あとがき――あなたは、それを最初に読んだ
春先になると、きまって繰り返し見る夢がある――
引っ越しを全くしたことがない人、というのは少ないのではないかと思う。親の転勤で、進学や就職で、また結婚で、時には都落ちで。人は人生の様々な場面でそのすみかを変え、新しい日々を刻み始めるものだ。
ご多聞に漏れず、僕もこれまで何度か引っ越しをした。大学在学中にふと一人暮らしを始めて以来、六回ほど経験し、実家を除けば四件ほどの物件に身を寄せた。
大学にほど近い裏通りの、八十歳をとうに過ぎたお婆さんが経営する、風呂トイレ共同の学生アパート。
郷土銘菓の老舗が所有する、古めかしい『文化住宅』を南北に並べて押し込めたような長屋。
それらは揺るがない事実として僕の記憶の中にあり、ひとつひとつの名前まで含めて、詳細に思い出せる。そこに事実を誤認するような余地はないのである。
ところが僕には、春先になるときまって繰り返し見る夢がある。
夢の中というのは妙なもので、見ている間はそれが現実ではないことにはめったに気づかない。気づかないから疑わないし、夢を見ている間は、そこで起こる出来事や心に湧きたつ波風に一喜一憂して振り回されるのだ。
その夢を見る時だけ、僕は存在しなかった引っ越し履歴を抱えている。現実には一度として住んだはずのない奇妙な賃貸物件が、いくつもいくつも出てくる。
大学の学生会館に隣接する雑然とした学生寮の中であるとか、職場のある場所から大きな街道一本ぶん北にずれ込んだ、寂しい並木道にたたずむ民家の、広縁と雪見障子に囲まれた一室であるとかに身を寄せたことになっていて、あろうことかその一軒一軒には、引き払う際にまとめきれなかった荷物をいまだに置かせてもらっているという、現実にはおよそあり得ない非常識な行為が継続されている――そういう設定なのだ。
どうしてそんな夢を見るのかということは、おおよそ想像がつくのだけれどもここでは割愛する。そいつをはっきりと言語化してしまうのは、どうも金の卵を産むガチョウを解剖するに等しい行為のような気がしてしょうがないからだ。
さて、お読みいただいたこの「醤油坂の、その家で」という物語も、もともとはそんな、不安でどこか郷愁を誘う夢として僕の前に現れた。手元のメモには『二〇一二年の九月八日』とあるから、長い東京在住生活の中でも割と最悪の状況だった時期だ。
漫画家アシスタントの仕事は途切れて久しく、世間も地震のダメージからさほど回復出来ていなかった。
適当な仕事は見つからず、見つける努力もともすると手が鈍りがち、困窮してどうしようもない日々が続いた。
とある出版社のライトノベル新人賞公募に投稿する作品を書こうとしたものの、今ほどにも文章を書くことに経験値が足りていなかった僕は、期日までに規定枚数を埋めることすらできなかったのだ。
さりとてそのまま抱えておくこともできずに、未練がましくも無駄を承知で未完成品を郵送した。愚かしい限りである。その原稿は今でもパソコンのハードディスクの片隅に手のつけようもないまま眠っている。
自分の能力に愛想をつかしたくなるような顛末に、若干の虚脱状態にあった頃。
懐に生活を支えるだけの金銭もなく、先の見通しなどまるで立たない、そんな昼下がり。
疲れ果てて万年床の上に身を投げ出した僕は、いつしか本作に登場する『醤油坂ハイツ』とほぼ同様の、変な部分が駅前に繋がった、アパートとも雑居ビルともつかない奇妙な物件で暮らしていた。
しかもどうにも気色の悪いことに「これはどこかで見た、だれかの作品だったはずだ」という観念が、既視感が終始付きまとうのだ。
ようやく目覚めたとき、気持ち悪さにうんざりしながら僕はこの夢をメモしたのだ。起きた後でも既視感は染みついていたし、メモした段階ではその「だれか」は英国の詩人ウィリアム・ブレイクだということになっていた――『無垢と経験の歌』の作者であるあの詩人、そんな話は作らなかったはずなのに!
さて、あれから数年。またしても住む場所が変わり、仕事も何度か変わった。どうにか死なずに生きのびたが、春になるとやはり同じパターンの夢を見る。そんな蛹にすらなり損ねた芋虫のような、居心地の悪い何とも言えない身じろぎの中ではあるが、様々なご縁に恵まれてようやくこの物語を皆様の手元にお届けすることとあいなった。
畏友ともいうべき奥沢トビスケ先生からは、実に素敵な帯コメントを頂いた。感謝はまことに言葉に尽くせない。
あなたがこの物語、菊谷川杜嗣と彼が出会った者たちとの、奇妙な日々についての記録を幾ばくかでも楽しんで頂けたことを、僕はこの火の気のない部屋で一心に願っている。
二〇XX年一月二十九日、熊本にて。
冴吹稔 拝
ところで。
あとがきを先に読む、というのは少しばかりお行儀の悪いことだとされている。だが僕自身は大好きだ。
作品が世に出るまでの苦労話あり、作者自身にも解けない創作の謎と秘密が少しだけ紐解かれることもあり、作品にかかわった人々への謙虚な謝辞もある。
物語に触れるにあたっての、作者からのちょっとしたおせっかいな耳打ち。そんな風なものだとすれば、むしろいつ読んでもいいと思うのだが、いかがであろうか。