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第5章―1

「楽勝だったね」

 アキラはときどき花壇の縁に飛びのり、おっとっととバランスをとった。並んで歩道を進むカスミには、こんなアキラの姿は――要は子どもらしい姿は――初めて見る。新鮮であった。

 いつも大人びた口調で、世界のことを何でも分かったように口にする。だから、今のアキラを見ていると、ほっとした。これがアキラの本当の姿なんじゃないかと。

 ――一緒に喜んでくれてるのかな?

 もしかすると、自分のことのように喜んでいるのかもしれない――この小さな成功を。

 そう、カスミは成功したのだ。この不明瞭な状況のもと、自分がみずから責任を負った仕事を最後までやり抜くことができた。

「楽勝、楽勝」

 アキラは陽気に、またその言葉を繰り返した。まるで呪文でも唱えるかのように。

「お手柄だったね」

 カスミがそう言うと、アキラは振り返って満面の笑みを浮かべた。少し季節の早い、向日葵が咲いたような笑顔だった。

 交通量調査のアルバイトの途中、アキラはカスミと合流した。そして、そのまま仕事が終わる午後三時まで、何のトラブルもなく――もちろん交代のタイミングで、いろいろな試行錯誤はあったにせよ――順調に最後まで責任を果たせたといっていいだろう。お昼の休憩時間には、アキラと一緒に昼食もとった。

 唯一の問題が生じたのは、アルバイト料が支払われる、いよいよ最後という段階になってからであった。

 カスミ達はパイプ椅子を持ち場に残し、駅前へと戻ってきた。朝、集合したあの場所だ。

 戻ってきてみると、折りたたみ式の長机を前にして、あのスーツ姿の男性が待ち構えていた。

「それでは、今からアルバイト代をお支払いします。順番に並んで、前まで来たらカウンターとボードをお返しください」

 なぜだろう、カスミは焦りを覚えて、よく考えもせず列に並ぼうとした。

「お姉ちゃん、やめた方がいいって」

 アキラがそう口にしたときには、もう遅かった。カスミは列に並ぼうとする人波に勢いよく突き飛ばされてしまっていた。

 ――いつまで経っても、私は学ばないな……。

 それはカスミだけが思ったことではなかったようだ。アキラのあきれた表情を見れば、同じような感想を抱いているのが手に取るように分かる。

 カスミは列の最後尾についた。前方の机では、スーツ姿の男が二言三言、並んだ人間と言葉を交わし、それから金庫の中を探って封筒を手渡していっている。

 これなら、交代のときと同じ要領でいけるかもしれない――。

 ――やっと、アルバイト代がもらえるんだ。

 カスミはドキドキしてきた。

 自分が気づかれないことで、はたしてそのバイト代を受け取る際に、どんなやり取りになってしまうのか。そんな未来を想像して、不安にならずにはいられなかった……のではない。

 もちろん、それは不安要素の一つには違いなかったが、カスミがこのとき小さく昂っていたのは、初めて仕事をして、初めてその対価をもらう――そんな記念日的な意味合いにおいてであった。

 ――まさか、こんなに早く経験することになるなんてね。

 昨日までなら、のぞくことも叶わなかっただろう、自分の知らない新たな世界の一つ。そこに、友達の誰より先に、カスミは足を踏み入れることができたのだ。

 いよいよカスミの番がまわってきた。つまりは最後の一人ということになる。

 カスミはスーツ姿の男性と向かい合って、机にカウンターとボードをそっと置いた。交代のときと同じように、相手がそれに気づいてくれればいい。

 ――え……?

