第1章 1話 『忌能者』
1
ここでの生活は退屈だ。
でも辛くは無い。
そう思い続けて15年間を過ごしてきた。
俺は『忌能者』だ。
『忌能者』というのは能力に目覚める可能性、あるいは能力を持っている者のことだ。
人間と似ているが、その本質はまったく違うようだ。
俺も詳しくは知らない。
恐らく一般人にもその程度の知識しか無いはずだ。
能力を持っているだけで危険視される。
どうやら俺は能力に目覚めているらしい。
らしいというのは、俺は自分の能力に関して何も知らない。
俺だけでは無く誰も知らないようだ。
『忌能者』だということで、俺はこの施設に預けられた。
誰に預けられたかなんて、知らない。
どうせ親だろうと思うけど、その行為には感謝している。
この施設は『忌能者』を監視する施設。
ずいぶん前から稼働しており、今もまだ残っている。
自身の部屋もあり、食事も与えられ、本だって読むことも出来る。
さらには映像だって見ることも出来る。
その映像には色は付いていないが……
ここでの生活には不満は無い。
満足もしたことが無いが、それは外の生活を知らないからだろう。
俺の年齢は今年で16となった。
特に危険で無いと判断されれば、16を迎えた『忌能者』には外で暮らす権利が与えられる。
当然、俺にもその通知は届いた。
外での生活を考えたが、ここでの暮らしは安全だと知っている。
だから俺は外の生活を送るつもりなんて無い。
このまま静かに終わりを迎えたい。
『忌能者』は安全だと判断されれば、国から最低限の生活を保障される。
それを利用しようとも思ったが、そうはいかなかった。
外には危険な『忌能者』も存在するからである。
能力を使用し犯罪を起こす者。
能力を持ち合わせていないが、危険だと判断されている者。
さらには怪物が暴れまわる事態も発生しているらしい。
そんな危険な場所で暮らしていく気は無い。
例え他人に生かされ続けようとも。
とりあえず今は安全だ。
俺はそのことには満足していた。
2
「50番、診察の時間です」
ドアをノックされ意識がドアに向く。
番号で呼ばれることには慣れ切っていった。
昔からこの作業は続いている。
だから慣れない方がおかしい。
しかしこの時間は苦痛だ。
俺は一人が好きだ。
他人を部屋に入れたくは無い。
だが医者は勝手に入って来る。
こちらからは開けることが出来ない。
なぜなら内側のドアノブが存在しないからである。
鍵もかけられ外をうろつくことなんてことは到底出来ない。
俺の世界はこの部屋だけだ。
それを実感させられるのが嫌だった。
3
診察も終わり、医者が出ていく。
ようやく安心することができる。
診察といっても5~10分程度だが、それでも他人が入って来ることは苦手だった。
1日に1度その時間だけは苦痛だ。
でもそれさえ乗り切れば安全な日々を送れる。
今から24時間は一人になれる。
と思っていた。
1時間後……
「50番面会だ。」
そんな予定は無かったはずだ。
何故、俺の邪魔をする。
施設の職員の声が聞こえ、俺が慌てていると、ドアが勢い良く開かれる。
「こんにちは! 『HCT』から参りました日向灯です! よろしく!」
ここでは全く聞かないレベルの大声が響き渡る。
誰だこの女は?
髪はショートカット。
そして黒のスーツをだらしなく着こなしている。
取りあえず着ている感が感じ取れる。
しかし、目だけは真っすぐこちらを見ている。
その真剣な眼差しからはつい目を逸らしてしまう。
そして彼女が放つ情熱と明るさからは、一瞬でこの施設の人間ではないと気付いた。
久しぶりに生身の女を見たな。
映像ではよく見ているが、生身では女という生き物を忘れるほど見ていなかった気がする。
医者も男だしな。
女性をここでは見かけることが少ない。
『HCT』と言っていたな。
確か、人間と忌能者を取り持つ組織だった気がする。
何故、そんな人がここに?
