79 戦い -6-
口の中で、すっかりと溶けてしまった薬を飲み込む。
もちろん、自分の身体に薬は効かない。
飲み込んだ瞬間、それまで身にまとっていたハルの殺伐とした気配も消失した。
胸にすがりつくサラを見下ろす藍色の瞳はどこか悲しそうで、切なげで、嫌いと言われたことが自分でも思っていた以上に堪えたのだと気づいた途端、後悔という思いが胸に押し寄せた。
サラ、と呼びかけて頬に手を添え顔を上向かせる。
今にもこぼれ落ちそうな涙を指の先ですくいとる。
「あんた、自分の恋人なのに容赦ないんだな」
ぽつりと呟く少年の声。そして、少年の目がサラに向けられた。
「ねえ、お姉さん。どうして俺なんかをかばってくれたの? お姉さんにとって俺は敵なのに」
サラは何を言っているのかわからない、と首を振る。
ハルはやれやれといった態で肩をすくめた。
「そいつは、どうして自分のことをかばうのかと言っているよ」
「そんなのあたりまえだわ! だって、あなただって本当はこんなことしたくてしたわけではないのでしょう? 組織の命令で動いただけなのでしょう?」
今度は少年の方が首を傾げ、そろりと遠慮がちにハルを見る。
俺にもサラの言葉を訳してくれないかと目で訴えかけているのだ。
ハルは苦笑しつつも、サラが言ったことを繰り返し少年に聞かせた。
「それは、そうだけど……でも、そんなの理由にならないよ。だから、もういいよ。いいんだ」
「ねえハル、私に考えがあるの。この子からいろいろ聞き出して、ファルクが暗殺者を雇ってハルを殺そうとしたという罪を明らかにするの」
少年を助けようとするがため、思いついたことをそのまま口にしたのだろう。
ハルは緩く首を振ってサラの頭をなでる。
その暗殺者どもを自分が皆殺しにしてしまったということを、どうやらサラは忘れているようだ。罪に問われるのは自分も同じ。それに、ファルクが暗殺者を雇った本当の目的は、自分を殺すためではない。
「い、嫌だよ!」
慌てて少年は首を振る。
「いや?」
「聞き出すって、俺を拷問するのか? 殴ったり蹴ったり、鞭で叩いたり、爪の間に尖ったもの刺したり、剥がしたり……その人、絶対、そういうことするの得意そうだし。っていうか、俺、命じられるまま、ここに来ただけだから、詳しいことなんか何にも聞かされてないし、知らないよ!」
だから、拷問されても答えようがないと。
「何言ってるの! 拷問だなんて、そんな恐ろしいことするわけがないでしょう」
「お姉さん、ほんとにもういいんだ。俺に優しくしてくれてありがとう」
サラの背中で少年はあきらめたような、投げやりな声をもらす。
「よくないわ! どうしてあきらめるの?」
「あきらめるしかないよ。もう……」
「あきらめたらだめ! 私がハルを引き止めるから」
そう言ってサラはハルが動けないようにと、ぎゅっとしがみつく。
「だから、あなたは逃げなさい。今のうちだわ。早く!」
「無理だよ。それができるのならとっくにそうしてるよ。お姉さんは俺たちのいる世界のことを何も知らないからそんな簡単なことが言えるんだ」
「確かに、あなたやハルのいた世界のことは私にはわからない。でも……」
少年は何やら考え込むように唇をひき結ぶ。
そして。
「そうだよな」
「そうよ。わかったのなら早く行って!」
「ここで、女に庇われて逃げ出すのは男じゃないよな」
「そうよ! ……え?」
二人の会話は、すべてハルが互いの国の言葉に置き換えてなされている。
「そもそも、あんたが悪いんだ! あんたが俺をひと思いに殺さないから」
「殺されたかったのか?」
少年はうっと声をつまらせ、そういうわけじゃないけど、と口ごもる。
「それよりも、今のその口ぶりだと、まるで俺を生かしてくれるような言い方だよな。あんた、ほんとに性格悪いよ。そうやって期待をもたせておきながら、結局、最後の最後にどん底に突き落として楽しむってやつだろ! 嫌なやつ!」
「どうしたの? この子顔を真っ赤にして何を言ってるの? ハルもどうして笑っているの? ねえ」
先ほどまでの張りつめたような緊迫感はどこへいったのか、何やら少年とハルとの間におかしな空気が流れ始めた。
「だから、こんな風に話がこじれて、お姉さんまで泣かせてしまうことになったんだ。女を泣かせるなんて最低だよ! 俺なら好きな女、絶対に泣かせたりしない!」
やがて、何かを決心したように少年は勢いよく立ち上がる。きつく手を握りしめ、気丈にもこちらを睨み返す。
「俺ともう一度戦え!」
何を決意して言い出すのかと思えば、ずいぶんと突拍子もないことを口にし出した。
「おまえと戦う?」
「笑うな! 俺なんか相手にならないって言いたいんだろ? わかってるよ!」
「そんなことは一言も言っていないよ」
「言ってなくても、そう顔に書いてあるんだよ! 嫌みなやつだな」
「おまえが勝手にそう思い込んでいるだけではないのか?」
「な、何なんだよ……いちいち、ああ言えばこう言う!」
少年はだんと足を踏みならした。
「とにかく俺と戦え! あんたを殺すつもりで戦えば俺は敵だ。お姉さんが俺をかばう理由はなくなる。だから、その代わりお姉さんに意地悪するな。恋人なんだろ? 優しくしてやれ」
強い眼差しでこちらを見上げる少年に、ハルはふっと笑う。
よもや、敵であるこの少年にそんなことを言われてしまうとは。
「くそ! また笑ったな。鼻で笑ったな!」
ふと、少年の姿が過去の自分と重なった。
