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醤油坂の、その家で  作者: 冴吹稔
奇妙な日付
14/20

葵さんと、スマホと

 ゴォン……


 夕空に長くこだまを引いて、了傳寺の鐘が鳴りひびく。僕と葵さんは駅前の繁華街を離れ、醤油坂通りの北側を連れだって歩いていた。澄んだ空気の中を差し込んでくる金色の光が、目に映るものすべてをその輝きに染めている。


 道沿いに築かれた低い擁壁の上、ひときわ白く照り映えるものに目を奪われて、僕は思わず足を止めた。

 何だろう、と目を凝らせば正体はほどなく判った。あと少しで山の端にかかろうとする夕日に照らされた、枝いっぱいの白い花だ。ごつごつした幹から伸びた若枝が、生け垣越しにその指を空に向かって広げていた。

 

「あら、梅ですね。いい香り」


 葵さんが横でそんな声を上げた。どうやら二人で同じものを見ていたらしい。

 

「梅の開花って、もっと早いと思ってましたけど」


「品種によって結構違うみたいですよ」

 

 退院してみれば、もうそんな季節。日没の時間もだいぶ長くなってきているようで、新調したばかりのスマホで確認すると五時半をちょっと回ったところだった。


「あー……すみませんでした、葵さん。こんな時間まで」


「べつに構いませんけどね。でもちょっとびっくりです、スマホの買い替えってこんなに時間がかかるんですね」


 銀行の口座確認とスマホの新規購入に手間取って、僕たちは今日の午後を丸ごとつぶしてしまっていた。

 

「まあ、どっちかというと僕がうっかりしてたせいですよ……」


 端末に格納した各種データの「お預かりサービス」というやつを契約してはいたらしいのだが。

 間抜けなことに事故前の僕は、それが専用のアプリを使って自分で能動的にバックアップをする仕組みだ、ということを全く把握していなかったようなのだ。 データを復旧すれば、自分の過去の交友関係やら重要な連絡先やらも出てくるか、と思ったのがすっかり当てが外れた。


「あれがなければ、店員の説明ももう少しさっくり終わったかなって」

 

「そうかしら? 普通の更新手続きの方がずっと長かったと思いますけど……」


「それだって、僕の記憶がしっかりしてればもうちょっと――」


「うーん…今日見るまではちょっと興味あったんだけど、やっぱり私、スマホって買わないと思います」


「え?」


 話が意外な方向へ転がって、ちょっとびっくりした。そういえば、入院中から今日まで、葵さんがスマホの類をいじっているところを見たことがない。


「葵さん、もしかして携帯とかスマホとかって……」


「ええ。持ったこと、ありません。なんだか馴染めないんですよね、ああいう()()()ものって」


 こともなげに言い放つ彼女に、ちょっとどんな言葉で会話を繋げていいかわからなくなった――新しいもの、と言われても、葵さんは見た感じせいぜい僕より五つかそこら年上の二十代後半にしか見えない。そのくらいの年なら、携帯電話の類はそれこそ生まれたときから存在していそうなものだが。


「で、でも。ないと不便じゃありませんか? スマホや…それかパソコンとかあれば、メールやメッセンジャーで連絡もできるし、ハイツの会計とかだってアプリがあれば」


「別に。電話ならうちにありますし、細かい計算なんかは金垣内さんに頼めばやって下さいますしねえ」


 まるでずいぶんな年配のご老人のようなことを言う。まあ、彼女のまとうどこか浮世離れした雰囲気からすると、確かにそれが当然というか、むしろそういうものを手にしているところが想像できない気もしてしまうのだが。


「ああ、でも」


 葵さんは不意に、何かとても素敵なことを思いついたような表情で、僕に笑いかけた。


「杜嗣さんがそういうものを使われるんでしたら、私も少しは理解(わか)ってないとですね」


「何なら、お教えしますよ!」


 笑顔にほだされて、思わずそんなことを請け合ってしまう。彼女はクスっと笑うと、また前を向いて歩きだした。


「今度、ぜひ一緒にお願いします。さ、冷えてきましたし急いで帰りましょ」


 そういうと葵さんは僕の右腕を抱き取るような体勢になって、僕の体重の何割かを支えるように努めながら一緒に坂道を下り始めた。


「あ……えっと、何を」


「今日は結構歩きまわりましたからね。足が疲れただろうなと思って」


 昨日は大したことないだろうと、普通に下って行った道だったのだが、そう言われれば確かに駅周辺でうろうろした分、疲れてはいた。しかしこんな風にもつれ合ったような体勢で歩くというのは――


