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あなたの瞳におちて -愛した人は、元暗殺者-  作者: 島崎紗都子


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83 王女アリシア

「今回の件、役にたてずすまなかった」


 窓辺に背をあずけハルは視線を落として目の前に立つ人物に詫びた。眉宇をひそめるハルの表情に深く沈痛な色がにじむ。

 開け放たれた窓から流れ込む涼とした風。視線を空に転じれば、つい先ほどまで真っ青だった空に影が落ち、夕暮れ色に染まり始めようとしていた。

 ハルの端整な顔に夕陽の影が落ちる。そして、目の前の少女の真っ白なドレスも茜色に染まった。

 謝罪するハルに少女はいや、と首を振る。

 背に流れる長い黒髪がさらりと揺れた。


「ハルが与えてくれた好機を、みすみす取り逃がしてしまったのは私だ」


 力が及ばなかったのは私の方だ、と少女は申し訳なさそうに声を落とす。

 逆光の眩しさに目をすがめていたハルは、窓の外から目の前の少女、王女アリシアへと視線を移す。

 カーナの森で起こったトランティア家、馬車襲撃事件から、数ヶ月が過ぎようとしていた。結局、ファルクが持っていた毒の入った小瓶は、アリシア王女の手に渡ることはなかった。

 アイザカーンの暗殺者を倒し、ファルクの企みを封じたあの日の早朝、王女の命によって──あらかじめハルがアリシア王女にこのことを話し、ファルクを捕らえるよう伝えていたのだ──カーナの森を訪れた兵たちはトランティア家の馬車の側で座り込むファルクの姿を見つけ彼を王宮へと連れ帰った。が、王宮へたどり着くと、どこで情報を得たのか門前で待ちかまえていた女王の側近兵によってファルクを引き渡せ、これは女王の命令だと言われ、問答無用で連れていかれてしまった。

 つまり、毒の入った小瓶のみならず、その毒を渡した張本人を伝えるはずだったファルク自身も、アリシアの元に連れて帰ることはできなかった。

 女王の罪を糾弾することのできる唯一の証人と証拠を、みすみす相手に引き渡してしまうこととなった。

 だが、そのことを誰が責めることができようか。

 女王の命令と言われて逆らえる者など誰一人いない。

 さらに、アリシア王女以外の者には決して渡そうとしなかったファルクが握りしめていた小瓶は、これもまたイザーラの命令によって、ファルクの両手首ごと斬りとされてしまった。

 その後、ファルクは女王の監視のもとに置かれることになったが、つい先日、城に忍び込んだ何者かによって殺害された。あるいは、ファルクの口を封じるためにイザーラが殺したのか……。

 何にせよ、真相を知るすべはない。

 すべての真実は闇へと葬り去られてしまった。

 ハルはわずかに顔を歪めた。

 よもや、相手がここまでやるとは思わなかった。


 いや……。


 ハルは斜めに視線を落とす。


 本当に思わなかったというのか?

 せめてもの救いは、アリシア王女がそれについて自分を責めはしなかったこと。そして、このことを悲観的にとらえていなかったということであった。


「だが、これで母がこの国の法に触れているということが明らかとなった。それを知ることができただけでも私には大きい。だからハル、そんな思いつめた顔はするな。それに、私は彼女が救われただけでもよかったと思っている」


 アリシアが言う彼女とはサラのことだ。


「そして、母がレザンの暗殺者を雇い私を殺そうとしていることも……」


 そこで、アリシアは表情を翳らせた。その美しい面は儚げで、今にも消えてしまいそうな雰囲気だった。


「私は暗殺されるのだろうか。母によって……レザンの暗殺者に狙われることになったら、私は確実に殺されてしまうだろうな……」


 独り言のように呟くアリシアをしばし見つめ、ハルは口を開く。


「可能性は」


 アリシアは緩やかに面を上げ、不安そうな顔でハルの次の言葉を待つ。


「低い」


 低い? と繰り返すアリシアに、ハルは小さくうなずいた。


「レザンの暗殺組織は見境なく殺しの依頼を受けたりはしない。アリシアはこのアルガリタ国の唯一の世継ぎ。アリシアを殺せばどうなるか。国は大きく混乱し乱れることは間違いない。依頼があったとしても、組織は悪戯にこの国を乱すような真似はしない。だが、反対はどうだろうか」


 それはつまり、イザーラの暗殺依頼があれば動くこともあり得るということだ。

 しばしの沈黙が落ちる。


「アリシア」


 静かに呼びかけるハルの声に、アリシアは何だ? と眉を動かす。

 真剣な目で見つめるハルの藍色の瞳をアリシアは真っ向から受け止める。


「アリシアが望むのなら」


 静かな、けれどはっきりとした口調。ハルのその一言で、アリシアはハルが何を言わんとしているのか察したようだ。

 アリシアはわずかに顔をひそめた。

 その黒い瞳に憤りが揺れる。


「ハル」


「俺がアリシアのために動いてもいい。俺ならできる」


 ハルが動くと言ったのは、アリシアの母であり、このアルガリタの現女王であるイザーラを密かに暗殺しようという意味だ。

 厳重に置かれた警備たちの目をすり抜け、イザーラに近づき殺す。

 自分には容易いことだ。

 が……。


「ハル」


 厳しい声音と責めるような厳しい目で、アリシアは恐れることなくハルを見つめ返す。ゆっくりとした足どりでハルの元に近づいたアリシアは、ぺちりと相手の頬を叩いた。

 ハルは驚いたように目を開く。


「私がそれを望むと思うか? 二度とそんなことは口にするな。許さない」


 アリシアは張りつめていた緊張を解く。


「何もできない小娘が、何を偉そうな口を叩くのかとハルは笑うかもしれない。だが、私はハルにそんな真似はさせたくはない。そんなことをさせるために、ハルに力を貸して欲しいと言ったのではない。だから、どうか……わかって欲しい」