「入ってもいいかな?」
といってこちらの意見も聞かずにズケズケと入って来る。
とりあえず質問に頷く。
こんな人間は初めて見た。
というよりも比較対象が少ない。
「今日ここに来たのは、あなたには外で暮らす権利があることを伝えに来たの」
そういうことか。
「興味無いので結構です」
「興味が無い訳では無いと思うけど、基本的にここの人達は、大抵は外の生活に憧れをもっているもの。あなただって無関係ではないと思うけど」
この人はここにいる施設の『忌能者』を人だと言った。
知らないはずはないのに……
『忌能者』は人ではないことを
「俺はここから出る気はありませんよ」
これでこの話は終わりのはずだった。
「そんなこと言わずにさ、一度外に出てみようよ」
この女はしつこいなぁ。
「一度外に出たら最後、二度とここに戻れないでしょう。お試しで外に出るなんてことは出来ないんですよ」
「外には美味しいものも沢山あるよ。楽しいことも、ここでは出来ないことがあるんだよ!」
以前、その生活に憧れはしたがその気持ちはすぐに薄れた。
「外での生活は危険が付きまといます。日向灯さんと言いましたね。知らないと思っているんですか? こっちは良く調べ考えた上でその結論を出しているんです」
お願いだから俺の生活を邪魔しないでくれ。
「そっか、君がそこまで言うなら強制は出来ないね。でもね、もし気が変わったらここに連絡をして……すぐに迎えに行くから。」
彼女は一枚の紙を俺に手渡す。
名刺というものだ。
連絡先と名前と『HCT』という文字が書かれていた。
そして彼女はドアに向かって歩き出す。
「どうしてあなたはそこまで連れ出そうとするんですか?」
最後につい余計な質問をしてしまった。
「『忌能者』差別なんてものを無くしてみせる。それが私の使命だから」
この世界にはまだこんな考えを持った人がいるのか。
「またね」
最後にその言葉を残して彼女は笑顔で去っていった。
4
その後、彼女のことを考えた。
俺に普通に接してくれたのは記憶にある限り彼女だけだ。
「日向灯か……」
彼女の名前を口に出してしまう。
人間には特に興味も無かった。
しかし彼女の出会いの印象が強すぎた。
最初から大声で喋ってくるものだからこっちもつい大声で喋ってしまう。
久しぶりに大声を出して少し喉が痛い。
「そういえば『またね』って言っていたな」
また来るつもりなのか?
恐らくまた来るのだろう。
外の世界にではなく彼女に興味を持った。
日向灯の持つ人間性に。
会えるのは1ヶ月後かさらに先か。
彼女との会話は暇つぶしになりそうだ。
その夜、無人エレベーターで運ばれてくる食事を終え、シャワーを浴びる。
冷たい水が体を冷ます。
最初は冷たいが慣れてくると気持ちのいいものだ。
別に綺麗好きという訳では無いが、シャワーの時には考えごとをしなくていい。
というわけでシャワーは一日に三回は浴びることにしている。
それに、シャワーを浴びると心地良く睡眠もはかどる。
本も読んだし、あとは寝るだけだ。
睡眠中は時間を忘れることが出来る。
一日は長い。
でも睡眠が8時間なので1日を3分の2に削ることが出来る。
眠ることは得意だ。
しかし今日は中々、寝付けなかった。
頭の中で考えごとが始まったからだ。
外の世界のこと、日向灯のこと、自分自身のこと。
これが始まると寝付けやしない。
しょうがない薬を飲むか。
これを飲むとすぐに眠れる。
強制的に訪れる睡魔。
あまり使いたくないが仕方が無い。
余計な考え事は薬が効き始めるまで続いた。
5
その夜、夢を見た。
夢と現実の違いはすぐに分かる。
部屋であれば現実。
部屋でなければ夢だ。
この風景しか知らないから当たり前か……
でもその夢は温かなものだった。
男性と女性が一緒にいて二人の赤ん坊を抱きかかえている夢だ。
背景には小さな家が映っている。
まるで何かの記念写真のようだ。
この夢をずっと見ていられる気がする。
こんなシーンは映像にでもあったかな?
