86 それから
「おつりもちゃんと貰ったし、これで買い物は全部かな」
アルガリタの町の市場通り。
そろそろ夕飯時ということもあってか、通りは買い物客の主婦で賑わっていた。
サラは買い忘れた物はないかと指をひとつひとつ折りながら確認する。こうして町に出て買い物をするのもだいぶ慣れたが、やはりまだ要領が悪く、家に帰ってから買い忘れに気づくこともしばしあったからだ。
「うん、大丈夫ね。たぶん。さて、早く帰って夕飯の支度をしないと」
サラは嬉しそうにふふ、と笑った。
今日はハルの大好きなりんごパイに挑戦しようと思っていた。
ハル喜んでくれるかな。
うまく作れるといいけど。
きれいに焼き上がったりんごパイを見て、嬉しそうに食べてくれるハルのことを想像すると、胸がわくわくとした。
二人はアルガリタの町の一角に家を借りて住んでいる。
居間と寝室の二部屋しかない小さな家だけれど、二人で暮らすにはじゅうぶんな広さだとサラは満足している。
てっきり、アルガリタの国を出るものだとサラは思っていたが、結局どこへ逃げても意味がないというハルの一言でこの町にとどまることになった。
ハルと一緒ならどこへ行ってもかまわないとそのつもりでいたが、心のどこかで見知らぬ地へ行くのは不安もあったというのも事実であったため、正直ほっとしているところもあった。
でも……ハルと一緒に暮らせる日が本当にくるなんて。
何だか今の生活が幸せで、毎日が楽しくて充実していて。
まだ夢を見ているのではないかと、今でも信じられないような気がして……。
この幸せがずっと、ずっといつまでも続いてくれたなら。
ふと、サラは立ち止まった。
もし、この幸せが突然壊れてしまう日が来たら。
そんなことは絶対に考えたくないことだけれど……。
サラの表情が翳る。
ハルと一緒に暮らすようになって、すぐのことであった。
「最悪の時の話をしよう」
「最悪……?」
突然切り出してきた最悪の時というハルの言葉に、サラは不安を覚えた。
「もし、俺たちがレザンから追ってきた組織の人間に捕らわれた時の話だ」
捕らわれた時、とハルの言葉を繰り返してうつむくサラの頬にハルの指が添えられた。
「そんな怯えた顔をしないで。サラは俺が命に代えても守る。ただ、もしもの時の話だよ。あまりいい話ではないけれど、聞いてくれるね」
サラはこくりとうなずいた。
いい子だね、とハルはサラの頬を優しくなで、ひたいに口づけを落とす。
「万が一、俺たちが捕らえられたとしても、サラは暗殺の対象というわけではないから殺される可能性は少ない。そしておそらく、俺も」
「ほんとう?」
一瞬、喜びの声をあげたサラだが、ハルの次の言葉に再び表情を翳らせる。
「組織の暗殺者として育てた俺を、奴らがそう簡単に殺すとは思えない。俺はまだ使えるから」
レザンの、ハルがいた暗殺組織のことはいまだサラにはよくわからない。けれど、ハルはそこで有能な暗殺者として組織のために働いていたことは聞かされた。
「だが、俺を無理矢理従わせ、二度と組織を裏切らせないために、サラが痛めつけられる可能性もある。俺の目の前で」
サラの瞳が震えた。
「サラ、よく聞いて。暗殺組織と聞いてサラは野蛮な、ならず者の集団と思うかもしれないけど、必ずしも全員がそうというわけではない」
「それは……ハルを見れば何となくだけどわかる気がする」
「レザンの組織には〝天〟と呼ばれる八人の長が存在する。蒼天、黒天、玄天、幽天、昊天、朱天、炎天、白天と、彼ら八人が組織を仕切っている。絶対的な存在だ。誰も長には逆らえない。長の命令を拒否することもできない。うまく立ち回ってその長の誰かに目をかけてもらうことができれば……サラの身の安全は保証される。殺すには惜しい、手元に置いておきたいと思わせることができれば、酷い目にあわされることはない。もっとも、一人だけ例外がいるが……」
