4章 つかの間の安らぎ
もうすぐ昼時になる。
カーシャは今朝、突然現れた不思議な訪問者の様子をうかがいに二階へ上がったのだが、扉の隙間から、寝台の上で眠る彼女の姿を見て、声をかけることはやめておいた。相当に疲れているのだろう。
ティーナというその少女は、カーシャの目にはひどく怯えた様子に見えた。何をするにもためらいがちで、遠慮ばかりする。未知の場所で戸惑っているのだろうと思っていたが、それに加えて、人に何かしてもらうことに慣れていないようだった。
この島に、外部の人間がたどり着くことはできない。前例はあるが、カーシャの知る限り一度だけだ。
「こういうのに縁があるのかなぁ……」
カーシャが一人呟いた時、玄関の呼び鈴が鳴らされた。
扉を開けると、そこに立っていたのはウィルレンスという青い髪の青年だった。島の医者クロモドの孫で、医者の卵だ。息子のラッシュとも仲の良い好青年で、ウィルと呼ばれている。
「ウィルじゃない。どうかした?」
「カーシャさんこんにちは。伝えたいことがあって」
ウィルレンスはそう言い、扉を後ろ手に閉めた。
「ティーナっていう子のことなんだけれど……」
「ティーナね、今、二階で休んでるよ」
「王様が、明日の朝、迎えに人を行かせるから、今日一日だけ世話を頼むって。大丈夫そうかな?」
カーシャはもちろん、と頷いた。
「良かった。もし、ティーナが体調を崩したらおじいさんがすぐに行くから。あと……もしものことがあったら、それもすぐに知らせてくれって王様が」
「ありがと。……でも、大丈夫だと思う。あの子、ここがどこかも知らないみたいだったし」
カーシャは二階へ続く階段へ目をやった。
「何でか分からないんだけど……あの子、初めて会った感じがしないんだ。うちの子と同じくらいの年だからかな」
本来なら、「よそ者」にあたるティーナを容易く受け入れるようなことはするべきではないだろう。だが、カーシャには彼女を放っておくことができなかった。
「奇遇だな。おじいさんも同じこと言っていたよ」
「そう? 何だか不思議だね」
きっと、ティーナがひどく憔悴しているのを気にしてのことだろう。
クロモドは困っている人を放っておけない性分だし、カーシャも人の親だ。
「じゃあ、俺はこれで。何かあったら呼んで」
「うん。わざわざありがとうねウィル。クロモドさんによろしく!」
***
ティーナは飛び起き、辺りを見回した。
窓から外の景色を見て、自分がどこにいるのかを思い出した。
遠くの方に、きらめく海が見える。時刻はもうすぐ夕方に差し掛かる頃だろう。
疲れと満腹感から、ついつい眠ってしまったようだ。
ティーナは一階へ降りていった。カーシャの姿はない。どこかに出かけているのだろうか。
今までは、下働きとしての仕事が次から次へと降ってきたため、何もしない時間が落ち着かない。しかし、勝手に動き回っても迷惑になってしまう。
大人しく椅子に座っていると、奥から、衣類らしきものが入ったかごを抱えたカーシャが現れた。
「あ、起きた? 気分はどう?」
「はい。大丈夫です」
「良かった。よく寝てたから声はかけなかったんだけど、お腹は空いてる? 晩まで待てる?」
「はい、あの、夜まで待ちます」
満足な食事ができない日々が続いていたせいか、ティーナは食が細い。朝に出された食事だけで、今日一日は乗り切れそうなくらいだ。
「旦那とラッシュが帰ってきたら、すぐごはんにするからね」
旦那、つまりラッシュの父親だ。どんな人なのだろうか。
「そうそう、ちょうど良かった。とりあえずこれ、あたしのお古で悪いんだけど……ちゃんと洗ったから」
カーシャはそう言うと、かごを床に置き、中からワンピースを一着取り出した。
