5章 島の王
眼下に、輝く海と生い茂る緑が見える。
地上近くへ下りていくと、たくさんの人がいた。皆、幸せそうに笑っている。
急に視界が赤く染まった。木々は炎に包まれ、武器を持った人間たちがこちらを睨んでいる。
憎しみと悲しみとが渦を巻き、その中に飲み込まれ、体が動かなくなっていく。
あとに残されるのは、真っ暗な闇と、深い絶望――
***
窓から差し込む朝日を顔に受け、ティーナは目を開けた。
あまり良いとはいえない夢のせいで、気分は少しもやもやしているが、体はすっかり元気だった。
夢の中で、ティーナは自分ではない、別の誰かになっていた。しかし、それが何者だったのか分からない。
単なる夢を気にしても仕方がない。ティーナは寝台から降り、部屋を出た。
一階へ降りると、カーシャが朝食の準備をしているところだった。
「おはよ。よく眠れた?」
「おはようございます。よく眠れました。ごめんなさい、お手伝いできなくて……」
「いいよ気にしなくて。裏庭に水を汲んであるから、顔を洗っといで」
裏庭で顔を洗い、髪を梳く。ティーナは毎日、日が昇る前に起きて仕事をこなさなければいけなかった。
もちろん、朝食が用意されているわけもない。ティーナにとっては、この状況は今も夢の中にいるようだった。
居間に戻ってきたが、そこにはカーシャしかいなかった。
「あの、オーデリクさんは?」
「うちの人はいつも早くてね。この時間にはもう出てるの」
王の護衛というのは、とても大変な仕事のようだ。
今日、ティーナは王のもとへ連れて行かれることになっている。もしかするとそこで会うかもしれない。
「ラッシュは……」
ティーナが言いかけた時、玄関の戸が開いて、ラッシュが入ってきた。
「あ、ティーナおはよう!」
「おはようラッシュ……出かけてたの?」
「ああ。朝の特訓にな。母さん、腹減った」
「はいはい。もうできるから待ってて」
朝食を終え、王の使いが来るまで少しの間、待つことになった。
ラッシュが自分の部屋から槍を持ってきた。
日中、活動するときはいつも持ち歩いているらしい。
「ラッシュ、それで戦うの?」
「ああ。まだまだ、父さんやキルシェには敵わないんだけどな。あ、キルシェは俺の友達で……」
ラッシュが話していると、玄関の呼び鈴が鳴った。
「お、来たかも」
ラッシュが扉を開けると、そこに立っていたのは黒髪の青年だった。年齢は、ラッシュやティーナとそう変わらないように見える。ラッシュと同じような軽装で、濃い青色の上着を羽織っていた。
「なんだ、使いってアルのことか」
アルと呼ばれた青年は、黙ってラッシュの肩越しに部屋を見渡し、ティーナに目をとめた。
「そいつか」
「ああ、ティーナ、こっちに来てくれ」
ティーナはラッシュの隣へ行き、黒髪の青年と目を合わせた。
青年の灰色の瞳には、ありありと警戒の色がにじんでいる。
「ティーナ、こいつはアルフィオン。俺の……」
「余計な話はいい。王の命でお前を連れて行く」
ラッシュを遮り、アルフィオンは淡々と言った。先ほどから、表情は険しいままだ。
「はいはい。じゃ、行くか。母さん、行ってきまーす!」
ラッシュが振り返り、台所で洗い物をしているカーシャに呼び掛ける。
皿を布で拭きながら、カーシャが台所から出てきた。
「行ってらっしゃい。気を付けて」
「あの、本当にありがとうございました」
もしかしたら、カーシャに会うのは最後になるかもしれない。ティーナは彼女に向かって、深く頭を下げた。
「もう。お礼なんていいったら。またおいで」
カーシャに見送られ、アルフィオン、ラッシュ、ティーナは家を後にした。
「アル、たまにはごはん食べに帰っておいでよ!」
扉を閉める前、カーシャの声がしたが、アルフィオンは何も言わなかった。
***
ティーナはアルフィオンの後に続き、島の王が住む場所への道を歩いていた。
昨日、ラッシュの家に行く際に通った、人目につかない道と似たようなところを進んでいる。
「悪いな、アルはいっつもあんな調子だから、気にしなくていいぞ」
隣を歩くラッシュが、ティーナにささやいた。
アルフィオンは時おり振り返り、鋭い視線を投げかけてくる。心配しているというより、ティーナが抵抗したり逃げ出したりしないか確認しているようだった。
もちろん、ティーナにそのつもりはまったくない。アルフィオンの腰に下げられている剣や、ラッシュの槍を目にして、逆らうなんてとても怖くてできない。
だが本来、ティーナに向けられる態度は、アルフィオンのそれが正しいはずだ。クロモドやラッシュの家族が親切にしてくれたのは特別だったのだと、ティーナは考えを改めた。
やがて、右手に大きな建物が見えてきた。ティーナが働いていた屋敷より、もっと大きい。石造りで、少しのことではびくともしなさそうだ。小さ目の城といった方が正しいだろう。
「あそこに王様がいるんだ」
ラッシュが城の方を見て言った。ふと、ティーナが上の方に目をやると、羽ばたきながら宙を舞っている数人の人影が見えた。
ラッシュ以外の人間が飛んでいるところをちゃんと見るのは初めてだ。
「交代で見張りをしてるんだ。皆、父さんの部下さ」
ティーナが見ているものに気づいたラッシュが、どこか自慢げに説明してくれた。
城に沿って歩き、入り口までやって来た。両脇に、腰に剣を下げた男性が一人ずつ立っている。
「カミルさん、ユーリスさん、おはようございまーす!」
ラッシュが元気よく挨拶すると、二人がああ、と頷いた。
「おはようラッシュ、アルフィオン。……例の件だな。通ってくれ」
入口の扉をくぐる際、門番の二人が、物珍しそうにティーナを見てきたが、特に話しかけられることはなかった。
城の中は広く、扉がいくつもあった。アルフィオンの後について、上階へ続く階段をのぼり、扉の奥の廊下を進み、更に階段をあがっていく。
途中、召使らしき、簡素な服を着た女性や、武器を下げた男性とすれ違った。不思議そうな目がティーナに向けられたが、何かを言われることはなかった。
そうしてたどり着いた部屋の前で、アルフィオンが扉を二回、拳で叩くと、「どうぞ」と男性と思しき声が返ってきた。
「失礼します」
アルフィオンに続いて、ティーナとラッシュも部屋の中へ入った。
壁際には棚がいくつも並んでおり、本や、紙の束のようなもので埋まっている。
中央に据えられた執務机に向かって、一人の男性が座っていた。紺色の髪を後ろに撫でつけている。多分、オーデリクよりは少し年下だ。
この人が王様だろうか?
