第2章 怪しい賃貸人
「ちょっと聞いて、理真ちゃん、由宇ちゃん」
降乃論子は、ビールをぐいとひと口あおると、ジョッキをテーブルに叩きつけた。降乃論子、愛称“論ちゃん”。新潟県警生活安全部生活保安課に所属する、こう見えてもいちおう刑事だ。降乃刑事を紹介するさいに、この「いちおう刑事」という文言は欠かせない。なにせ論ちゃん、真っ赤なフレームの眼鏡をかけて、ティーン向けファッション雑誌から抜け出てきたようなガーリーな服を着て、今日の髪型はサイドに分けた三つ編みおさげだ。そもそもの童顔も相まって、彼女をひと目見て「刑事」と看破できる人間はこの世界に存在しないと断言できる。
今日は降乃刑事から「久しぶりに飲みたい」と連絡をもらったため、こうして彼女指定の居酒屋に理真と二人ではせ参じたという次第だ。入店してくるなり『ドラゴンボール』が大好きな降乃刑事は、「オッス! オラ悟空」といつもの挨拶をかましてお客や店員の注目を一瞬集めてから、先に来ていた私たちを見つけて席に合流したのだ。
「どうしたのよ、論ちゃん」
理真は静かにカシスオレンジのグラスを口に運びながら、早々に顔を赤くしている降乃刑事の愚痴を聞く態勢に入る。
「あのね……」
降乃論子刑事が語るところによれば……。
最近、新潟市内を流れる小さな河川で、古くなった橋を架け替える工事が新潟県から発注された。架け替えるといっても、橋がない状態が生ずるのは不便となるため、古い橋は残したまま、その近くに新たな橋を架け、その新橋が開通してから古いほうの橋を撤去するという手順で工事は進む予定だそうだ。事件は、その新しい橋を架ける工事の途中で起きたという。
「新しく作る橋脚の構造にね、設計ミスが見つかったの」
橋脚というのは、川の中に建てて橋桁を支える、文字通り橋の脚となる構造物のことだ。話によれば、橋の設計を担当したコンサル会社が、その鉄筋コンクリート製の橋脚について強度計算ミスをした設計書を納品し、役所もそのミスに気づかないまま実際の工事発注がかかってしまったのだという。設計どおりに施工をしてしまうと、橋の上を大型トラックなどの重量貨物車両が通った際の安全基準を満たせなくなってしまうらしい。設計書のミスを発見したのは工事を請け負った会社の設計士だった。が、時すでに遅し、新しい橋の橋脚は、すでにそのほとんどを作り終えてしまっていたのだった。
「途中まで作ったからって、ミスした設計のまま工事を続けるわけにはいかないじゃない。だから、もったいないけど中途半端に作った橋脚をいったん壊して、新しく正確な設計のものを作り直すことになったのね。やり直しの設計費と、橋脚を壊す工事費は当然、そのコンサルが負担することで一度は決着がついたのよ。ところがね……」
降乃刑事は、そこでまたビールをあおると、今度はことりとやさしくジョッキを置いて、はあ、とアルコール混じりのため息を漏らした。
「何があったの?」
焼酎を喉に流し込んで、私が促すと、
「橋の近くにあるオンボロアパートにね、人が住み始めちゃったのよ!」
降乃刑事は眉を釣り上げた。一方、私と理真は顔を見合わせてきょとんとする。
「人が住んじゃいけないの?」と理真が、「誰にだって居住権はあるんだから、正式な手続きさえ踏めば、誰がどこに住もうが問題はないと思うけど」
「それはそうなんだけど……。まあ、聞きなさい」
「はい」
設計ミスをしたまま途中まで作ってしまった橋脚を取り壊す方法として、当初は大型ブレーカーという機械を使用することで決まっていたという。ショベルカーのアーム先端に、油圧式の打突機器を取り付けて、そのピックで構造物を叩いて破壊する工法だという。
「高速で打突を繰り返すパイルバンカーをイメージしてもらうと分かりやすいわ」
“パイルバンカー”なるものをそもそも知らないのだが、なんとなくイメージは出来た。要は、道路の舗装なんかを壊したり、岩盤を削る工事に用いるブレーカーを大型化したものだ。機械から突き出たピックを振動させることで、対象物に衝撃を与えて破壊するのだ。
「その大型ブレーカーがね、使えなくなっちゃったの」
「どうして?」
私は首を傾げたが、理真は、もしかして、と、
「騒音とか振動の問題?」
「さすが理真ちゃん! あたり!」