ハルの脳裏に浮かんだのは炎天の姿だ。
あの男はことあるごとに、レイと自分を目の敵にしてきた。おそらく捕らえられたら、炎天は嬉々として容赦なくサラをいたぶろうとするはず。
そういう男だ。
本当に最悪の時は、炎天を倒して自分がその地位を奪って長になる。長の地位をかけて、どちらかが死ぬまで戦う。仮にも長を名乗っている男。自分もただでは済まないだろう。だが、死に物狂いでやればおそらく勝てる。いや、勝たなければならない。
レイや白天は無理だ。自分では適わない。他の者は実力そのものが不明。
とにかく、長の地位につけばサラを手元に置いておくことができるし、誰もサラに危害を加えることはできない。何より、組織内でもいろいろと融通はきく。ある程度の自由も。いずれ、サラをアルガリタに帰すことも可能かもしれない。だが……そうなれば、組織を抜け出した意味はなくなる。しかし、サラのためならそれもやむを得ないこと。
「目をかけてもらう?」
「長の庇護下に入ればいい。誰も長の女に手を出すことはできない。昔から、それは組織内では暗黙の了解となっている。だけど、長に気に入られ庇護下に入るということは……」
そこでハルは口を閉ざしてしまった。
「ハルの組織には女の人もいるの?」
ハルはうなずいた。
「暗殺者としてではなくて、彼女たちは……」
それ以上、口にすることはできなかった。
その意味するところは……。
組織にいる女性たちがどういう役目なのかを、サラはおぼろげながら理解したようだ。
ハルの手がサラの髪をなでた。
「ごめんね。こんな話をして酷だったね。組織のことも少しずつサラに話していくよ」
サラはきゅっとハルの胸にしがみつく。
「必ず助けるから。だから、絶望だけはしないで、俺を待っていてくれると約束して欲しい。必ず」
「ハル……」
しがみついてくるサラをハルは抱きしめ返した。
「絶望なんてしない。私、信じてるから」
「……んだ?」
ふと、側にいた少年の呼び声によってサラは我に返る。
「え? 何?」
「何? じゃないよ。今日の夕飯はなんだって聞いたんだけど。どうしたんだよ。急に立ち止まってぼうっとしちゃって。大丈夫か?」
サラの横で大きな買い物袋を両手に抱えた少年が心配そうな目で問いかけてくる。ファルクが雇った、あのアイザカーンの暗殺者の少年であった。
「あ、うん。何でもないの。夕飯ね。夕飯は野菜スープにパンよ。キリクはお野菜好き?」
「俺は、好き嫌いはないから平気だよ。それよりも、パンはサラの手作り?」
「そうよ」
「今度は失敗しないように焼いてくれよ。この間のパンは見事に堅かったから……いや、最初の真っ黒なかたまりよりはだいぶましになったと思うけど。あれはちょっと食べられたもんじゃなかったよな。ハルは何も言わずに食べてたけど。それと、野菜もちゃんと煮込んでくれよな。何日か前に食べたの、あれ、ほとんど生だったぞ。ハルは無言で食べてたけど……」
「前に野菜スープをハルに出したとき、まずい無理っ、て言われちゃったことがあるの」
「だったら、学習しようよ……ハルも気の毒だな。それと、いつだったかのクッキーらしきもの? そういうの挑戦したくなるのわかるけど、あれ、味がまったくなかったぞ。やっぱり、ハルは顔色一つ変えず食べてたけど」
「うん、今日はがんばるね」
「頼むからな」
「それとね、今日はりんごパイも作ってみようと思うの、ハルの好物だから」
「それはまた……」
難易度高そうだな、とキリクと呼ばれた少年はぽつりと呟く。
「何ができあがるのか不安しかないよ」
「今度こそまかせて。お隣のマイヤーさんが作り方教えてくれるって言ったから」
キリクは苦笑いを浮かべた。
