瞑想
【四】
5畳一室、キッチン、トイレ付きバス、それにロフト付きのちょっと洒落た洋室の木造アパートの二階部屋。それが先月から移り住んだ俺の住まいだ。南東向きに大きな窓があり、日当たりが良い。天井が高く、シャンデリア風の照明にでかい扇風機がついている。窓の目の前には、ベランダの手すりより50センチぐらいまでの高さの樹木がある。俺の顔と木の頂が同じぐらい。木の種類の名前はわからないが、なんか親しみを感じ、俺は朝起きて窓のカーテンを開けたら、心の中で、「おは!」と呟いている。そして、向こうの木が「よう!」と返事したと思い込むことにしている。
会社勤めをしていた頃、若いエンジニアに気持ちよく、おはよう、と言っても、返事しない人間たちより、木のほうが余程まともだ。途端に、俺は、アイツら人間をやってんのか?! と心の中で叫んだ。すると、何か胃の右横の内臓あたりにもやもやと不安が渦巻いて来た。いけない、いけない、こんなこと思っているとまたあの発作に襲われてしまうと恐れた。
そこで、俺は最近覚えた、クンバハカというヨーガの呼吸法を急いで試みた。クンバハカは、リラックスして息を吸った後に肛門括約筋を締め上げる呼吸法だ。それで、感情の高まりを鎮めることができるというのだが、やり方が悪いのか、俺はイマイチ、効き目がわかってない。だけど、右腹部の気持ち悪い感覚は幾分楽になったように感じた。
このアパート、なかなか気に入っている。横須賀線の線路に近いが、電車の走る音は気にならない。案外、その音はこの樹木の友達と一緒に俺の孤独を癒やしてくれている。しかし、問題は木造の安普請である。ちょっと、脚を動かさなくて上半身のストレッチ体操をしただけで、柱がミシミシと鳴るのだ。引っ越して2週間後、階下に住んでいる40歳ぐらいのやや体格のいい男がフローリングの床をコツコツと鳴る音がうるさくて眠れないと苦情を言って来た。住人同士は迷惑かけあっていろだろうからお互い様ですが、静かにしてください、と丁重に行ってきた。紳士的だったので、約束ごとを決めて穏やかに別れた。しかし、この男が、後で凶暴な態度に豹変することになるとは夢にも思わなかった。
ここに来て一人住まいしているのは、自分の奇病を治すためである。精神神経科、心療内科、神経内科といろいろかかってみたが、医者たちはこの病気を治すことができない。俺はもうやたらプライドばかりが高くて患者に高慢な態度をとるだけで、副作用が不明の薬ばかりをやたら出すだけの無能な医者という種族たちを全く信頼できなくなった。あいつらは、医学という学問を学んではいるが、とても頭がいいとは思えないのだ。俺に言わせると、はっきりと、バカ、と呼ぶのが最適な表現に違いない。病気、とくに人の精神に関わる病気に対処するには、研究心がなければいけいのだが、あのバカたちは医学教科書、製薬会社の説明書、厚生労働省のいうことを鵜呑みにしかできない低能者が多いのだ。
俺は、瞑想の修行で治すことを決めてここに来たのだ。それで、ここのところ、三十分の瞑想を毎日二回はやっている。瞑想は、禅で言う無念無想になれるかどうかが重要である。俺はもう若いころから何十年と坐禅をやってきていたが、ようやく無念無想になることができたようだ。ようだというのは、宗教家が言っている無念無想というのがよくわかってないからだ。無念無想。つまり、何も考えることのない意識状態だと思う。しかし、何も考えない意識状態というのはあり得ないと思う。無念無想になれたとしても、その状態を観測している主体である自分がいて、その主体が「無念無想になっているぞ」という意識の思考が発生するからだ。だから、無念無想というのは、いわゆる雑念を排除し、善悪を離れた中性的な想念だけしか浮かばない意識状態と定義するのがいいと思う。これまた、精神科の医者たちには考え付かない定義だ。あいつらは、瞑想や坐禅をマインドフルネスとか言い換えるだけで、瞑想の本質をわかってない。だって、あいつらは文字学問しか知らず、実践をしないから。
昨日の瞑想で俺は不思議な体験をした。それ以前にも少し不思議な体験があったのだが、今回のは一段と神秘的な体験であった。瞑想中、前方の壁に、数字が見えたのだ。27という数字だった。その見え方は、たいへん明瞭であった。色はついてなかった。黒い背景に白い文字であった。2秒間ぐらい見えたが消えた。そして、今度はその少し上の位置に、アルファベットのAが見えた。これも1秒ぐらいで消えた。はて、なんだろう。なんだ、意味があるのか? ヨーガの修行で超能力が得られるという話がある。ヨーガの修行では、アーサナという身体のストレッチ体操以外に、瞑想修行もする。専門家に言わせると、瞑想こそがヨーガ修行の本命だという。その瞑想で超能力がつくのだ。本当か? 俺が瞑想中に数字を見たのは、一種の超能力か? いやあ、違うだろう。しかし、やけに明瞭な数字の画像であった。
俺は先入観念を取り払って考えることにした。俺は超能力を信じていない。だが、それは先入観念だ。本当に超能力がないといえるのか?ないという証拠あるのか?もし、超能力がないということを証明するなら、全世界、過去の歴史すべての説明のできない不可思議なできごとについて、それらの原因が人間の超能力でないという説明をしなければならない。それは、はっきり言って困難、いやそれこそ不可能だ。しかしだ。超能力があるということを説明するのは、簡単だ。実例を一つあげればいいからだ。よし、わかった。それ、やろう。そう思った。この27という数字が見えたのは、超能力だと仮定するのだ。そして、それが超能力、例えば、何かの予言だとして、予言が的中したとする。そうすれば、俺は瞑想の訓練によって、予知能力という超能力を身につけたのだということになる。そして、超能力の存在が証明されたことになる。
では、いったい何の予知だ。俺が見た数字だから、きっと何か自分の願望や欲望みたいなものと関係がある情報なんだろう。そう思ったとき、ははー。とわかってきた。今でこそ、やらないが、俺は宝くじをよく買っていた。宝くじの当選番号か。しかしなあ。たった2桁の数字1個じゃ。それに、アルファベットのAはなんだ?
わからん。だが、ほかにはなにも心当たりがないので、その線で当たってみるしかなさそうだ。