いや、俺はこの夢を知っている。
何度も出てきた。
その夢をまた忘れていたのか。
以前、同じ夢を見るために何度も挑戦したことがある。
結果は失敗だったが……。
今回は見たかった夢がついに見ることができた。
今度は忘れないようにしよう。
そうであって欲しい。
そして夢の映像に注目する。
男性と女性の顔はぼやけて見ることが出来ない。
二人の赤ん坊は確認できる。
一人は男の子、もう一人は女の子だ。
顔が見えてもどうすることも出来ないのだが、見えないと気になってしまう。
女性が手招きをしている。
だがそこに近寄りたくても行くことは出来ない。
映像が薄れていくことに気付く。
もう夢の時間は終わりみたいだ。
そうして俺は現実に戻される。
6
ここには太陽の光が差すことはない。
外を見るための窓も無いので当たり前のことだ。
だが、目覚まし時計が鳴ったことによって、強制的に目覚める。
時刻は午前六時。
朝という概念は俺には存在しないが、大抵この時間に起きることにしている。
起きてすることといえば当然シャワーだ。
一日三回のシャワーをここで使う。
二回目は昼。
理由は昼寝に都合がいいから。
三回目は夜。
一日の終わりには欠かせない。
冷たい水が意識を覚醒させてくれる。
シャワーを終えて、食事が運ばれてくる。
さっさと済ませ、読書の時間だ。
と思ったが、それを中断せざるを得ない事態が起こった。
「おはよう~! 起きてる⁉」
無駄に高いテンションの挨拶が部屋中に響き渡った。
一週間後とかではなく、次の日に来やがった。
しかもこんな早い時間に。
心の準備をすることも出来なかった。
ノックも無しに入られたからだ。
「おはようございます。何ですかこんな時間に?」
とりあえず挨拶はした。
「いやぁ、また説得に来ちゃった」
『HCT』の連中はこんなのばっかなのか?
まあ、いいとりあえず追い返そう。
「外に出る気はないので帰ってくれますか?」
「つれないなぁ。とりあえずおしゃべりしようよ」
こっちの言い分は却下された。
しょうがない話を合わせるか。
「とりあえず私の名前は覚えている?」
「日向灯さんでしょ? それくらい覚えていますよ。この場所で覚えておくことは少ないんでね。大抵のことは記憶していますよ」
「正解。でも君の名前を聞いてないんだよね。教えてくれるかな?」
「50番では駄目ですか?」
あまり言いたくなかった。
この名前は自分だけのものだったから。
「それはただの番号だよね? 君の本当の名前を教えて」
その口調は穏やかだった。
問い詰めるわけでもなく、ただ単純に聞きたいだけだと感じ取れた。
「調べられているはずでは無いんですか? データに残っていると思いますが?」
「うん。でも君の口から直接聞きたいな」
どうやら引き下がるつもりは無いらしい。
自分の名前を名乗るのは勇気がいる。
ましてや知らない相手に名乗るのは。
俺たち『忌能者』には人間と同じような名前は無い。
人間には苗字などというものがあるが、『忌能者』には存在しない。
苗字は人間にだけに与えられたものだ。
『忌能者』には与えられたのは簡単な名前。
それも名前とは呼べないものだ。
誰が名付けたかは知らない。
この世界は『忌能者』の数が増えることを許さない。
当然、結婚をすることも子供を産むことも許されない。
『忌能者』を徐々に減らしていく方針だ。
それも直接、手を下さず緩やかに減らしていく。
そして最後に残るのは人間だけとなる。
それが世界が決めたこと。
でも、この人になら伝えてもいいのかも。
そう信じて伝えることにした。
「俺の名前はコウです……よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくコウ君」
灯さんは無理矢理、俺の手を手を握り握手を交わした。
その手は温かくて心地が良く、安心感を得た。
この人は他とは違う。
俺のような『忌能者』にでも普通に接してくれる。
この人は信頼しても良いのだと思えた。
それから日向灯との交流が続いた。
断ってもまた次の日には現れた。
決して折れない。
ただ説得するだけではなく、他愛無いおしゃべりが大半の内容だった。
一度、外の食事を持ち込もうとして施設の職員に怒られたらしい。
俺は日に日に彼女との会話を一日の楽しみにしていた。
それでも説得に応じるつもりは無いが。
誰かと過ごすのは心地よかった。
帰り際に「またね」と残して去っていく。
帰ってしまうと寂しく感じる。
でも次の日にはまた会える。
そう思うと俺の中で単なる暇つぶしが楽しみに変わっていた。
7
説得には応じそうか?