「ごめん。俺が悪かった」


 言ってみただけだと口にしかけたが、声にはならなかった。

 何故なら、本気であったから。

 もし、ここで彼女がうなずけば、迷うことなくこの足でイザーラを殺しに行った。

 厳しかった表情を解き、アリシアは微笑んだ。


「ハル、私はもうハルとは会えないと思っていた。だから、正直、ハルがこの国にとどまってくれてほっとしている。私はひとりでも頼れる仲間が欲しい。できることならハルを失いたくない」


「最初は……」


 ハルは窓の外、遠くの空へと視線をさまよわせた。


「最初はこのアルガリタを出て、サラとともにどこか別の地へ逃げようと思った。だけど、結局どこへ逃げても隠れても無駄だから。レザンの暗殺者はどこまでも執拗に追ってくる。だったら、この国に潜もうが他国へ逃れようが同じことだと思った。もう覚悟は決めた」


 覚悟は決めた。

 そう思いながらも何度迷っただろうか。

 だが、もう決して迷ったりはしない。

 今度こそ、本当に。


「それに……」


 ふと、ハルの口許に緩やかな笑みが浮かんだ。


「この国を離れてしまったら、サラが寂しがる」


 そうか、とアリシアも穏やかな微笑みを浮かべた。


「だが、サラはトランティア家の唯一の跡継ぎだ。ハルはそれをわかっているのか?」


 アリシアの問いかけにハルはああ、と声を落とす。


「俺に万が一のことがあった時は、サラを屋敷に帰すつもりだ」


 俺がこんなことを考えているとサラが知ったら怒りだしそうだね。


「その時に立派な家柄のご令嬢が何も知らない。何もできないではサラも困るだろうから、これからは俺の知っていることはすべてサラに教えていくつもりだ」


 アリシアはくすりと笑った。


「本当に彼女を大切に思っているのだな」


「俺にとってはかけがえのない女性だから」


「もうひとりの男の子はどうしている?」


 アリシアのいう男の子とはアイザカーンの暗殺者でひとり生き残った、いや、ハルが生かした少年のことだ。

 どこにでも好きなところに行けばいい、おまえは自由だと言い聞かせたが、少年は律儀にも命を助けてもらったサラに恩返しがしたい、サラを守りたいと言い出した。そのためにも、もっと強くなりたい。だから、自分に向かって弟子にしてくれと土下座までされてしまった。


「剣を教えることになった。俺のことを師匠だって」


「ハルが師匠か」


「それに、サラにもよく懐いているし、サラもお姉さんとしてしっかりしなければと思ってよく面倒をみているよ。多分、サラにとってもいい傾向だ。それに、こうして俺がサラの側にいないときもあの少年がサラの側にいてくれるのは正直、安心するところもある」


 子どもとはいえ、元暗殺者だ。

 戦いの腕はそのへんの大人よりも確かで強い。

 剣を教え込めば、さらに強くなる素質もある。


「ハルの回りは賑やかになるな」


 そうだね、と答えてハルは肩をすくめた。

 組織を抜けた数年間、孤独で過ごしてきた自分には考えられないことであった。

 果たしてこの先、どうなるのか想像もつかない。


「そろそろ帰るよ」


「ハル」


 背中を向け窓に向かって歩き出したハルを……どうやら、ここでもハルは窓から出入りをしているらしい、アリシアは呼び止める。

 ハルは肩越しに振り返った。その肩に夕陽の光が差す。


「最後にひとつ聞いていいだろうか」


 アリシアは眩しそうに目を細めてハルを見る。


「これは、ただの私個人の興味だ。答えたくなければいい」


「何だろうか? 俺に答えられることなら何でも」


 そして、視線をハルからほんの少しそらし、言いずらそうにするアリシアの頬が赤く見えるのは夕陽だけのせいではないはず。


「……ハルがサラを好きになった理由を、教えてははくれないだろうか」


 一瞬の沈黙。

 ハルは口許に笑みを刻む。


「あんなにしつこいくらい好きだと何度も言われたのは初めてだったから。だから……」


 アリシアはそれで? と小首を傾げる。


「堕とされてしまったよ」


 アリシアはくすぐったそうに笑った。

 その笑みは年相応の少女の笑みであった。

 アリシアはそっと両手を胸にあてた。


「羨ましいな。私もいつかそんな恋をしてみたいものだ。それに、ハルがそんなふうに笑うのを初めて見たぞ」

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