82 幸せを願う
一日の仕事を終え、テオは診療所内の後片づけをしていた。
しんと静まりかえった室内に、医療道具の無機質な音が響くだけの夕暮れ時。
テオは視線を上げ窓の外を見やる。
斜めに射し込む残照が床を茜色に染める。
ずいぶんと日が落ちるのも早くなった。
どこか物憂げな雰囲気は秋の訪れを思わせる空気。ふっと心の隙間に寂しさをまとわりつかせるような、そんな気配。
再び後片づけにとりかかろうとしたテオは窓の向こうから黒い影が落ちるのに気づいた。
その人影は右へ左へと落ち着かない様子で動いている。
急患か。
診療所が閉まっているのを見て、入るのをためらっているのだろうか。
窓辺に歩み寄り外をうかがったテオは意外だといわんばかりに眉を上げた。
ずいぶんと珍しい客が来たようだ。
窓の外ではシンが診療所の前を行ったり来たりとしていた。
テオは扉に手をかけ開けた。
「何か用か?」
相手は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに気まずそうに頭に手をあてる。
「いや……」
聞き取れるか取れないかの声で呟き、シンは肩を落す。何か言いたげに口を開きかけたがすぐに閉じ視線を斜めに落とした。
「別に用ってわけでもないから……」
じゃあ、と歯切れ悪い口調で言い、背を見せて歩き出そうとするシンに、テオは肩をすくめて笑う。
いつぞやのあの不遜な態度はどこへやら、今日はずいぶんとおとなしい。というか、しおらしい。
「入ったらどうだ」
テオは扉を大きく開け放ち中に入るようシンをうながした。迷う素振りを見せたものの断る理由も特になかったのか、いや、むしろ聞きたいことがあったのだろう、シンは素直に診療所へと足を踏み入れた。
テオは残った後片づけに取りかかる。
一方、シンは所在なげに立ちつくしていたが、手近にあった椅子を見つけそこに腰を降ろした。
長い足を持て余しげに座り、落ち着かなさそうに肩をすぼめ、きょろきょろと視線をさまよわせる。
特に会話を交わすわけでもなく、あるいは互いにどちらからか口を切るのを待っているのか、無言の時間が流れていく。
「あの、さ……」
先に口を開いたのはシンの方だった。
テオは片付けの手を止めず、シンの言葉の続きを待つ。
「あの娘……」
あの娘とは、問い返すまでもなくサラのことだ。しかし、ようやく口を開いたもののシンはそのまま口を閉ざしてしまった。
再び訪れる沈黙。
このままではいつまでたっても会話が進まない。いや、テオ自身サラのことを気にかけていた。もしかしたらこの男なら何か知っているかも知れないと思い、シンの言葉の続きを引き取る。
「ここへは来てないよ。もうずいぶん顔を見せていないし、屋敷にも帰っていないようだ。どこへ行ったかもわからない。おまえこそ、何か知らないか?」
テオの問いかけにシンはいや、と首を振り、望む答えを得られなかったことにそっか、と落胆の色を滲ませてつぶやいた。
「邪魔、したみたいだな」
立ち上がり、扉に向かっていくシンにテオはようやく視線を向けた。どこか寂しそうで切なさを孕んだ背中に残照の影が落ちる。
きっとこの男もサラのことを。
「もう少ししたら夕飯だ。せっかく来たんだ、おまえも一緒にどうだ?」
「俺? い、いいよ……」
思いも寄らぬ誘いにシンはひどく驚いた様子で言葉をつまらせる。
テオは肩をすくめた。
「たまには、先生のお酒につき合ってくれないか? 僕は、飲めないから……」
シンは照れたように笑い頭をかいた。
「酒、つき合うくらいなら」
「先生も喜ぶ」
シンはうつむき、窓の外に視線を転じた。
徐々に訪れようとする夜の気配をそこはかとなく忍ばせ始める空に、星が一つ二つと瞬き始める。
「サラ……」
サラもどこかでこの天の星を見上げているのだろうか。
サラ……あんたが幸せになってくれることを、俺は祈っているよ。