口を逆への字に曲げ、降乃刑事は理真の顔を指さした。どういうことか。
大型ブレーカーで構造物を破壊するという行為は、凄まじい騒音と振動を発生させる。なにせ金属製のピックをコンクリートに高速で、かつ連続に叩きつけるのだ。なるほど、近くで道路工事や建物の解体工事などが行われて、我慢できないほどの騒音と振動を経験したという人は少なくないのではないだろうか。つまり、構造物の破壊に大型ブレーカー工法を用いるためには、現場近隣に住居がないという条件が付されるのだという。民間の工事ではその辺りは曖昧にされてしまうのだろうが、国や自治体が発注する官工事となるとそうはいかない。近隣住民の安寧を保ったまま工事を行うことは絶対条件ともいえるのだ。
件のオンボロアパートの存在は、当然工事開始段階で認識されてはいたものの、なにぶん築ウン十年の物件でいい加減ガタが来ており、唯一の店子が半月ほど前に契約を終えて出たばかりで、居住者はひとりもいない状態だったという。持ち主もアパートとは別の場所に住んでおり、いい加減アパートは閉め、近いうちに建物を取り壊して駐車場にでもするつもりでいたらしい。ところが、何を血迷ったのか(?)、その倒壊寸前のボロアパートに新たな居住者が入ったのだという。
「そうなっちゃったら話は別よ。近隣住民の安静な生活を守りながら工事を進める義務のある官工事としては、そんな条件で大型ブレーカーなんて使えるわけがないの」
「なるほど」
公務員が「お上」などと呼ばれ、当人たちもその気でいたような時代も今は昔。「凄い騒音と振動の出る工事を近くでするから我慢しろよ」などとは口が裂けても言えないのだ。そのため、設計ミスの橋脚を壊すための工法は変更を余儀なくされたという。
「でね、大型ブレーカーの代わりに、“ワイヤーソーイング”っていう工法を使うことになったの。これはね、丈夫なワイヤーを対象物に巻き付けて、そのワイヤーを回転させて切断するっていうやつなの」
「糸ノコみたいなことね」
「そうそう」
パイルバンカーではなく糸ノコなら、私にも容易にイメージは湧く。
「そのワイヤーソーイングなら、大型ブレーカーと違って騒音や振動はほとんど出さないから、近くに人が住んでいるような条件下でも、何の問題もなく工事が可能ってわけ。そのワイヤーソーイングでもって、橋脚をトラックで運搬可能な大きさのブロック状に切断、分割して順次運び出し、どこか別の場所に持って行ったうえで、そこで改めて大型ブレーカーで壊せばいいって、こういうことなの」
私も理真も納得して、うんうんと頷いた。
「で」と私は、グラスを空にしたところで、「それに何か問題があるの?」
「あるに決まってるでしょ!」
「はうわっ!」
「あのね、由宇ちゃん、工法を大型ブレーカーからワイヤーソーイングに代えるとね、工事費が何倍にも膨れ上がっちゃうのよ!」
「そうなの?」
「そうだよ! 理真ちゃんなら、理解してくれるでしょ」
「だね」と話を振られた理真は、「そのワイヤーソーイングで切断したブロックも、最終的には大型ブレーカーで壊しちゃうんでしょ。だったら、切断して運搬する分だけ、余計にお金がかかるってことだもんね」
「そのとおり!」
「なるほど」
私も納得した。
「それに対して、コンサルが文句を付けてきたのよ」
「ああ、そういうことか」
「そうなの。コンサルとしては、当初は安価な大型ブレーカーで壊す分の工事費だけを負担するつもりでいたのね。ところが、いざ工事が始まる直前になって、近くのアパートに人が住み着いちゃったものだから……」
「聞いてないよと」
「うん。役所としては、人が住んでる近くで大型ブレーカーなんて使えない。コンサルは、そんな余計なお金まで負担したくないって、話が平行線を辿って、揉めに揉めちゃってるのよ……。とほほ……」
ジョッキを空にした降乃刑事は、テーブルに突っ伏した。
「あのさ、論ちゃん、根本的なことを訊いてもいい?」
「なに……?」
理真の質問に、降乃刑事はテーブルに顔を伏せたまま、くぐもった声で答えた。
「どうして論ちゃんが、そんな橋の工事のことで悩んでるの? それは県の土木部発注の工事で、新潟県警とは何の関係もないよね?」
