表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

侯爵令嬢が愛した怪人~君を傷付ける人は、王子だろうと許さない。~

ローレンス王国の王立魔法学院。

この学院では、ある噂が囁かれている。


――今は朽ち果てている旧礼拝堂。その脇にある枯れ井戸に、怪人の幽霊が現れる――


怪人に見つかった者は、深い地底の世界に連れ去られてしまう。

……あるいは、怪人に自らの魂を捧げれば、見返りにこの世のすべてを手に入れることができる。


まことしやかにささやかれる、学院の怪談。

リディア=ウィルミントン侯爵令嬢は、そんな噂を信じていなかった。


学友があまりに騒ぐので、噂を否定する為に枯れ井戸の調査に向かうまでは……。



***



「侯爵令嬢リディア! お前は婚約破棄だ!」


王立魔法学院の卒業式を翌日に控えた、ある日の昼下がり。

大勢の貴族の子息や、学院関係者が顔を揃える講堂で。

突然呼び出しを食らったリディアは、ローレンス王国の第一王子クリスから婚約破棄を宣告された。


「婚約……破棄!? 私を、ですか? 殿下、一体どうして……」

「はん、今さら白を切るつもりか!? 貴様がこのマージョリー=スライ伯爵令嬢をいじめていたのは周知の事実だぞ!」


クリスはマージョリーの肩を抱く。周囲を固める生徒たちも、そうだそうだと肯いた。

マージョリーはクリスの腕の中で、くすくすと笑う。


もちろんリディアは、いじめなどしていない。

前々からリディアを疎ましがっていたクリスと、婚約者の後釜を狙う伯爵令嬢が共謀して濡れ衣を着せたのだ。


「お待ちください殿下! 何かの誤解です! 私はいじめなどしていません! 婚約破棄など、どうかお考え直しください!」

「ええい、しつこい! 証拠は挙がっているんだ! 今さら言い訳などするな!」


当然、証拠もでっち上げだ。

しかし王太子と、政治的発言力のあるスライ伯爵家の令嬢の手にかかれば、証拠の捏造など容易いだろう。


マージョリーの父であるスライ伯爵は、ローレンス王国の内務卿を務めている。

国内で高い地位があり、王家にも顔が効き、政治的に重要な立場にある。


一方、リディアのウィルミントン侯爵家は、隣国との国境を防備する総督である。

独自の軍事力を有し、武力行使の権限を持つ。

王家にとっては厄介な相手であると同時に、重要な役割を持つ。

要するに仲良くしておきたい相手だった。


だから王太子クリスと侯爵令嬢リディアの婚約が決まった。


しかし婚約が決まった直後から、スライ伯爵の暗躍が始まった。

スライ伯爵は内務卿として宮廷を掌中に収めると、権勢を拡大していった。


彼ら宮廷貴族たちは、所謂軍閥とはソリが合わない。

つい10年前までローレンス王国は隣国と戦争していたが、今では平和だ。

そのせいで、侯爵家を始めとする軍閥を、金喰い虫として嫌っているのだ。

タカ派のウィルミントン派閥を失脚させ、スライ伯爵らの息のかかった後任の人事を考えているらしい。


そうした宮廷側の思惑もあり、ウィルミントン侯爵家とリディアを切り捨てにかかったのだろう。

もちろんウィルミントン家は抗議することになる。

軍閥のタカ派であるウィルミントン家が娘の面子を潰されて、泣き寝入りするはずもない。

そのことすらも、当然織り込み済みだろう。

だからリディアがスライ伯爵家の令嬢をいじめたという「事実」が必要だったのだ。

あくまで悪いのはウィルミントン側なのだ――と。



言ってみればリディアは、権力闘争に敗れたのである。



この婚約破棄は、きっと水面下で調整が進んでいる。

学院関係者や、有力貴族の息子たちの反応から、リディアはそのことを察した。

それでも言わずにはいられなかった。


「殿下、よくお考えください! このような方法で婚約破棄などすれば、王家とウィルミントン家の間に遺恨を残してしまいます! スライ伯爵令嬢をいじめただなんて、根も葉もない話です! 殿下、お気に召さないところがあるのなら、どうか言ってください。私に悪いところがあったのなら直します。ですから、どうか婚約破棄だけは――!」