明るい薄茶色の、素朴なものだ。長袖なのはありがたかった。ティーナの体の模様が万が一、出てきてしまっても目立たずやり過ごせる。
「あ、ありがとうございます!」
ティーナは頭を下げ、与えられた部屋に戻った。
カーシャは、ティーナがいた孤児院の先生に比べると、動きも話し方もてきぱきとしているが、嫌味がなくとても親切だ。今まで働いていた屋敷の主人の妻は、いつも不機嫌そうで笑っているところはほとんど見なかった。
今頃、主人や他の召使たちはどうしているのだろう。向こうはきっと、ティーナは死んだと思っている。
これから先、どうなるか分からないが、あの恐ろしい場所と縁が切れただけ良かったかもしれない。
着替えて再度、ティーナが下へ降りると、カーシャが待っていた。
「うんうん。丈は問題なさそうだね。苦しくない?」
ティーナが頷くと、カーシャはよし、と笑った。
「あたし、夕ごはんの準備してるから適当にしてて。外に出れないのは退屈だと思うけど」
「あの、何かお手伝いをさせて頂けませんか?」
これ以上、世話になるだけなのはどうにもいたたまれず、ティーナは切り出した。
「わたし、一通りのことはできます。こちらのお料理のことは分かりませんが……何でもやります! お皿洗いでも!」
ティーナの必死さにカーシャは目を丸くしたが、やがて優しく微笑んだ。
「じっとしてるの苦手なほう? じゃあ、手伝ってもらおうかな」
おいで、と手招きされ、ティーナは居間の奥の台所へ入った。
調理台の上に、カーシャがさっと木の板と包丁を並べ、何かが詰まった袋をどさりと置いた。
「とりあえず、この中に入ってるもの、全部皮むいて切ってくれる? 適当に食べやすくしてくれたらいいよ。うちの男どもは全然気にしないからね」
袋の中には、数種類の野菜が入っている。ティーナが知っている野菜に似ているものもあるが、色や形が変わっている。この島独特の野菜なのだろう。
ティーナは野菜をいくつか取り出し、早速作業に取り掛かった。カーシャは適当でいいと言ったが、今までの癖で、ついつい大きさを揃えてしまう。それでも、速さと正確さには自信があった。少しでも遅かったり雑にすると、しつこく小言を言われていたからだ。
「終わりました」
カーシャは綺麗に切りそろえられた野菜を見て目を瞬かせた。
「ずいぶん手際がいいね! 王様のお抱えになれそうなくらい」
自分のしたことで褒められるのはいつ以来だろう。王様のお抱えというのは言い過ぎな気がするが、ティーナは頬が熱くなるのを感じた。
その後、カーシャのもと、調理の手伝いや皿洗いをこなし、料理がほぼ出来上がる頃には、日が暮れようとしていた。
「助かったよティーナ、ありがとうね!」
カーシャがかき混ぜている鍋には、ティーナが下ごしらえした食材が入っている。香草のいい匂いがした。
「……あの、カーシャさん」
「うん?」
「旦那さんは、どんな方なのですか?」
仕えていた主人や他の召使に怒鳴られたり、睨まれてばかりだったため、ティーナは大人の男性が苦手だった。必要以上に怯えてしまわないよう、事前に心の準備をしておきたかった。
「うちの人? そんな大した男じゃないよ。王様の側近ってだけで」
「えっ!?」
「側近っていっても単なる護衛だね。剣の腕はたつけど、中身はラッシュと大して変わんないよ」
男ってみんな子供だからね、と笑うカーシャをよそに、ティーナの不安は強まっていた。
王様の護衛をしているなんて、もしかして、とても恐ろしい人物なのではないか……。
「ただいまー!」
その時、玄関の方から大きな声がした。ラッシュだ。
カーシャと共にティーナも居間へ向かうと、槍を背負ったラッシュがいた。
