教師の失態
「こう言った時の作者の気持ちを述べよ」
国語、もしくは現文の授業ではこういった問題が多々存在する。私はこのような問題ははなはだ不適当だと思う。
なぜなら、そういった問題を出す題材となる作者は大抵あの世に旅立ってしまっていることが多いからである。コレが旅立っていずにまだ存命している、もしくは何故そう言ったのかを明確に残している場合は無問題だ。が、そのようなケースはそんなに無い。
私は思う訳だ。「何故、作者の明確な証言が無いのにそのような問題を出すのか?」と。現時点で我々には正解なぞわからない、シュレディンガーの猫状態であるのに、やれ正解だの不正解だのとのたうち回るのは由々しき事ではあるまいか?
孟子と孔子の話で、「君は僕じゃない。だから君に僕の気持ちはわかるまい」と言うニュアンスの事が書いてあったが、それはこのケースにも適用される訳で、我々は作者じゃないので作者の気持ちなんざ分かるわけがないのだ。
例えば恋愛小説で、現在彼女とデート中の時に元カノと会ったというシチュエーションにおいて《「君は先に行っておいてくれ。」と作者が言った時の気持ちを答えよ》という問題があったとしよう。大抵の人間は「現在の彼女に昔の事を知られたくない」や、「現在の彼女に不快な思いをさせたくない」等と言う答えが出るだろう。この作者が三途の川を渡ってしまっている場合、道徳的モラルにのっとって考えればそれは正解なのだろう。しかし、実は作者の考えは「もう一度この女とやり直したいから、口説き落とすために現在の女はどこかに行ってもらおう」という考えならば?もちろん大抵の人間が答えた回答は間違いである。つまり本来は本人で無い限りこの手の問題は正解できない、いわば《神のみぞ知る》問題なのである。
その問題を現代の人間はこぞって出している。そして、それは問題に限らず我々の生活にも及ぼしているのだ。「あの人はこう思ったからこういう行動をしたのだ」などとわけの分からない事実無根な事を言い、楽しんでいる。貴方の周りにもそういう人は存在しているだろう。当人からすれば迷惑極まりない事でしかない。例えそれが良い方向の妄言であったとしてもだ。この様な現象が起こったのは、もしかしたら先に上げた問題が原因であるのかもしれない。なので私ほ「作者の気持ちを述べよ」という手の問題にはどうも好感がもてないのである。