私の上司が気にかけているのは現在、私が手掛けている仕事のことだ。
今は彼について報告しているところだ。
「いやぁ、中々、外に出ようとしませんね」
「君が手こずっているのは相当だな」
「彼は頭が良くてですね」
コウ君は本当に頭が良い。
施設にいても現実を理解している。
「この件からは手を引いてもいいぞ」
少し考えたが諦めはしない。
「まだ粘ってみますよ。それと説得することができたら彼を『HCT』に所属出来ませんかね? 彼のような人を所属させて、前例を作ることによって私たちの目標に近づけるかもしれませんよ?」
かなり無茶なことを言ってみた。
本来、『忌能者』に普通の仕事をさせるなんて不可能だと言われている。
周りからの圧力や危険視によって雇った職場は潰されかねない。
「難しいかもしれないぞ。でも俺たちの目標には近づけるな。こっちも頑張ってみるよ。ではお疲れ」
「はいお疲れ様です」
特に残業することは無いので職場から退散する。
今日は何を食べようかな?
食事を持ち込めないというのは迂闊だったな。
外でぜひコウ君と一緒に食べてみたい。
そのためには連れ出さないといけないが……
さて明日は何を話そうかな。
私は新しいタイプの子と出会ってワクワクしている。
彼と話して分かったことがある。
彼は悪者では無い。
悩みを抱えている少年だ。
それを解決することができればきっと説得できるはず。
彼の悩みは外の世界での危険。
それはこちらも理解している。
外には危険がいっぱいだ。
彼にはそんな目に合わせたくない。
外に出ることになったら必ず私が守って見せる。
そのためにこれが与えられていることを思い出した。
それでも対処するのが精一杯だ。
完全に防ぐのは不可能だろう。
何かを変えるには私一人では無理だ。
ぜひとも彼に協力してもらいたい。
彼を利用するつもりは無い。
彼に無理強いさせるつもりもない。
それでも彼は私たちの希望になってほしい。
この危険の世界を変えるための小さなきっかけにでもなってくれること。
それが私の願いだ。
8
その後、二週間ほど彼女との交流は続いた。
彼女の流れは最初に説得を試みる、その後に俺が読んでいる本や見た映像の話。
そして仕事の愚痴や、彼女の身の上話。
たまにそそられるのが外の世界の食事だ。
彼女はここでの食事内容を見て唖然としていた。
やはり外の世界の食事はここよりも充実しているのだろう。
そんな話をしているだけで楽しいという気持ちが芽生えたのが自分にも分かる。
しかし今日は違った。
「コウ君に折り入ってお願いがあります」
俺は無言で頷いた。
彼女の真剣な眼差しが大事な話があると、それを物語っていた。
「ここから出て私と一緒に『HCT』の職員になってほしい」
それは今までの説得とは違った。
ただ単純に外に出ろという訳では無い。
新しい提案だった。
人間と一緒に働く、それは『忌能者』にとっても人間にとっても難しい行為だと俺は知っている。
「少し考える時間を下さい」
「ごめんなさい。いきなりこんなお願いをしてしまって」
彼女に申し訳なさそうな顔をさせてしまった。
こっちこそ申し訳ない。
でもそれ以上、言葉が出ない。
思ってもいない提案だったからか思考が働かない。
「じゃあ、今日は帰るね」
「またね」と言って去る。
いつもと違っていたのは笑顔では無かったこと。
今日は会話も無かった。
今日は楽しくも無い。
ただ悩みだけが残った。
9
今日は失敗してしまった。
と嘆きながら家に帰宅後、スーツを脱ぎ捨てソファ―に横になる。
せっかくコウ君と仲良くなれたのに先走りすぎてしまった。
こういう時はすぐ眠るか、ビールを飲むかの二択に絞られる。
だがまだ眠るに早い。
現在午後八時。
眠るのには少し早い。
眠ったとしても早い時間帯に起きてしまう。
しょうがないビールを飲むか。
シャワーも浴びずに冷蔵庫に向かう。
本来なら順序は逆だがこういう時はすべて無視する。