「そうなんだけどね……。その土木部に私の友達がいるんだけど、その子が困っているっていうから、話を聞いてあげたのよ……」
そういう事情か。とはいえ、友人の悩みを我が事のように思い悩み、私たちに愚痴をぶつけてくる論ちゃんはいい子だな、と私は微笑ましく思った。彼女のほうが年上なのに。
言い忘れていたが、作家である理真が県警刑事と友人同士であるというのには理由がある。新潟県警は、管轄内で不可解な事件が発生した際に、理真に捜査協力を求めることが多々ある。そういった、いわゆる“不可能犯罪”解決に助力する理真は、いわゆる“素人探偵”という顔も持っており、降乃刑事とはそういった事件を通じて知り合いになったのだ。ちなみに、理真が探偵活動を行う際は、ワトソンとして私も同行することがほとんどだ。
「ねえ、理真ちゃん、何かいい解決策はないかな? 名探偵の本領を発揮してさ……」
幾多の不可能犯罪を解決に導いてきた理真とはいえ、さすがにこの問題は範疇外だろう。
「うーん……」と、やはり理真は難しい顔をして首を傾げる。「その住人がアパートを立ち退くよう、何か仕掛けるっていうのは?」
「例えば……?」
「ダンプでアパートに突っ込むとか」
「出来るわけないでしょ……」
「冗談だってば。……そもそもさ、その住人は、なんでそんなオンボロアパートに引っ越してきたの? 何者なの?」
「知らない。どんな人なのか、その県職員の友達が訪ねてみたことがあったんだけど、いつも留守だったんだって」
「本当に住んでるの?」
「それは間違いない。夜になると部屋に明かりが点くし、たまに平日にも部屋にいる気配があるって」
「どんな人か、大家さんに確認はした?」
「したけど教えてもらえなかったって。今はそういう個人情報を訊き出すのって難しいでしょ。犯罪がらみでもないのに」
「そうだね……」
「ねえ、理真ちゃんと由宇ちゃんでさ、一度、そのアパートに行ってみてくれない?」
「行ったところで、何がどうなるわけでもないと思うけど……」
「そんなこと言わないでさ。場所はね……」
降乃刑事が口にしたアパートの住所を聞いて、私と理真は顔を見合わせた。それは、今日の昼に私たちがドライブ先で訪れた公園のすぐ近くだったのだ。そう、ブチ猫キャティと出会った、あの公園の。
それから数杯ジョッキやグラスを空にするうち、降乃刑事はテーブルに突っ伏して寝息を立て始めてしまった。しょうがないな、と思い理真を見ると、彼女は表情から酔いの色を消しており、さらに、人差し指を唇に当てて黙り込んでいた。これは理真が何か考え事――主に事件についての決定的な推理をするときに見せる癖だ。
唇から指を離した理真は、今度は自分のスマートフォンを操作し始めた、何かを検索しているらしい。
「……由宇」しばらくの沈黙を破って、理真は口を開いた。「ちょっと、突拍子もない思いつきなんだけど……調べてみる価値はあると思う」
「なに?」
「まずは、これを見て」
理真はスマートフォンの画面を私に突き出した。そこには、猫と犬が並んで写っている画像が表示されている。
「この猫とワンコが、どうかしたの?」
「見憶えない?」
「……ない」
どちらも、いかにもモデル然とした恐らく血統書付きの犬猫で、私が普段接しているような雑種とは縁遠い。
「動物じゃなくって」と理真は、一度スマートフォンを手元に戻し、ピンチアウトで画像を拡大して、「これ」
再び突き出された画面には、二頭の犬猫の首元が拡大表示されていた。ハート型のアクセサリーが付いた立派な首輪……。
「――これって」
昼間に女性から見せてもらった、キャティがかつて付けていたという首輪と同じものではないか。
「これはね……」と理真は、「GPS付きの首輪なんだよ」
「GPS?」
「そう。これを付けたペットの居場所を、パソコンやスマホでいつでも検索できるっていうやつ」
聞いたことがある。
「論ちゃん、論ちゃん」
理真は、降乃刑事の肩を揺すって起こしにかかる。
「……むにゃ……クリリンのことかぁ……」
「クリリンじゃなくて、工事のこと」
「はっ!」がばりと顔を起こした降乃刑事は、「理真ちゃんに、由宇ちゃん、オラに元気を分けてくれ……」
「寝ぼけてる場合じゃないって。論ちゃん、調べて欲しいことがあるの。その工事の関係者の中にさ……」