「くどい、いい加減にしろ! 気に入らないところだと? なら言ってやろう、貴様の存在すべてが気に入らないとな! 貴様のように、田舎臭く地味な女は見ているだけで気が滅入る。女の分際で出しゃばりなところも気に食わない。おまけにコソコソとマージョリーをいじめる陰湿な性根、もはや我慢ならない。卒業後は二度とその顔を見せるな!!」

「そんな……!」


ウィルミントン領は王都に比べれば田舎だが、広大で豊かな土地だ。バカにされる謂れはない。

地味なのは、見栄えよりも質実剛健であることを信条とする父の教育方針によるものだ。

リディアの顔立ち自体は、決して悪いものではない。

黒い髪に蒼い瞳。ややつり目がちで、黙っているときつい印象を与えることもあるが、充分美人といっていい。


出しゃばりという批判は、きっと成績がクリスよりも良く、人前で意見を主張する時に物怖じしない姿勢のことを言っている。

リディアは女だが、地方総督を務めるウィルミントン侯爵の一人娘。

その気質を継ぎ、女ながらに気が強く、身分相応の自負を持ち、面倒見がいい性格の持ち主である。


故にリディアを慕う学友も少なくないが、同時に毛嫌いする人種もいる。

クリスはリディアを嫌う人間の一人だった。そういうことだ。


リディアは悟る。もはや婚約破棄は覆らない。

何を言っても、どんなに食い下がっても、返ってくるのは侮辱ばかり。

やがて見かねた学院関係者が取りなしに入り、リディアは婚約破棄を受け入れざるを得なくなった。


「ああ……こんなことになるなんて……殿下、どうして……!」


寮に戻ったリディアは、一人涙を落とす。

婚約はローレンス王家とウィルミントン家の大事な取り決め。

王宮が近頃ウィルミントン家を疎ましがっているのは、父もリディア自身も気付いていた。

だからこそ、せめてクリスと仲良くやっていこうと頑張っていたのに……。

国の為に、家の為に、民の為に、平和の為に。

自分を犠牲にしてでも、クリスとの縁を繋ぎとめようとしていたのに……。


すべては、無駄だった。何もかもが終わりだ。

そう悟ったリディアは、これかららの未来を想像して、その夜は一晩中悲嘆の涙を流し続けた。



***



王太子クリスと伯爵令嬢マージョリーが死亡した。

リディアがその報せを聞いたのは、婚約破棄宣言の翌日の夜のことだった。


死因はシャンデリアによる圧死。

その晩、学院のパーティーホールでは、卒業パーティーが催されていた。

大勢の見守る中、ホールの中央で踊る王太子と伯爵令嬢の頭上にシャンデリアが降ってきた。

避ける間もなく、二人は死亡。

学院内は大騒ぎとなった。


傷心のためパーティーに参加しなかったリディアは、その話を聞いて真っ青になった。

そして学院中が混乱する中、一人で人気のない旧礼拝堂跡地に向かった。




ローレンス王国の王立魔法学院。

この学院では、ある噂が囁かれている。


――今は朽ち果てている旧礼拝堂。その脇にある枯れ井戸に、怪人の幽霊が現れる――


怪人に見つかった者は、深い地底の世界に連れ去られてしまう。

……あるいは、怪人に自らの魂を捧げれば、見返りにこの世のすべてを手に入れることができる。


まことしやかにささやかれる、学院の怪談。

リディア=ウィルミントン侯爵令嬢は、そんな噂を信じていなかった。


学友があまりに騒ぐので、噂を否定する為に枯れ井戸の調査に向かうまでは……。


