表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/63

第5章―3

 町が茜色に染まる。追いかけるように薄闇が路地のすき間を埋めていく。その様子は、まるで薄墨の液が縦横に張り巡らせた生物の毛細管に浸透していくみたいに見えた。

 ビルの屋上では、カスミとアキラ、二人だけの宴が始まろうとしていた。とはいえ、ハンバーグのお弁当に温かいお茶ぐらいのものではあったが――。

 それでも、二人にとっては、それは不思議と特別な祝宴のように思われた。

 カスミがアルバイトを経験し、大きく成長できた。バイト代が手に入り、少しだけ気持ちが軽くなった。そして、何よりも――カスミだけでなくアキラにとっても――この世界に潜んでいた新たな可能性を垣間見ることができたのだ。それは思いもかけない僥倖であった。

 これで何もかも上手くいく――なんてことは、さすがに二人とも思ってはいない。思いもしない。

 ――でも、今は……。

 少しくらいお祝いしてもいいはずだよね。

 ささやかではあったけれども――。

 百円ショップで購入した麦茶ポットから、温かいほうじ茶をコップに注いでいく。アキラが拾ってきたという、カセットコンロと鍋でお湯を沸かしたのだ。

 コンロに取り付けるカセットボンベも百円ショップで買ってきた。ところどころ、うっすらとサビの浮いたコンロがはたして使えるのかどうか。カスミはボンベをセットし、恐る恐るツマミを回していった。

「ほら、言ったとおりでしょ。心配することなんてなかったんだよ」

 アキラの自信がいったいどこから来るのか分からなかったが、拍子抜けするほどあっさりと、コンロからは青い炎があがった。

 鍋を公園の水道で洗い直し、空っぽになったペットボトルに水を入れ屋上に持って帰ってきた。ティーバッグを放り込んだポットに、沸いた湯をなみなみと注いでいった。

 湯気の立つお茶を口に含むと、体中の力が抜けていった。気が抜けていったというべきかもしれない。カスミは心から、ほっとした。まだ、温かいお茶が嬉しい季節だったのだ。

 食事をしながら、カスミは昨日よりも落ち着いている自分に気がついた。アキラと何気ない会話をしながら、くつろいでいる。それは服を着替えたことも無関係ではなかっただろう。

 ジーンズにTシャツ――その上にジップパーカーをカスミは羽織っている。ファストファッションの店で買い求めたものだ。それに替えの下着も――スポーツブラとセットのショーツ。そして、靴下。

「本当にアキラはいらなかったの?」

「いらない、いらない。拾ってきたのが、たくさんあるから」

 遠慮してるのかなとも思ったが、正直なところ、ありがたいと安堵したのもまた事実だ。

 こんなに貰えるの――!

 嬉々として手に入れたバイト代であったが、いつの間にか随分と目減りしていた。財布に穴でもあいているのかと疑ってしまったほどだ。

 世の中、お金が全てではないと思っている。そう信じているし、高らかにそう謳う人もたくさんいるではないか。

 ――だけど……。

 お金がなければないで不安になる。それもまた事実だ。明日のことさえ――将来や未来、そんな先のことなんて、とんでもない――暗闇の先に霞み、想像することも許されない。

 ――夢を描くことなんて、とてもじゃないけど、できないよね……。

 誰かにとっての普通は、他の誰かにとっての普通ではないのだ。

「あのさ……。私、思ったんだけど」

 食事も終わろうとした頃、カスミがそう切り出した。

「今日のことで分かったんだけど、メールとかスマホ経由でメッセージを送ったら、相手はどうしても無視できなくなるんじゃないかな」

 確かに、上出来すぎるくらいにバイトのエントリーは上手くいった。

「パパやママ、お姉ちゃん――それに友達にも、メッセージを送ったら気づいてもらえるんじゃないかな」

 アキラはすぐには返答しなかった。頭の中で何かを考えているようだった。

「そうだね。たぶん、そのメッセージは届くと思うよ……」

 まだ何か言葉が続くものと期待していた。だが、アキラはそれ以上、何も口にせず、黙りこんでしまった。

「なあに、なんだか歯切れの悪い言い方だね」

「本当に分からないんだよ、どうなるかなんてことは――。アルバイトはうまくいった。それはすごいことだよ。僕も驚いてる。でも、だからといって、何もかも上手くいくなんて……」

 アキラはそこで口をつぐんだ。後に続く言葉は、思えない――だったかもしれないし、思ってはいけない――だったかもしれない。

「そうだね……」

 カスミは一言そうつぶやくと、何か物思いにふけるような表情で、ハンバーグの欠片を箸でつついた。

 たったそれだけのやり取りで、宴の席はまるで告別の夜のように沈んでいった。

 自身でその場の雰囲気を読み取って、みずから重さを増した空気の圧力に、アキラは口を封じられているような気分になった。

「それでも……」

 張りつめた空間にほころびが穿たれる。カスミが口を開いた。

「やってみようと思うの……。やってみなければ、何もわからない。何も始まらない――」

 ――それでまた……。

 私が傷つくようなことがあったとしても――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