「……かえって危なくないですか、これ」


「大丈夫です。転びそうになったらしっかり抱き留めますから」


 そう言われれば無理に断るだけの気力は僕にはない。セーター越しに感じる葵さんの体温と鼓動に、心地よさと少しだけ動揺を覚えながら夕闇が落ち始めた道を、ハイツに向かって下って行った。 

 昨日と同じ道順だ。クリーム色に塗装された古い歩道橋と、その傍らには薄汚れた電話ボックス。そして、その東側に唐突に現れる、信号機も何もない横断歩道――白色塗料の中にガラスビーズがきらきらと光る、真新しい縞模様が、付近の荒れたアスファルトにそぐわない、それ。


 渡った先にあるのが四階建ての奇妙なシェアハウス、醤油坂ハイツ。一晩経ってもまだ実感がわかないが、とにかくここが僕の家なのだった。


         * * *


「で、杜嗣くん。口座の方はどうだったのよ」


 夕食の席で、金垣内(かねがいち)さんがいきなりそんな話を切り出してきた。


「何でそんなことを、わざわざ他人に報告しなきゃならないんですかね……?」


 思わず口からそんな言葉が飛び出したが、僕は怒ったわけではない。どちらかというと、金垣内さんの無造作な距離感の詰め方に面食らった。


「だって、昨日の夕食で話題にしたし、あたしは金融業で働くプロの視点から助言もしたわけだからさ。むしろ報告するのが筋なんじゃない?」


「そ、そりゃそうかも知れませんけど」


 昨日の助言は確かにありがたかった。暗証番号のメモを探し出せなかったら、今日銀行で口座を確認してちょっとガッカリすることもできなかっただろう。

 しばしの沈黙の後、僕は折れることにした。意地を張っても別にいいことはない。金垣内さんだって、彼女なりの親切で言ってくれてるのだろうし。


「……わざわざ照会するほどの残高でもなかった、って感じですね」


「そっかあ」


 金垣内さんはケタケタと笑うと、食卓に勝手に持ちこんだ缶ビールをあおった。


「そりゃ、報告したくはないよね……あたしは『口座はちゃんと維持されてたか、不審な出金はなかったか』とかそういうことを言いたかったんだけど」


 からかわれた! 一瞬、頭にまた血が上りかけたがそれはすぐ消沈に切り替わった。


「なんせ記憶喪失ですからねえ……不審な出金、と言われたってどれがそうか、何もわかんないです。ええ」


「でも、良かったじゃないですか。記帳ができただけでも」


 隣に座った葵さんが僕の肩に手を置いて、たしなめるようにそういった。


 まあ確かに。記憶を失う前の僕は結構だらしないやつだったらしく、事故前の三カ月ほどはろくに記帳もせず、少額のお金を漫然と引き出しては日常の用に当てていたらしかったから。その出入が改めて明らかになっただけでもいい事なのは間違いない。

 

 ただ、僕にとってはやっぱり額面の方も問題なのだった。生活費や家賃の心配はないとはいえ、僕自身の口座には今、ざっと三万円程度の残高しかなかったのだ。もちろん、これを金垣内さんに教える気はさらさらなかったが。


 食事を済ませて部屋に戻る。もう少ししたら風呂場の掃除をしてお湯を張るのが僕の役目だが、それまでは若干の自由時間があった。

 新機種に交換したばかりのスマホを引っ張り出して、こたつテーブルの上に置く。その横には、昨日新宮さんに貰ったメモ――彼女のメールアドレスが記されたそれを見ながら、メールアプリを立ち上げて連絡先に登録する。


(……約束を守っただけだし、いいよな?)


 まっさらだった連絡先リストに、「新宮薫」と名前が表示されると、何か葵さんに対して酷く不実なことをしているような気がした。

 だが僕はその妙に後ろめたい気持ちを、誰かとつながりを持つことのときめきで塗りつぶしながら、数行のメールをしたためた。

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