第4章―5
とんでもないことをしてしまった――。
焦るあまり、男からカウンターとボードを奪い取ってしまった。
――もう、おしまいだ……。
やってしまった……。
カスミは恐る恐る、男や周囲の人間の様子をうかがった。しかし――。
「E6……」
何事もなかったように、呼名は再開された。あんなに激しくボードをはぎ取ったというのに。男は涼しい顔で次々と名前を読み上げていった。
周りにいた人間も同様だった。何事もなかったかのように平然としている。
カスミのとった非常識な行動は、彼女の存在と同列に扱われ、無視されてしまったのだろうか。
素直に言えば、ショックであった。だが、これでなんとか次のステップに駒を進めることができる。
「それでは、各自、地図に書かれている持ち場に移動してください」
その声を引き金に、集団は三々五々に散らばっていった。カスミもボードにはさまれた地図を頼りに移動を開始する。必然的に同じ持ち場に向かう集団の後を追うことになった。
歩いて数分、駅前からそれほど離れていない、四車線の道路が交わる交差点にカスミはやってきた。交差点の四隅には、すでにパイプ椅子が二脚ずつ――仕えるべき主人を失ったみたいに、寂しげに――景色の一部と化して、まぎれていた。
カスミは地図に書かれた自分の持ち場、自分のパイプ椅子に向かった。
ここまで来れば、誰の目にも明らかだろう。カスミが今からしようとしているのは、交通量調査のアルバイトだったのだ。
並んだパイプ椅子の片方には、すでに男性が座っていた。くたびれた紺のパーカーを着て、黒いリュックを椅子の横に立て掛けている。
男はリュックから水筒を取り出し、湯気の立つ液体を口に含んだ。
ただそれだけのことなのに、カスミはなぜかこれからの長丁場を予期せねばならなった。あるいは覚悟せねばならなかった。
カスミもその男と並ぶように隣のパイプ椅子に腰かけた。
――大学生かな……?
違うような気がした。
まだ二十代の、それも前半の容貌には違いない。だが、その顔はあまりにも活力に乏しく、疲れきっているように見えた。どこか希望というものを信じられず、むしろ、そのたたずまいは、この世界を達観しているふうを装っているみたいでもあった。
「よろしくお願いします……」
返事を期待して、そう言ったのではない。礼儀として――ただカスミ自身が納得するために――挨拶をしただけのことだった。
カスミはパイプ椅子に深く腰かけ、朝の街を見渡した。街はまだ目をこすっていた。起きたばかりで、頭もまだぼうっとしているみたいだ。喧騒とはまだほど遠い。車も人も目の前の交差点をまばらに行き交うばかりであった。
そんな交差点に、くたびれた紺のパーカーを着た男性と、セーラー服に身を包んだ女子中学生が並んで座っている。
通り過ぎる人間が、もしこの奇抜な組み合わせを目にすることができたなら、それはいったいどんな喜劇に映っているのだろうか。
――そうか……。
ずっと悲劇だと思ってた。でも、見方によっては喜劇にも見えるんだ。
同じ舞台、同じ役者――見る者が違えば、映る景色も違う。
この滑稽な世界を、私は文字通り笑えるときがくるのだろうか――。
時間がやってきた。時間はいつも向こうの方からやってくる。
足音も立てず、望むも望まざるとも……。
時計は七時を指していた。カスミは生まれて初めての仕事を経験することになる。
ある意味において、それは世界に強要されたと言えなくもない。




