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第1章―2

 カスミは扉を前に逡巡していた。

 隠れるようにして顔を洗い、制服に着がえ、カスミはダイニングに入る扉の前でその一歩を踏み出せないでいた。

 ドアの向こうから家族の話し声が聞こえる。そっと聞き耳を立て、自分の話題があがっていないか確認する。

 カスミのいないところで、好き勝手に自分のことを話されるのが嫌なのではない。いや、少し前までならそうだったかもしれない。だが、今はむしろ、カスミはまだ起きてこないのか、体調がすぐれないのか、そんなふうに自分の話題が会話の中に浮かび上がってくれていることを切に祈っていた。

 自分のことを心配してくれていることを――自分が愛されていることを――確認したかったのではない。カスミが知りたかったのは、それとはずいぶんと方向のズレた、言葉では上手く言い表せない、今の自分が置かれている奇妙な状況についてであった。

 ――昨日よりも、それは良くなっているのだろうか……。

 それとも悪化しているのだろうか。

 悪性の腫瘍が何食わぬ顔で静かに体に浸透していくように。気づいたときにはもう取り返しがつかない……。

 ――いや、そもそもこれは問題でも何でもないのかもしれない。

 自分が気にかけている状況、感じている不安、それらはただの気のせいなのではないか。

 カスミは扉の前でいつまでもそんなことを考え続けていた。向こう側に家族が待つ、そのドアをどうしても開けることができないままに。

 カチャ……。

 そんなとき、不意に内側からダイニングの扉が開いた。母が立っていた。

 ――ああ……。

 カスミは気が遠くなった。気を抜けば、絶望の淵から足を踏み外してしまいそうになった。

 読み取ってしまったのだ。母の表情に現れた――その感情を……。

 世界は凍った。二人は固まった。

 先に動いたのは母親の方であった。

「あら……遅かったのね。早く朝ごはん食べちゃいなさい……」

 何かをとりつくろうように、母はすぐに目をそらした。

 テーブルで席についていた父と姉とも目があう。予期していた通り、彼らの表情にも先の母親と同じ困惑が――隠しきれず、まざまざと――現れていた。

 そして、はっと何かに気づいたように――気まずそうに――父と姉は一斉に口を開いた。

「そう……だな……。早く食べてしまいなさい」

「ほら……遅刻するよ……」

 そう言うと、二人とも慌てて視線をそらし、押し黙った。胸の内で何かを述懐しているかのように――。

 だが、皆がテーブルの上を見たとき、いつもの穏やかな朝の食卓は、決定的に凍りついてしまった。

 ――ああ……。

 カスミをのぞく家族の誰もがそう混乱した。自身達に疑念を抱いた。

「ううん、いいの。今日はなんだか食欲ないから」

 沈黙が支配するその空間に、カスミの声だけが惨めに響いた。

「わたし、もう行くね」

 カスミは廊下に姿を消した。

 母親が動揺もあらわに自分の娘を呼び止める。

「待って。お弁当、忘れてる!」

 母はキッチンを振り返った。

 ゾッとした……。

 そこにあったのは二つの弁当箱――それは父と姉のものだけだったのだ。

 そう、食卓の上にもカスミの朝食は用意されていなかった。

 母が玄関まで追いかける。

 そこにはもう、カスミの姿はなかった。


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