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第3章―1

「ここだよ」

 アキラに連れてこられたのは街の一角、ビルとビルの間にあいた隙間の前であった。

 ――ここって……。

 どこ?

 少年が指している『ここ』という場所がいったいどこなのか、カスミには見当をつけることさえできなかった。

 家においでよというアキラの誘いにのり、こんなところまで付いてきた。マンションまでとはいかないが、せいぜいぼろぼろのアパートぐらいのものだろうとカスミは想像していた。だが、そこはカスミの予想のはるか斜め上をいく――場所というよりはむしろ――地点、であった。

「あの、どこに……」

 カスミの質問が終わらないうちに、アキラはためらうことなく、その隙間へと体を滑り込ませていった。

 奥は闇だ。少年は溶けるようにその中へと姿を消していった。まるで元々が――その正体が――闇であったかのように。それはごく自然な出来事のように思えた。

 街灯に照らされ歩道に立ちつくしているカスミに、暗がりの奥からアキラが呼びかける。

「お姉ちゃん、来ないの? 大丈夫だよ。何も心配することなんてないよ」

 ここにきて、カスミはまたアキラという少年に対して警戒心を抱かずにはいられなくなった。少年について分かっていることなど、何一つないのだ。

 それなのに、こんな所までほいほいと付いてきてしまった。

 ――あの子のことを信用してもいいんだろうか……。

 いや、そんなこと、判断できるわけがない。あの少年に関する情報はあまりにも乏しすぎる。それどころか、少年の言動は不信感と反発心をあおるにはもってこいときている。

「お姉ちゃん、怖いなら手を引いてあげようか」

 闇の中にアキラの顔だけが浮かび上がった。その表情はあどけない少年のようにも見えたし、よこしまな笑みをたたえた邪鬼のようにも見えた。

 カスミはもう一度考えた。

 ――ここまで付いてきたのは何のため?

 寂しかったから?

 ――ううん、そうじゃない。

 私は知るためにここに来たんだ。

 あの少年から世界の秘密を聞き出すためにやって来た。

 ――逃げ出すわけにはいかない。

 いきなり巡ってきたチャンスだ。こんな機会はもう二度とないかもしれない。

 カスミは足を踏み出した。

 アキラはカスミの決断を見届けると、ふたたびその顔を闇の中に溶けこませていった。

 カスミがあらためてその隙間を観察すると、それはかろうじて路地と呼べる体裁を保っていた。本当に申し訳程度の幅しかなかったが……。

 だが、その空間は申し訳ないなどとは思ってもいなかっただろう。そんなことは気にもとめていない。素知らぬふりをして昔から、ただそこに在りつづけてきた。

 カスミは路地に足を踏み入れた。その瞬間、身体中のあらゆる感覚器官が違和感にさいなまれる。

 ――空気が重い……。

 堆積している――。

 カスミの脳裏にそんな言葉が思い浮かんだ。

 息を吸い込むと、おそろしく濃い。吸い慣れない濃密な空気に肺があえぐ。

 ――まるで太古の空気みたい……。

 生物の中に眠る生命の記憶のようなものがあるのなら、カスミは今その琴線にふれたのかもしれなかった。

 路地は――その空間は――この世のありとあらゆる循環システムの輪から外れていた。迷い込んだものは例外なく滞留を余儀なくされてしまう。それはもう、恐竜が闊歩していた時代から――。

 カスミはさらに歩を進めた。闇の中に足を踏み入れる。

 光はまったく届いてはいなかった。まるで何者かが光の粒子をすべて吸いこんでいるみたいだった。

 真の闇は光を喰らう――。

 カスミは突如、漆黒の宇宙に投げ出されたかのような錯覚に襲われた。

 重力は感じているはずなのに、上や下といった感覚がない。それどころか、自分の存在さえ、あやふやで自信が持てなくなっていく。

 私はここにいるのだろうか――。

 私はここに存在しているのだろうか――。

 そして、こうも思った。

 ――いや、そもそも……。

 私は存在していたのだろうか――。

 ここにいて、よかったのだろうか……。

 カスミを唯一この世界につなぎ止めているものは、手をついた、ひんやりとした壁のなんとも頼りない感触だけであった。

 ――私が存在していることを……。

 こんな、ざらざらとした壁だけが証明してくれる。

 何かが存在するためには、それを保証してくれる――認識してくれる――何かが、また必要とされるのだ。

 アキラの姿は当然のように見えなかった。カスミが路地に足を踏み入れて以降、声をかけてくる気配もない。

 やはり、あの子は誰かの御使いで、

 ――ここは冥府への入り口なのかもしれない……。

 だが、カスミに戻ろうという選択肢はなかった。思い浮かばなかった。

 このまま、行き着くところまで行ってやる。

 ――そこに何が待っているか、見てやるんだ。

 不思議と恐れはなかった。好奇心というものでもなかった。

 ただ、自分は進まなければならないと、心の奥底から何か叫ぶものがあった。

 止まってたまるか――。

 そのとき、壁の感触がふっと消えた。唐突に、そして忽然と――。

 戸惑うには充分であった。カスミは突如、闇の中に放り出された。

 だが、目がその闇に慣れてくるにしたがい、カスミはあの路地を抜けきったことを理解した。

 見上げれば、町中の星の消された夜空が、頭上に開いた空間に窮屈そうに閉じ込められていた。

 カスミは自分がどこかぽっかりと空いた場所に出てきたことを把握した。

 そして、その空間には視野の大部分を占める、闇よりも深い――真なる闇――が、目の前に聳え立っていた。


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