否、今も信じていない。

枯れ井戸の側に佇む人影は、怪人の幽霊などではないと知っているから。




旧礼拝堂跡地は、学院の一角にある。

何十年も使われていない、朽ち果てた建物。

表向きはそういうことになっている。


しかし、リディアは知っている。

この礼拝堂跡地の地下には、とある人物が幽閉されている。

朽ちた建物の脇にある枯れ井戸は、地下道に繋がっているのだ。

リディアは縄梯子を使って地下道に降りると、目的地を目指して走った。


「アッシュ、アッシュ! いるのでしょう!?」


かつて魔女狩りの時代に、異端者を閉じ込めていたという地下牢。

ランタンの明かりを翳すと、牢の奥で、黒い影がモソモソと起き上がった。

顔半分を前髪で隠した、灰色の髪に赤い瞳を持つ男。

年齢はリディアとそう変わらない。

彼は怯えたようにリディアを見つめる。


「リディア……どうかした?」

「どうかした、じゃないわよ! パーティーホールの騒ぎ、あなたが関与しているのではないの?」

「……どうして、そう思う?」

「学院の設備はしっかり整備されているもの。特にシャンデリアなんて大きな物が、何の前触れもなく落下するとは思えない。誰かが手を加えない限りは無理よ。そして誰にも気づかれずシャンデリアに細工するなんて、誰にでもできることじゃない。……あなたのように、学院の隠し通路に精通していて、卓越した頭脳を持つ人でもない限りは」


リディアが照らした壁には、びっしりと魔術式が刻まれていた。

すべてアッシュが刻んだ物だ。


アッシュはかつて政治闘争に敗れ、お家取り潰しとなった公爵家の末裔だ。

一族郎党が処刑されたが、天才的頭脳を持つ年端の行かない少年アッシュだけは生かされた。

生かされたかわりに顔の半分を焼かれた。

そして類稀なる天才的な頭脳を、王国の為に使うことを強制されたのだ。


国内最高峰の学府である魔法学院の地下牢に幽閉され、最高の資料が渡される。

そして求められた時に、その頭脳を王国の為に使う。

現在、ローレンス王国が誇る魔術兵器のいくつかは、アッシュの頭脳から捻出された理論に基づくものだ。


顔の半分が焼かれたアッシュは、幼少期から周囲の人々から露骨に嫌われ、疎まれていた。

やがて自らも人目に触れることを嫌い、隠遁する道を選んだ。


それこそが王国貴族の目論見だった。


アッシュの天才的な頭脳を都合よく使う為に、自尊心をズタズタに引き裂き、彼自身が自らを貶め、恥じるように仕向けた。


そしてアッシュは権力者たちの目論見通り、自分自身を軽蔑し、自らを冒涜する言葉を吐き、この地下牢でなければ生きられないと思い込むようになっていた。



***



転機が訪れたのは、約一年前の出来事だ。

リディアとの出会いがアッシュの転機となった。

学友たちが「枯れ井戸の怪人の霊」をあまりに怖がるので、幽霊などいないと証明する為に調査していた時に、リディアはアッシュを発見した。


しかしリディアは冷静だった。

怪人の幽霊など存在しない。

そう信じるリディアは、みすぼらしい布に身を包み、髪は伸ばし放題、顔の半分が焼けただれた男に向かい、勇敢にも話しかけた。


『あなたは誰? どうしてこんな場所にいるの?』

『あ、うぅ……』

『喋れないの? ……ああ、もしかして、礼拝堂で働いている方? だとしたら、ここは違いますよ。ここは使われていない方の礼拝堂です。新しい礼拝堂の方へご案内しましょうか?』


