渡してくれた。お日さまの匂いがする、あの真っ白なタオルだ。

「ありがとう……」

 カスミはそのタオルで涙を拭い、アキラに伝えたのと同じ言葉を――思いを――一文字、一文字、手を振るわせながら入力していった。たった五文字が、やけに長くもどかしく感じられた。

 お父さん、働くのって――お金を稼ぐのって大変なんだね――。

 お姉ちゃん、冷蔵庫の私のプリン、食べてないよね――。

 そう書きながら、カスミは小さく笑った。

 ――こんなときなのに、私は何を書いているんだろね……。

 それでも、今の自分が書くべきことは、これを置いて他にはないとなぜか信じられた。

 次は、友達への――トモコへのメッセージ。


 トモコ、学校の方はどう?

 クラスのみんなも元気にしてる? 変わりない?

 私は今、ちょっと学校には行けそうにないけど、でも絶対に、またみんなと会えるように、頑張って必ず戻るからね。

 それにすごい経験もしたんだよ。

 私、アルバイトをしたの……。


 そこまで入力して、カスミの指が止まった。はたと気づいてしまったのだ。そのメッセージに、えも言われぬ違和感を覚えている自分に。

 先ほどまでの疑いようのない確信はどこへやら、カスミは得体の知れない迷いにとらわれだしていた。

 こんなことを、私は伝えたいの――?

 ――ううん、そもそも……。

 意識の表層には現れない、明確に言葉では言い表せない――認めたくない――その思いに、カスミは震えた。

 ――私は友達のことを……トモコのことを……。

 その続きを、カスミは言葉にできなかった――したくなかった。

 無意識のうちに、カスミは自分の深層をのぞき見ることを放棄していた。

 怖い……。

 それが、そのときカスミが抱いた――自身に抱いた――偽りのない感情であったのだ。


 カスミが送信したメールは、確かに相手に届いた。数秒とかからず、一字一句、欠けることなく。

 アルバイトのエントリーのときのように、電子化された文字は――カスミの想いは――たとえ世界であっても、無かったことにはできなかったようだ。

 だが、メールに表示された差出人の名前には、もはや命は宿ってはいなかった。カスミの名は、無機質なただの記号として扱われ、やがて誰彼となく、迷惑メールのフォルダへと仕分けられていった……。


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