「ああ、二人ともご苦労様です」
男性が立ち上がり、ティーナたちの方へやってきた。裾が長めの上着を羽織り、前のボタンをきちんとすべて留めている。細身で、王様というよりは、学者や文官のような雰囲気だった。
「ディオネス様、彼女が『外の者』です」
名乗れ、というかのようにアルフィオンがティーナに目をやった。
「あ、あの、わたしの名前はティーナです」
「わたしはディオネスといいます。王の側近を務めています」
どうやら、このディオネスという男は王ではないらしい。
しかし、立派な執務室を与えられているということは、それなりに高い身分なのだろう。
「……確かに、見たところはただの少女のようだ」
聞こえるか聞こえないかぐらいの大きさの声で、ディオネスが言った。
ティーナについては、クロモドが王に伝えているはずだ。彼はどのように説明をしたのだろうか。
「変わったことは特になかったのですね?」
何もありません、とアルフィオンが答えると、ディオネスはよろしい、と頷いた。
「ティーナ、王の元へ案内しましょう。こちらへ」
ディオネスは無表情で、態度は決して柔らかくはなかったが、少なくとも必要以上の警戒心はないように思えた。
部屋を出て、今度はディオネスが先頭に立ち、ティーナはラッシュとアルフィオンに挟まれるかたちになった。
「ディオネスさん、何を考えてるか俺もいまいちよく分からないんだよな。でも王様はいい人なんだ」
ティーナの緊張をほぐそうとしてくれているのか、ラッシュがひそひそと話しかけてくれた。
アルフィオンはティーナの顔を見ようとはしない。逆らうな、という無言の圧力を放っている。
廊下を進み、一際大きな扉の前に来た。きっと、この奥に島の王なる人物がいるのだろう。
扉に、鳥の頭を模した金属製の飾りがついている。鳥の頭は、くちばしに輪をくわえていた。
ディオネスがその輪を持ち、扉にとめてある金属の板にこつこつと打ち付けた。
「入ってくれ」
扉の向こうから声が聞こえた。
「失礼致します」
ディオネスが部屋に入り、一礼した。
部屋の中へ足を踏み入れたティーナと、執務机にかけている部屋の主の目があった。
銀色の髪と髭は短く切りそろえられている。瞳は、この島の海の色を思わせる青色だ。
王というぐらいだから、豪奢な冠や衣服に身を包んでいるのかと思ったが、身に着けている装飾品は、青い宝石が中央に一つはまった、暗い金色の首飾りだけだった。座っているので着ているものはよく見えないが、軽そうな銀色の鎧を身に着けている。
ラッシュが、背筋をしゃんと伸ばした。いい人だと言ってはいたが、いざ目の前にすると、その威厳にあてられているようだ。それはティーナも同じだった。
「ローク王、件の少女です」
ディオネスが、片手でティーナを示す。
紹介されたはいいものの、ティーナは緊張で声を発することができなかった。
「ありがとうディオネス。下がってくれ。何かあれば呼ぶ」
ローク王が静かに言った。よく通る低い声だった。
「アルフィオン、ラッシュ、ご苦労だった。お前たちも下がりなさい」
承知しました、とディオネスとアルフィオンが頭を下げ、部屋をあとにする。
ラッシュだけはすぐに去ろうとしなかった。
「あの、王様、ティーナのことは……」
遠慮がちに、しかし王から目を放さないまま、ラッシュが口を開いた。
ローク王は目を細め、頷いた。
「ラッシュ、心配しなくともいい。この娘を悪いようにはしないよ」
「本当ですか?」
「ああ。どうしても気になるなら、外で待っていなさい」
王は声を荒げることなく、子供に聞かせるように優しく言った。
「はい!」
ラッシュは元気よく返事をし、ティーナに微笑みかけて軽く肩を叩いて部屋を出た。
後には、ティーナと王だけが残された。