教会は、社会に行き場のない人々の受け入れ先としての側面もある。

学院の礼拝堂でも、喋れない人々が働いているのを見たことがあった。

だからリディアは、目の前の男もそうだろうと考えた。


『ち、違います……あの、僕が外に出ていることが分かると、怒られるから……僕のことは、誰にも言わないでください……』

『……どういうこと?』

『……実は――』


後から聞いた話だが、今までアッシュを見た同年代の少年少女は、悲鳴をあげて逃げ出すばかりだったという。


アッシュが接する人間といえば、たまに頭脳を利用しに降りてくる権力者たち。

彼らはアッシュと人間らしい会話をしなかった。

指示を出し、必要な情報を与え、成果物を回収するだけの言葉しか交わさない。


次に、食事などを運ぶ使用人。

この役割には口が利けない者が選ばれ、アッシュへの根も葉もない恐ろしい噂を刷り込まれていた。

だから誰もコミュニケーションを取ろうとはしなかった。


この時のアッシュの話は、なかなか要領を掴めないものだった。

それでもリディアは辛抱強く耳を傾けた。

アッシュはそれがとても嬉しかったのだと、これも後になって教えてくれた。


『そう……そんなことが……』


アッシュの事情を知ったリディアは深く同情し、彼の秘密を守ることを選んだ。

リディアの同情は深く、それからも時間がある時は夜の枯れ井戸にやって来た。


アッシュは地下牢に幽閉されている。

しかし地下牢は何年も手が入っていない。

おまけに管理もずさんなので、アッシュは夜遅くなると密かに抜け出して、人気のない場所での散歩を楽しむようになっていた。


リディアと再会した時のアッシュは驚いていたが、来訪の真意を告げると喜んだ。


アッシュにとって、リディアは初めての話し相手であり、友達になった。

そしてリディアもアッシュと関わるうちに、彼が世間を知らずとも、聡明な頭脳と純粋な性格の持ち主であることを知っていった。


アッシュは学院の隠し通路に精通していた。

もともと魔法学院は、大昔には修道院だった建物を改修したものだ。

宗教戦争の最盛期だった時代。

修道院には秘密の隠し通路がいくつも造られていた。

枯れ井戸と地下牢を繋ぐ通路も、そのうちの一つだ。


『他の通路も知っているの?』

『うん……でも、使わないよ。僕が使うのは、ここの通路だけ。僕の姿が人に見られて、騒ぎが大きくなるといけないから』


ちなみに枯れ井戸の怪人の話は、リディアが適当に誤魔化したおかげで、1ヶ月と経たずに消えてしまった。


『僕の姿は怖いから、人に見られたらいけないんだ』

『そんなことはないと思うけど。夜中に見知らぬ人に会えば誰でも驚くでしょう。それだけの話よ。あなたは身なりさえきちんと整えれば、そんなに悪い方じゃないわ。この火傷の跡だって』

