第1章 ブチ猫との遭遇
「にゃーん」
鳴き声に振り向くと、一匹の猫が植え込みの陰から顔を覗かせていた。毛の色が見事に白黒の領土に分かれたブチ猫だ。私はしゃがみ込んで、こいこい、と手招きをした。すると、
「にゃーん」
もうひと鳴きしながらブチ猫は、たたた、と芝生の上を駆けて近づいてきた。私の差し出した手に頭突きを叩き込むとブチ猫は、そのまま頭をやおら擦りつけてくる。
「ずいぶんと人なつっこい猫だね」
私が言うと、
「そうだね」
と隣に立つ、私の親友である安堂理真もしゃがみ込み、猫の背中をゆっくりと撫ではじめた。
「にゃーん、にゃーん」
ブチ猫は、しきりに私と理真の手に交互に頭を擦りつけ、鳴き声を発し続けている。
「どうした、どうした」
「何か訴えかけたいことでもあるのかな?」
理真が言うと、猫は頭突きを止め、まっすぐに理真の目を見つめ返した。
「え? 本当にそうなの?」
理真の質問に、猫は「にゃー、にゃー」と鳴き声を返す。それを、ふんふん、と頷きながら聞いていた理真は、
「……さっぱり分からない」
と首を傾げた。そりゃそうだ。
「お腹がすいているだけなのでは」
私が言うと、もういい、とばかりに猫は芝生の上に丸くなってしまった。ほぼ球体と化した白と黒の毛の塊を見下ろして、理真は、
「ねえ、この猫、飼い猫だったんじゃない?」
「そうなの?」
「だって……」と理真は、猫の首元の毛をかき分けて、「ほら、この首のところ。これは最近まで首輪をしていた跡だよ」
「本当だ」
理真の言うとおり、そのブチ猫の毛は首回りにぐるりと周回状に跡が付いている。猫の中には、長期間首輪を付けることで、そこの毛がなくなってしまう子もいる。これはまさしく首輪の痕跡と見て間違いないだろう。しかし、今現在こうして首輪をしておらず、しかも公園に一匹でいるということは、理真が過去形で言ったように、かつてはどこかの飼い猫だったが、今は野良の身なのかもしれない。確かに、飼い猫であったならもう少し毛並みもいいはずだな、と私はブチ猫を撫でて思った。
「お前、捨てられちゃったのか?」
私は猫を抱き上げて、じっと瞳を覗き込んで訊いてみたが、彼(このとき雄であることを確認した)は、にゃー、と鳴き声を返すだけだった。当たり前だが。
「残念だけど、うちでは飼ってあげられないんだよ」
私こと江嶋由宇はアパートの管理人をしており、住まいもそのアパートの一室を使っている。ペット禁止を謳っている手前、管理人が堂々と猫を飼うわけにはいかない。個人的にはペット可の物件にしてもいいかなとは思っているのだが、どんなに気をつけても、猫が部屋の壁で爪とぎすることを阻止するのは困難だろうと考えると、やはり怖気震いを止められない。猫が壁に対して爪とぎを行うことへの執着心を強さを、私は理真の実家で恐ろしいほど目にしている(理真の実家では「クイーン」という名前の三毛猫を飼っているのだ)。いくらまたたびを振りかけた爪とぎ用段ボールを用意して、爪とぎはそこで行うよう指導(?)し、実際にそうするようになったとしても、猫にしてみれば、そこで爪とぎをしないと叱られるから仕方なくやっているに過ぎない。――隙あらば、猫は部屋の壁に爪を立てる。“私たちの本能は人間ニャんかに止められはしニャい!”とでも言わんばかりに。
「うちには、クイーンがいるしなぁ」
と理真も、私が下ろしたブチ猫の頭を撫でた。理真の実家は、母親と彼女の弟の二人暮らしだ。母親は日中はほぼパートに出ていて、弟は高校生。家を空ける時間が多く何かと忙しい家庭であるゆえ、クイーン一匹を世話するので手一杯なのだろう。理真自身は実家を離れてアパートでのひとり暮らし。そのアパートというのが、何を隠そう私が管理人を務めている物件で、よって私と理真は友人同士であると同時に、大家と店子という関係にもある。
特に何をするという用事もないため、私と理真がブチ猫をかまい続けていると、
「あら、キャティちゃん」