その隣に、中年の男が立っていた。耳の上まで短く切りそろえられた髪は燃えるような赤で、顎には薄く髭が生えている。
背が高く、がっちりとした鍛えられた体つきをしている。ティーナがしり込みしてしまうほどの迫力があった。
「お、噂のお客さんだな?」
男が大股で近づいてくる。見下ろされるかたちになり、ティーナは思わず体を縮めた。
「なんだ、ずいぶん細っこい嬢ちゃんだな。子供の鹿みたいだ」
「あんたの面が怖いんだよ」
カーシャが茶化すように言い、男は大げさに顔をしかめた。
「そんな言い方しなくたっていいだろうよ、なぁ?」
「あ、ええと……」
男が淡褐色の目を細めてにっと笑い、手を差し出してきた。
「俺はオーデリクだ。よろしくな」
「ティーナです。よろしくお願いします」
ティーナも名乗り、オーデリクの手を握った。熊のような、大きく固い手だ。
だが、笑った顔がどことなくラッシュに似ていて、ティーナの緊張はかなりほぐれた。
「ティーナ、大丈夫だったか?」
オーデリクの後ろから、ラッシュがひょいと顔を出した。きっと今日一日、心配してくれていたのだろう。
「今日はね、ティーナがごはん作るの手伝ってくれたんだよ。さっさと荷物置いて手を洗ってきて」
「うおっ、そりゃいい。急ぐぞラッシュ!」
「おう!」
オーデリクとラッシュが競うように、二階へ駆けあがっていく。とても仲が良さそうに見える。
「子供が二人いるみたいでしょ?」
呆れたような口調ではあるが、カーシャの目からは慈しみが見て取れる。
笑顔の絶えない、賑やかな家庭。ティーナの知らない世界がここにはある。
顔さえ分からない自分の親も、こんなに温かな人物だったのだろうか、ティーナに知る術はない。
「とても楽しいです。……羨ましい」
「……さ、もうちょっと手伝ってくれる?」
オーデリクとラッシュが戻ってくるまでの間に、ティーナとカーシャで配膳を済ませた。
「いただきます!」
全員で席につき、野菜の煮込みを口に運んだラッシュが、目を輝かせた。
「ティーナ、これ、すごく美味しい!」
「ありがとう。でもわたしは何もしてないよ。ほとんどはカーシャさんが作っているから」
「ティーナも作り方さえ覚えたらすぐに台所を任せられるよ。娘がいたらこんな感じなんだろうね」
「お前の娘がこんなに行儀よく育つかよ。とんでもねえ跳ねっ返りになってるさ」
「ちょっと何それ! 失礼な男だよまったく……」
食事中も会話が尽きない。こんなに賑やかなのは、孤児院にいた時以来だ。
「……ふふ」
ティーナの顔に笑みが浮かんだ。最後に笑ったのがいつか思い出すことはできない。
まったく知らない土地に来て、普通なら不安なはずなのに、こんなにも楽しく感じるのが不思議だった。
「ティーナ、遠慮しないでどんどんおかわりしてね」
「そうだ食え食え。カーシャの飯は美味いぞ。本人は口うるさいけどな」
「あんたはいちいち一言余計っ!」
「ごめんな、父さんと母さん、いつもこんな感じなんだ」
ラッシュが困ったように笑いながらティーナに話しかけてくる。
「……ううん」
ティーナは煮込まれた野菜を口に入れた。とてもとても、温かい。
「すごく、楽しいよ」
***
ティーナは寝台に横たわり、布団にくるまった。
食事の後、明日のことについてカーシャが伝えてくれた。
朝に、王の使いがティーナを迎えにやって来るらしい。王に会って、それから処遇が決められるのだろう。ラッシュも一緒に来てくれると言っていた。
一体、自分はどうなってしまうのか、不安はもちろんある。
だが、たとえ何があっても、今日一日のことは、決して忘れはしないだろう。
そう長くない内に、ティーナは眠りの中へ落ちていった。