『あっ……!』


リディアは手の伸ばし、アッシュの前髪を横に流し、火傷の跡を覆った。

その際に、指先が火傷の跡に触れる。

ざらりとした感触。だが不気味だとは思わない。

アッシュの人柄を知った今となっては、理不尽な彼の運命に憐れみを覚える。


……ウィルミントン家だって、一歩間違えばどうなるか分からない。


そう思えばリディアの感情は単なる同情を超え、ある種の親近感を抱いていた。

痛々しい火傷の跡を優しく撫でる。


『あなたが気になるなら、こうやって隠せばいい。隠れていなくても、私は気にならないけどね』

『……リディア……ありがとう』


そして、その時からだった。

アッシュが顔半分を前髪で隠し、身なりを整えるようになったのは。

伸び放題だった髪を整え、まともな服を欲しがるようになったのは。


リディアは密かにアッシュに服を渡した。

それ以来、リディアと会う夜は、アッシュはその服を着て外へ出るようになった。


身なりを整え、まともな服を着て、火傷跡を隠したアッシュは、美青年と呼んでも差し支えがない。

もともと公爵家の末裔だったのだから、素材が悪いはずもなかった。

劣悪な環境にいたから気付かなかっただけで、磨けば光る原石だったのだ。


もしも家が没落せず、公爵令息として社交界にデビューすれば、多くの女性を虜にしただろう。そう思わずにはいられなかった。


そして同時期から、アッシュはリディアに強い執着心を見せるようになった。


『リディアを傷付ける人は絶対に許さない』

『リディアは卒業したら、僕に会いに来てくれなくなるの? それは嫌だな……』

『リディアには婚約者がいるんだね。相手が羨ましいよ』

『リディアの婚約者はクリス王子なんだね。王子は君がいるのに他の女の子と仲良くしている。どうしてそんなことができるのか、僕には理解できない』

『リディアと結婚できるのがどんなに幸せなことなのか、あの男は知らないんだね。……思い知らせてやりたいよ』


アッシュの瞳は、時折狂気の色を覗かせた。

リディアはそんな時のアッシュに恐怖を覚えた。

だが同時に、彼に惹かれつつもあった。


アッシュの顔は、半分が火傷に覆われている。

しかしもう半分は端正に整っている。

天才的な頭脳を持っているのに、外部との接触を断って生きてきたせいで情緒面は未発達だ。

故にリディアを一途に慕い、狂気と紙一重の執着を見せる。


そんな彼が持つ二面性に、いけないと知りつつも惹かれる心は抑えられなかった。



***



リディアは溜息を吐く。

思考が過去から今この瞬間に戻ってくる。


……きっとアッシュは、昨夜のうちにリディアが受けた仕打ちを知ったのだろう。

そして一途な恋慕は、ついに完全なる狂気へと変貌した。


「あなたは昨日のうちに、私が婚約破棄された噂を聞きつけたのでは? そして昨夜のうちに、パーティーホールのシャンデリアに手を加えて仕掛けを施した。たとえば、時限式の魔術式とか。あなたが得意とする分野だもの」


鉄格子の向こうで、アッシュは黙ってうなだれている。


「シャンデリアの真下で踊るのは、クリス殿下とそのパートナーだけと決まっていた。……あとは時間さえ調整すれば目的を果たせたはず。ねえアッシュ、本当のことを教えて。私にだけは本当のことを話して」


リディアが追求すると、最初は否定していたが、やがて観念したように首肯する。


「……そうだよ、僕がやった。あんな奴、死んで当然だ。リディアと結婚できるという僥倖を身に受けておきながら、あろうことか君を侮辱して傷付けた。一緒に死んだ女も同罪だ。あんな連中は一分一秒たりとも生かしておけない。僕は後悔していないよ。後悔することがあるとすれば、君を傷付けた後、一日も生き永らえさせてしまったことだ」

「アッシュ、分かっているの? あんな人でもクリス様は第一王子よ。伯爵令嬢のお父様だって内務卿で、宮廷内の地位が高いお方なのよ。息子と娘があんな死に方をして、黙っているとは思えないわ」

「リディアは何も心配しなくていいよ。全部僕がやったことだ。すべての罪は僕が被る」

「アッシュ……」

「僕はこれぐらいしか、君の涙を止める方法を知らない。……いや、こんな方法では、君が負った傷は癒せなかったね。ごめん」


アッシュは力なく笑いを浮かべた。


「これは全部、僕のエゴだ。君の為と言いながら、自分のエゴを満たす為にした行為だ。君という美しい人に横恋慕した怪人の身勝手な凶行。だから君は何も気にしないで。明日になったら学院を出て、この学院で起きた忌まわしい出来事はすべて忘れて、君自身の幸せを掴んでください」

「そんな……そんなの、無理よ」

「大丈夫、君の名前は絶対に出さない。僕が彼らを殺した動機は、他にいくつでも思いつくから。美しい人が妬ましかった。僕の家を潰して、人生を滅茶苦茶にした王侯貴族が許せなかった。動機はいくらでもある。だから――」