冷蔵庫から一本の缶ビールを持ち出し、冷蔵庫のドアを開けたまま缶の蓋を開ける。
プシュと音を鳴らし、缶を口に運ぶ。
火照った体が冷やされていくのを感じ、冷蔵庫のドアを後ろ向きに足で閉める。
徐々に心地よくなっていくのを感じるとソファーに向かう。
ソファーに寝そべり、缶をテーブルの上に置く。
この調子だとすぐに飲み終わりそうだ。
嫌なことを考えると食欲が湧かない。
誰でもそうだろうが、私の場合、普段はよく食べる癖にこういう時にこそお腹が空いてほしいものだが中々そう上手くいかない。
とりあえず栄養ゼリーだけでも口に入れておく。
この類はあまり食べないがよくもらうことがあるので大量に備蓄してある。
どうせならプロテインが欲しいと思っているのだが、女にプロテインをプレゼントしてくれる人はあまりいない。
栄養ゼリーと缶ビール。
なんともミスマッチな組み合わせである。
他人が見たら奇異な目で見られるだろう。
でもここは自分の家、見られる心配はない。
私はあまりこういう姿は人には見せない。
まぁ誰も見たくないだろうな。
誰からみても部屋中が物で溢れかえっている。
服は脱ぎ散らかしており、もちろん夏服、冬服の整理などしたことは無い。
衣替えをしなくていいから楽だよ。
いわゆる汚部屋だ。
ゴミを捨てる以外のことはしてないので、掃除は入居してからほとんどしていない。
別に苦情などはきていないから匂いなど迷惑はかけてないだろう。
ちゃんと汚部屋マナーは守っている。
とりあえず寝る場所、座る場所は確保できている。
これで生きてはいけるよ。
病気もあまりかかったことはない。
でも最近、困っていることがある。
リモコンが消えたことだ。
エアコンやテレビのリモコンがよく消える。
夏や冬の時には困るがとりあえず今は大丈夫だ。
家に人を上げることも少ない。
友人はいない訳では無いけど、大抵は外で済ませることが多い。
この光景を見せたら驚愕するだろうな。
割と外では見た目以外はしっかりしている方だと思っている。
職場のデスク周りも綺麗》だし、職場の掃除もやっている。
みんなからは気が利くと思われているはずだ。
そう思われていると信じたい。
少しは部屋の掃除でもしようかという気持ちにはなった。
いつするのかは別として。
今さらながら、悔い改めている独身OLでした。
何度目だろうか大きな後悔、小さな後悔。
嫌なことを考えると次々に浮かびだす。
今日のこと、部屋のこと、両親の死のこと。
両親のことは後悔では無いな。
これは悪い記憶だ。
でも決して忘れてはならない記憶だ。
酔いが回ってきたのか、体がフワフワと感じる。
ようやく嫌な記憶から解放される。
この瞬間ぐらいは忘れてもいいはずだ。
ソファーから立ち上がり、自分のケースから黒い腕を取り出す。
人間の手では無い人工物の腕。
これは私を守ってくれるもの。
私にとっての大切なお守りだ。
でもこんな時には助けてはくれない。
それを手に持って眺める。
その黒い指先と手を絡める。
こういうことをしても意味が無いのは知っている。
でもこれに頼りたかった。
私をいつも守ってくれるものはこれだった。
コウくんとは、しばらく期間を空けるか。
明日からは彼には会いに行かないつもりだ。
少し、私としても気まずい。
彼にとってもその方が、都合がいいはず。
「考える時間かぁ」
彼はその言葉を言った後、顔を曇らせていた。
誰でも急に選択を迫られたら困るだろう。
私にもその時間は欲しかったな。
私には考える時間は無かった。
あれは選択では無く決断だった。
あの時、この黒い手を取らなかったら私は死んでいた。
生きるためにこの道を選んだ。
それは間違っていないと今でも思っている。
でも他に別の生き方が出来たならとふと思う時がある。
考えても仕方のないことだ。
今さらやり直すなんてできない。
まぶたが重い。
そういえばシャワー浴びて無かったな。
まぁ明日にでも浴びればいいか。
考え事がどうでもいいことになり、私の意識は落ちた。