適当に指で開いたページ――あなたは、先を知りたかった
ベッド暮らしでなまった足には、醤油坂の下り勾配が少々堪えた。葵さんは時々僕の方を振り返りながら、ゆっくりと歩いていた。
カン、カン、カン……
門前辻の踏切がある方角から、遮断機の音が聞こえる。ジープめいたデザインの軽自動車が一台、減速しながら踏切へ向かって北上していった。そのあとは、不思議なほどに誰も何も辺りを通らない。
坂を下り切ったところから南へ曲がる。そこには東西へ走る狭い道があり、三十メートル程度の間隔で街灯が灯っていた。ナトリウム灯りの冷たいオレンジ色――もしかしたら調色したLEDランプかも知れないが。
公園があった。遊歩道と言ったほうがしっくりくるような、幅が狭く細長いもので、例えば子供が遊ぶにはあまり向いていない。だが、そこには別世界の光景が広がっていた。
五分咲き程度に開花し始めた見事な桜並木を、ナトリウム灯が照らし出していたのだ。夜の空気全体が何かの舞台の上のように色づいて――その桜の下で僕は、葵さんと並んで立っていた。
「これは――」
「この景色を、見せたかったんです……素敵でしょ?」
「うん」
言葉が出ない。
ずっと昔、まだ幼いころに、これと同じような夜桜を見たような気がした。だが、それがどこなのか、まるで思い出せない。
思い出したい――そう、思おうとした。だが僕の頭は、この美しい夜桜と、隣に寄り添う葵さんの存在感に、酔ったようにすっかり痺れてしまっていた。
ああ、そうだ。今目の前にあるもの以外、なにも必要ないではないか。
「少し、休んでいきましょうか」
「はい」
僕はうながされるまま、バス停にあるような鉄と木材でできたベンチに、腰を下ろした。三月とはいえ夜気にさらされた鉄は冷たく、ジーンズの生地を貫いて冷たさが太ももに沁みとおってくる。
「ちょっと、寒いです」
葵さんは少し首をかしげると不意に小走りに駆け出した。どこへ、と問いかけると、彼女は走りながら振り向いた。
「自販機で買ってきます、何か、温かいもの――」
植え込みに遮られてよく見えないが、どうやら公園を横切って反対側に、簡単な屋根のついた自販機スペースがあるようだ。
(コーンポタージュか、ココアがいいな……)
ぼんやりとそんなことを考える。コーヒーはあまり好きではない――
「あ」
そうだ、思い出した。僕はコーヒーが好きではない。舌の先が熱でちりちりと痛み、味覚が働かなくなる感触が不意によみがえった。
どこかで、火傷したことがあるのだ。それだけでは何がわかるわけでもなかったが、失っていた記憶が一つ戻ってきたことを噛みしめながら、僕は葵さんが戻ってくるのを待った。