「……やめて。私は自分の身が可愛くてこんなことを言っているんじゃない。そんな理由であなたを追求したわけではないの」

「え……?」


リディアは手を伸ばし、鉄格子の向こうにいるアッシュの両頬に手を伸ばす。

そっと引き寄せて、彼の唇に自らの唇をあてがった。

一瞬の、軽く触れ合うだけのキス。

アッシュは何が起きたのか理解できずに目を見開く。


「え、リディア……え? 今の……何……?」

「私はね、あなたが心配だったの。あなたが私を思ってあんなことをしたのなら、どうして放っておけるというの?」


彼が忌み嫌っている側の頬を撫でながら、リディアは続ける。


「アッシュ、あなたはとても純粋で優しい人。そんなあなたに王子たちを殺させてしまったのが、申し訳なくて……。それに、あなたは気付いていなかったかもしれないけど、私もあなたに惹かれていたの。だからクリス様に婚約破棄を宣言されても、腹は立ったけど傷付きはしなかった。だって私の心は、ずっと前からあなたのところにあったのだから」

「う……嘘……だって僕は、こんな顔で……醜い」

「私は一度だって、あなたを醜いと思ったことはない。……信じられない? ならキスをして。あなたからもキスを。私は逃げたり拒んだりしないから」


アッシュは狼狽えるが、リディアは黙って目を閉じる。

待つことしばし。再び唇が重なった。

軽く触れるだけでは収まらない、情熱の込められたキス。

リディアは縋るように、アッシュの背中に手を伸ばす。


アッシュはこれまでの人生で、愛情を注がれることもなければ、愛情を向ける対象もいなかった。

リディアと出会い、彼女から許されて、ようやく渇望を埋める存在を見つけた。


十数年にわたって、満たされなかった渇望。

それはもはや狂気にも近い。

だがリディアは逃げない。拒まない。

自ら宣言した通り、真正面からアッシュを受け入れる。


「……アッシュ。私と一緒に逃げましょう。侯爵領に行きましょう。お父様には私から説明するわ。」

「……嬉しい、けど、僕なんかが行っても……邪魔になるだけだ」

「……実をいうとね、侯爵家も王家の裏切りを読んでいなかったわけではないの。私はなんとか殿下との関係を良好に保とうとしたけれど、無理だった。でね、無理だった時の対策も、侯爵家は考えていたのよ」


お互いの心を確かめ合った後、リディアは思い切って切り出した。

もはやこうなった以上、二人揃って助かるには、この道しかない。


「王家への離反。正直なところ、今の王宮を快く思わない人も多いの。特に軍閥に属する人々は、近年の文官による締め付けを苦々しく思っている。水面下で文官と武官の対立は深まっている。だからこそ武官筆頭のウィルミントン家と王家の婚約には意義があったのだけど――それも宮廷貴族の暗躍のせいで失敗に終わった」


婚約が決まった時、リディアは父から散々聞かされていた。

この婚約が破談となれば、文官と武官の対立はいよいよ致命的な物となる。

国は二つに割れ、内乱状態に陥るだろう。

そうなれば表向き平和協調路線を保っている隣国に、再び付け入る隙を与えてしまう。


だからこそリディアは、たとえ好きになれない相手とも結婚する覚悟を決めていた。

国の為、民の為、平和の為に。


だがクリスの方が、王太子でありながら事態の重要性を理解していなかった。

いや、それを言うのなら、王宮全体が理解できていなかったのかもしれない。

国境を預かる武官と、宮廷政治に明け暮れる文官や王族との間では、認識に致命的なズレがあったのだ。


だから昨夜のリディアは泣いていた。一晩中泣いていた。

これから先の未来、どう転んでも流血は免れないだろう……と、悲嘆の涙に枕を濡らした。


「侯爵家は王家との関係悪化を見据えて、裏切られた場合も想定して、密かに準備をしていた。……こうなった以上、王宮側はウィルミントン家を潰しに来るでしょう。できれば王家と事を構えたくなかったけれど……もう覚悟を決めるしかない。私は昨夜一晩中泣いて、覚悟を決めたつもりよ。口火を切ったのは向こうだという口実もできたしね」