俺もこんなふうに、よくレイに生意気を言って食ってかかったことがあったな。
と、そんなことを思い出す。
そして、ハルは地に突き立てた剣を抜き、静かに鞘におさめた。
俺も何を甘いことを考えているのか。
敵に情けをかけるなど、以前だったら考えられない。
いや、あり得ないことだった。
え? と驚いたように揃って目を見開くサラと少年。
「ハル!」
「もしかして……見逃してくれるのか?」
「彼女に感謝するといい」
「うそだろ……」
先ほどまでの威勢のよさはどこへいったのか、少年はくしゃりと顔を歪め、崩れるようにその場に膝をつく。じわりとその目に涙を浮かべて。
「だが、おまえを組織には帰さない。それが条件だ」
「帰れないよ。帰れるわけがない。さっきも言っただろ? 帰ったところで、殺されるだけだって」
「いいのか? 組織から追われることになる」
追われ続けるつらさは身にしみている。それを、まだ小さいこの少年が背負い続けなければならないのだ。故郷に帰ることもできず、ろくに言葉の通じない異国の地でひたすら追われることに怯え、逃げ続けなければならない。人目を避け、誰とも深くかかわることもできず、孤独を抱き……。
少年が自分で思っている以上に厳しいものとなるだろう。
はたしてまだ幼いこの少年に耐えられることができるのか。
「そうかもしれないし。もしかしたら、俺なんかがいなくなったところで、組織は何とも思わないかもしれない。もともと、俺みたいに、たいして役にもたたない子どもなんて、いてもいなくてもどうでもいい存在だったから……今回のことだって、単なる数合わせにしか過ぎないよ。あそこで腰抜かして目を丸くしているおじさんが聞いたら怒り出しそうだけどね」
おじさんと言って、少年は馬車の側で座り込んでいるファルクをちらりと見やる。
「それと、もうひとつ」
むしろ、今から告げることの方が、少年にとって過酷なものとなるであろう。
「おまえが追われるのは自分がいた組織だけとは限らない」
一瞬、意味がわからないと少年は首を傾げたが、すぐにハルの言ったことを理解したようだ。
「それって……」
「そうだ。俺は組織を抜けた身だと言った。追われている立場だ」
「つまり、ハルとかかわった俺も……レザンの組織に?」
ハルは静かにうなずく。
「それでもいいのか?」
少年はごくりと唾を飲み込んだ。
ここで生き残るということは、その覚悟を受け入れるということ。
「レザンの組織はおまえを捕らえ、今夜のことをそして、俺のことを聞き出そうとするだろう」
それこそ、拷問にかけて。
「も、もし、捕らえられてハルのことを問いつめられたとしても、俺、絶対に喋ったりしない」
「そう甘くはない」
「絶対だ。約束する! 男同士の約束だ」
ふと、少年は思い出したようにサラをかえりみる。
「じゃあ、お姉さんは? お姉さんだって……ハルとおもいっきりかかわってるじゃ……」
少年はそこで口を噤んでしまった。
顔を青くする少年に対し、サラは何の話をしているの? と二人を交互に見つめている。
「そこにいろ。まだ俺はやることがある。逃げるなよ」
「逃げないよ。実は……ほんとうは腰が抜けて立ち上がれないんだ」
「それと、サラに何かしたら」
「そんなこと! 何もしないよ。するわけがないじゃないか!」
少年はふるふると首を振った。
「サラはおまえを生かす唯一の存在だ。サラに万が一のことがあれば、どうなるかわかっているな」
少年はわかっているよと、何度もうなずく。
「何かあれば、爪を剥がす程度で済むと思うな」
「お、俺、ちゃんとハルのいうこときくから。逃げたりしないし。だから……もうそんな怖い顔して脅さないでよ……」
うう……と、声をもらして少年は泣き出し、こぼれる涙を乱暴に袖口で拭う。
「ハルと何を話していたのかわからないけど、よかったね。もう、大丈夫だからね」
「うう……」
サラは少年の頭に手を置き、優しくなでた。
「泣かないで」
「お姉さん……」
少年はとうとうこらえきれず、うわあと泣き声を上げサラの胸に飛び込んだ。胸に顔をうずめて泣きじゃくる少年の背に手を回し、サラはぎゅっと抱きしめる。
「こわかったよ……死にたくなんかないよ」
「もう大丈夫よ。大丈夫だから」
「本当に殺されると思ったんだ」
「うん」
「死ぬのは覚悟してるなんてかっこつけて言ったけど、やっぱりこわくて。今だってまだ震えがとまらなくて。ハル、まじで怖いよ」
「もう、泣かないの。ね? 男の子でしょう?」
「お姉さんがいなかったら、俺、絶対に殺されていた」
ぐすぐすと鼻をすする少年の頭を、もう一度宥めるようにサラはなでる。
「ほら、顔を上げて。涙、拭いてあげるね」
「お姉さん……」
甘えた声でサラに抱きつく姿は、やはりまだまだ子どもだ。
それにしても、何ともおかしな光景だと、思わず苦笑してしまう。
互いに話す言葉は違うのに、理解すらもしていないのに、それでも不思議なことに気持ちが通じ合えているようにも見えた。
ファルクの命令で、形だけとはいえサラを襲うはずであった暗殺者が、反対にサラに頭をなでられ慰められているのだ。
もはや、この少年がサラに危害を加えることはないだろう。
ハルは二人に背を向けると、馬車の側で呆然と座り込んでいるファルクをかえりみる。
「ハル?」
どうしたの? 何をするつもりなの? と、訝しむサラに。
「もう少しだけ、待っていて」
と言って、ハルはファルクの元へと歩み寄る。
これで、お終いだな。
ファルク。