と声をかけられた。見上げると、買い物袋を提げた女性が私たち――正確には、私と理真に撫でられまくっているブチ猫――の数メートル前に立っていた。
「キャティちゃん、って」と理真は立ち上がり、「この子の名前ですか?」
「そうなの」
女性が近づいてくると、キャティと呼ばれたブチ猫は、「にゃーん」と愛想の良さそうな鳴き声で迎える。
「首輪の跡があるので、野良猫じゃないんだろうなとは思ってましたけれど」
理真が言うと、女性は、
「そうなの。といっても、私が飼ってるんじゃなくて、野前さんのところの猫ちゃんなのよ」
「ご近所さんなんですか」
「そう。野前さんはなるべく外に出したくないんだけど、キャティちゃんが散歩が大好きで、せがまれたらついつい窓を開けて出しちゃってたそうよ。『迷子になって帰ってこられなくなるんじゃないか?』って、キャティちゃんを散歩に出すたびに、いつも心配していたそうだけど」
女性が買い物袋を置いてしゃがんだので、理真も再びもとのように膝を折る。
「じゃあ、キャティちゃんは今、お散歩中というわけですか」
理真が猫を撫でながら訊くと、
「それがねぇ……」女性は神妙な表情になり、辺りに誰もいないか確認するように、きょろきょろと首を振ってから、「キャティちゃんを可愛がっていたのは、野前さんの奥さんなんだけど、その奥さんがね……実家に帰っちゃったのよ」
「あらまあ」
そうなのよ、と女性もキャティの喉を指でさすって、
「野前さんご夫妻、普段からあまり仲がよろしくなくってね、しょっちゅう喧嘩をしていたみたいなんだけど、ついに奥さんの我慢が限界に達しちゃったんでしょうね……。もう一ヶ月以上になるかしら、奥さんが出て行ってから」
「それでは、キャティちゃんの世話は、今は旦那さんが?」
「それはどうかしらねぇ。野前さん――奥さんのほうね――のお話だと、旦那さんは猫があまり好きじゃないそうだから……」
「キャティちゃん、毛並みもあまり良くないですよね」
理真は改めてキャティの背中を撫でた。
「そう。家に帰っても、中に入れてもらえてないんじゃないかなって思って。だから、見かけるとおやつをあげたくなったりするわけなのよ」
女性は買い物袋から猫用かにかまのパックを取り出し、数切れキャティに与えた。常備しているのだろうか。
「それじゃあ、首輪も旦那さんが外しちゃったんでしょうか?」
理真は、わしゃわしゃとかにかまを食むキャティの首を指さす。
「それは分からないわね。いくら猫が好きじゃないからって、わざわざ首輪を外すとは思えないし」
「ですよね。どこかで木の枝にでも引っかけて落としちゃったんでしょうかね」
「そうかもしれないわね。キャティちゃんが付けてた首輪、すごくかわいかったから、ちょっともったいないわね……」と女性は、自分のスマートフォンを操作して、「これ、お散歩途中のキャティちゃんを見かけて撮った写真」
と画面を理真と私に向けてきた。なるほどすまし顔で写るキャティの首には、ハート型のアクセサリーが付いた立派な首輪が巻かれており。毛並みも今よりはずっと艶やかに見えた。
「にゃーん」
“もうひと切れ!”とキャティはねだるような声を上げたが、女性は「もうおしまい」と立ち上がり、
「それじゃ、私は失礼するわね。キャティちゃんのこと、可愛がってあげてね」
と猫と私たちに手を振って、その場をあとにした。
「にゃーん」
するとキャティは、今度は私たちに顔を向け、かにかまを催促するような声を出したが、あいにく私たちにかにかまのストックはない。こんなこともあろうかと、普段からかにかまを携帯しておくべきだったか。
「私たちも、行こうか。お腹もすいたし」
「そうだね」
理真と私も立ち上がった。何をやることもなくドライブに出かけ、目に付いた公園を散策していただけとはいえ、腹が減っては行動を起こさざるを得ない。平日の真っ昼間から若い女性二人が何をやってんだって話だが、先に言ったように私はアパートの管理人で、一緒にいる理真は作家という文筆業を生業としている。平日の真っ昼間から公園にたむろしていても何もおかしくない(?)人種なのだ。