「リディア……」

「これから始まる戦い、あなたの卓越した頭脳が加わってくれれば、とても助かる。心強いわ。でも――その先に何があるのかは、私にも分からない。私たち二人揃って無残な最期を遂げるかもしれない。地獄に落ちるかもしれない。……そんなことにあなたを巻き込むのが正しいことなのか、私には分からない」


顔を伏せるリディアに、アッシュは首を振って優しく言葉をかける。


「いいんだ、リディア。君と一緒にいられるのなら、地獄でも構わない。死ぬ瞬間も一緒なら、それはなんて幸せな最期だろうね。でも、君は死なせない。僕が絶対に守る。王家に渡した魔術兵器の理論よりも、完璧で優れた理論を君の為に生み出すと誓うよ。……正しさなんて関係ない。僕を救ってくれたのは君だ。僕にとって、リディアこそが絶対的な価値であり基準なんだ。他には何もいらない、必要もない」


リディアが顔をあげると、アッシュの真摯な瞳と正面からぶつかった。

あまりにもひたむきで、一途な思い。

狂気を孕んだ純粋無垢。

人によっては恐ろしさを感じるそれを、リディアはこの上なく愛しく思った。


「これから僕は君の為に生きる。僕のすべてを君に捧げる。だから君は、もう何も心配しないで。僕ももう、覚悟を決めたから」

「アッシュ……ありがとう、アッシュ。愛しているわ」

「僕も、君を、君だけを愛すると誓うよ。リディア」


それからアッシュは、リディアの手引きでその晩のうちに学院を出た。

リディアから事情を説明された侯爵家はアッシュの存在を受け入れる。


それから王家・文官と軍閥・武官の対立は激化した。

しかし手早く軍閥をまとめ上げ、民を味方につけたウィルミントン勢が有利となった。


内乱に乗じて侵攻を企ててきた隣国の動向を押さえ、機先を制して撃退。

この勝利をきっかけに、ウィルミントン家は世論から絶大な支持を得るに至り、破竹の勢いで勢力を拡大していった。


やがてウィルミントン家主導の革命が成功し、新たな体制の新国家が誕生。

新国家は革新的な魔術兵器を多数有する軍事大国となり、後に史上初の大陸統一国家となる。


新国家の初代元首は、元侯爵令嬢である女帝リディア=ウィルミントン。

旧王家の血を引く公爵家の末裔を伴侶に迎えた彼女は、新たな時代の女帝として歓迎された。


伴侶は、顔の半分を壮麗な仮面で覆った美青年アッシュ=ウィルミントン。

国が誇る軍事力の基盤となった魔術兵器は、この伴侶の頭脳から生み出されたという。


中には、女帝は野望の為に公爵家の末裔と結婚したのでは――と勘繰る者もいた。

だが彼女とその伴侶を知る者は、誰もが否定した。

そして口を揃えてこう言った。


「あれほど仲の良いご夫婦は、他に見たことがありません。公私ともに寄り添い合い、お互いを慈しみ合うお二人の姿は、まさに理想の夫婦像ですよ」


――と。


後世、リディア=ウィルミントンを題材とする創作は数多く誕生することになる。


その中でもっとも人気が高いのは、戦記でもなく、政治劇でもなく、伴侶との恋愛劇だったという。



もしよろしければ、評価やブックマーク等、よろしくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ファントムやカジモドの恋が成就してほしかった派にはこの上ないご褒美なお話でした。ありがとうございます!
[一言] 怪人が幸せになって良かった♪o(^o^)o ♡♡(*ノ´O`*)ノエール♪☆♡!
[良い点] お?オペラ座の怪人をモチーフにした話ですね。 (ゝω・´★) [一言] オペラ座の怪人の話は、怪人が愛しい人の幸せを願い愛しい人を解放するのがフィナーレですが、こうして怪人と幸せになるのも…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