 小さな焦燥に、カスミの心はつかまれた。

 ――見てない……。

 スーツ姿の男は、もはや机の上を気にもとめていなかった。バイト代を渡していない人間が残っていないか、辺りを見回し確認しているようであった。

 ――最後の最後に、こんな……。

 今日一日の頑張りは、こんな形で終わってしまうのだろうか。

 いろいろな葛藤があった。それを乗り越え、ここまでやってこれたというのに……。

 ――ううん、まだあきらめたらダメだ……。

 何か方法があるはずだよ。私を気づかせる方法が、何か……。

 だが、焦るばかりで頭の中には何も思い浮かばない。

「お姉ちゃん……」

 アキラも今の切羽詰まった状況に気がついたのだろう。カスミを心配して、側に駆けつけてきた。

「どうしよう。私のこと、気づいてもらえない……」

「何か方法があるはずだよ。お姉ちゃん、あきらめないで!」

 だが、こんなときにもかかわらず――いや、むしろこんなときだからこそ――カスミの脳裏には、バイト代を受け取れなかった未来の光景ばかりが浮かび上がってくる。

 ――結局、無理だったのかな……。

 アキラの言う通り、この世界のルールに従って生きていけばいいのかな……。

 ――その方が楽でいい。悩まなくてもいい……。

 カスミは甘美な誘惑に魅了されそうになった。いや、すでに片足は踏み入れていたかもしれない。無関心な世界、悩みなきその生き方に――。

「お姉ちゃん、金庫が片付けられる!」

 アキラが叫んだ。

 その瞬間、カスミの体は動いていた。何かを考えて行動したのではない。

 怒り――。

 カスミを動かしたのは、単純で、そして透き通るように美しい――怒り、そのものであった。

 こんな仕打ちを、何の力も持たない一人の少女に平然とできてしまう――そんな世界に憤りを覚えたのだ。

 ――私が、めそめそと泣いて崩れ落ちるとでも思っているの?

 ――何も抵抗せずに、ただ打ちひしがれて終わってしまう……そう思っているの?

 怒ったっていいんだ――。

 ――これは怒ったっていいことなんだよ!

 そして、カスミは何をしたか――。

 叩きつけた!

 ボードを手にして、それを力のかぎり机に叩きつけたのだ。

 バンと大きな音が鳴った。

 ――ああ……。

 スーツ姿の男は机の上を見た。だが、男はその盛大にぶちまけられた音によってではなく――驚きもしなかった――ボードが叩きつけられた勢いで揺さぶられた机に対して、気が向いたようであった。

 ともかく、そのことによりカスミのボードは男の目にとまる。

 こんなボードが置かれていただろうか――。

 しっかりとバイト代を支払う処理をしたのだろうか――。

 男は不安になり、もう一度、金庫の中に手を入れた。一枚の封筒を取り出す。

 ――あっ……。

 ちらっと、その封筒にカスミの持ち場が印刷されているのが見えた。

 ――あの封筒を、どうにかして貰わないと……。

 カスミがそう思ったときである。ひょいと、どこからともなく手がのびて、男の手から封筒が抜き取られた。

 ――え……。

 男もカスミも一瞬あっけにとられた。

 だが、男の方はすぐに何事もなかったかのように、平然とした表情に戻る。そして、カスミのボードを片付け、金庫を片付け、最後に机を片付けた。男はそれらを歩道に寄せられた白いバンに載せると、自らも助手席に乗り込み、後に何一つ形跡を残さず、鮮やかに颯爽と去っていった。

 その場に残されたのはカスミとアキラだけ。アキラは薄っぺらい封筒をぴらぴら振りながら、カスミに向かって、にかにかと笑顔を見せてみた。

「あきれた……」

「別に悪くはないでしょ。受け取るべき正当な報酬をもらったまでだよ」

「それでも、貰い方ってものがあるでしょ……」

「そんな考えじゃ、一生もらいそびれて、おしまいだよ」

 アキラは封筒をカスミの手に乗せた。

「なんにせよ、お姉ちゃん、おめでとう。こんな世界でも、仕事ができて、お給料ももらえるんだね」

 新たな発見だよ。これはすごいことだよ。アキラは興奮していた。

「そうだね……。うん、よかったよ」

 カスミも嬉しかった。仕事を成しとげたこと、バイト代を初めてもらえたこと、そして、それらをこの困難な状況を乗り越え達成できたこと。

 カスミの中に小さな自信がめばえた。

「今晩は、ご馳走だね!」

 アキラはもう一度、大きな笑顔を浮かべた。

「お祝いしちゃう?」

 カスミも笑みを浮かべた。

 にっこりと、満面の微笑みを――。


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