「どうしてそこで笑うのかしら」
サラはむうっと唇を尖らせる。
「サラは、ちょっとばかし物覚えが悪いからね。一生懸命がんばってるのはわかるんだけど。でもまあ、仕方がないか」
もともと貴族のお嬢様だったんだしね、とキリクは肩をすくめる。
「物覚えが悪いって失礼ね。そういうキリクこそ、ちゃんとアルガリタ語覚えたの? 覚えたらハルが学校に通わせてくれるって言ってたでしょう?」
キリクはどこか呆れたように口を開けサラを見上げる。
「覚えたも何も、今こうしてサラと普通に会話してるじゃないか」
あ、そっか……と、サラは納得する。確かに、アルガリタ語で何の不自由もなくキリクと喋っている。あまりにも自然に会話をしていたからすっかりと失念していた。
キリクを面倒みるようになって数ヶ月。
出会った当初はまったくキリクと言葉が通じなくて不安を覚えたものだが、今では問題なく会話ができるようになった。
それにしても、こうしてはたから見ると、二人は仲のよい姉弟に見える。よもや、暗殺者とその標的であったとは誰も思いもしないであろう。
「俺、読み書きもできるようになったんだぜ。ハルが来年になったら学校に行ってもいいって言ってくれたんだ」
「よかったじゃない」
「アルガリタ語だけじゃないぜ。レザン語もかなり覚えたんだ。ハルとレザンの言葉で会話することもできるんだ。といっても、まだ片言だけど」
サラはうっ、と声をつまらせた。
ハルと一緒に暮らすようになってから、本格的にレザンの言葉を教わるようになったのだが、一緒に聞いているキリクの方が上達していくばかりで自分はまだまださっぱりであった。
「子どもは覚えるのが早いから……」
「うーん」
キリクの顔は何やら渋い。
その顔は、だからサラの物覚えが悪いのではと言いたげだが、さすがに何度も口にすることははばかれたのか、そこで黙り込んでしまう。
「と、とにかく俺、学校なんて初めてだから今からすごく楽しみだよ!」
キリクはきらきらと瞳を輝かせている。
本当に楽しみにしているのだというのが伝わってくる。
「学校に行くようになったら、いろいろ揃えないとね。必要なものがあったら遠慮しないでちゃんと言ってね」
「いいのか?」
「あたりまえじゃない。キリクだってもう家族みたいなものなのだから」
家族というサラの言葉に、キリクは嬉しそうに笑みをこぼす。
こうして見ると本当にどこにでもいる少年だ。この少年が元暗殺者だと、誰が想像できるだろうか。もっとも、それをいうならハルもそうなのだが。
「ありがとう!」
「でも、わざわざ学校に行かなくても、ハルからお勉強を教わっていれば問題ないと思うのに」
「わかってないなあ」
「何が?」
「確かに、勉強はハルから教わる方がわかりやすくて一番なだけど、ハルは俺に学校で普通の、年相応の子供のように遊んで友達をつくれって言ってくれたんだ」
キリクは幼い頃に両親を亡くし、その後、アイザカーンの暗殺組織に連れていかれた。そこで、ただひたすら殺しの技術を叩き込まれ、当然、学校には行っていないし友達もいない。その境遇はハルと似ている。
「あのさ」
突然、神妙な顔をするキルクにサラはどうしたの? と、首を傾げる。
「俺、ハルとサラにはすごく感謝してんだ。特にサラはあの時俺のことを救ってくれた」
キリクの言う、あの時とはカーナの森でのことだ。
「サラがハルをとめてくれなかったら、俺は絶対に殺されていた」
「そんなの。ハルはそんなこと……」
しないと言い切れなかった。それはキリクもわかっていたのだろう、キリクはううん、と首を振る。
「間違いないよ。あの時ハルは本気で俺のことを……だけど俺のことを生かしたのはきっとサラを守らせるためだよ。ハルだって一日中サラの側にいるわけにもいかないし、だからこうして俺がサラの側にいれば少しは安心だろうと思って」
もっとも、俺はハルほど頼りにはならないけど……とキリクは口の中で呟く。
「俺、まだ子どもだけど、そこらの奴らには負けない自信はある。俺、サラのこと絶対に守るから」
「ありがとう。キリクが側にいてくれて心強わ。でもね、私のことはいいから、キリクはキリクのしたいことをすればいいと思うの」
せっかく自由になれたのだから、キリクにはこの先自分の好きな道を進んで欲しいとサラは思っていた。
「だけど俺、自分が何やりたいかなんてまだわからないし。サラは……俺がいたら邪魔? 俺のこときらい?」
「キリクのことは家族だって、さっき言ったでしょう」
キリクはにこりと笑った。
「俺、もっともっと強くなるから! あのさ! ハルに剣を教えてもらえるなんてすごいことなんだぜ。わかる?」
キリクが言うハルに剣を教わるということ、それは、この世で最強といわれているレザンの暗殺者から剣を教わるという意味だ。
「絶対に考えられないことなんだ」
というよりも、レザンの暗殺者と一緒に暮らしているということ事態考えられないことだが。
「ハル厳しくない? キリクいつも稽古で怪我してるもの。ハルも少しは手加減すればいいのに」
「確かに厳しいけど、俺、自分でもわかるんだ。前よりも強くなってきてるって。それに、手加減したら稽古にならないだろう! っていうか、ハルはじゅうぶん手加減してるよ。そうでなきゃ、怪我だけじゃすまないよ……」
サラはくすっと笑った。
ハルのことを語るキリクは本当に嬉しそうだ。
すっかり、ハルに懐いてくれてサラも嬉しいと思った。
不意に、キリクがあ、と言って立ち止まった。
「そういえば、そろそろハルの仕事が終わる時間だよな」
「そうね。早く帰ってお夕飯を作らないと」
「俺、ハルのこと迎えに行こうかな。なあ、行ってもいいよね。サラも一緒に行こうよ」
「ちょ……」
買い物袋を抱えたままくるりと背を向けて行こうとするキリクの腕を、サラはつかんで引き止める。
「ちょっと待って! だめよ」
「どうして?」
「どうしてって、だめに決まってるじゃない。ハルの仕事場に邪魔しにいった怒られるでしょう?」
「この間は怒られなかったよ。帰りながらハルといろんな話しをしたんだ。楽しかったな」
「この間って、いつの間に! ずるい!」
キリクはへへへ、と笑った。
「だって俺、少しでもハルの側にいたいし。話したいし。それに、給士姿のハルもかっこいいんだぜ。っていうか、何か色っぽい? にこりと笑って客に接するハルの姿と、カーナの森で戦ったハルの姿が全然結びつかないよ。まるで別人? だけど、ハルは何をやってもさまになるよな」
「そんなこと知ってるわよ!」
「俺、憧れるよ」
ハルは現在、街の食堂で給士の仕事をしている。
ハルがその店で働き始めた途端、ハル目当ての女性客が断然増えたとも。
「ねえ、そんなにハルといたいのなら、キリクも私たちと一緒に住めばいいのに」
サラの言葉に、キリクは突然顔を真っ赤にさせた。
キリクは別に家を借りてそこで一人で住んでいるのだ。
「な、何言ってんだよ……そんなにのいやに決まってるだろう!」
「どうして?」
「どうしてって……それはその……二人の邪魔はしたくないというか、何というか……二人の仲見せつけられたら俺の方が居づらいだろ……」
と、キリクはもじもじとしながら口ごもる。最後の方はもはや何と言ったのか聞き取るころができなかった。
「変な子ね」
その時、さっと強い風が吹き、サラの髪からするりと藍色のリボンがほどけ風に舞い上がっていく。
「あ! リボンが……」
飛んでしまったリボンを捕まえようと振り返った視線の先に、ひとりの男性の姿があった。その男性は、風に舞うサラのリボンを手につかんだ。




