74 戦い -1-
吹く風にハルの髪が揺れ、黒一色の衣服の裾がなびく。
誰が見ても、ハルに勝ち目がある戦いとは言いがたい状況であることはあきらか。しかし、ハルの瞳に何の感情も見つけることはできなかった。
恐れも。
怒りも。
憎悪も。
回避することのできないこの状況に嘆くことも。
その身に殺気すらも感じられず、藍の瞳はあくまで静かで、それがかえって得たいのしれない怖ろしさを増した。
夜は長く闇は濃い。
待ち望む夜明けは遠い。
さわさわと音をたてる枝葉が夜の静寂を震わせる。落ちた枯れ葉が乾いた音をたて地面の上を流れていく。
おおいかぶさる枝葉の天涯、そのさらなる涯て、天の水面に月が嗤う。蒼白く冷めた光を放ち、まるで傍観者の如く地上を見下ろして。
いまだ暗殺者たちは動かない。おそらく、こちらの出方をうかがっているのだろう。
離れた場所では、場の空気を読めないファルクがハルを罵り、さらに、声を荒げて早く殺せ、やってしまえと、暗殺者たちをけしかけている。
ファルク以外、誰も一言も言葉を発しない静寂と緊迫に包まれた空気の中で、彼だけが異質の存在に思えた。
そのファルクに雇われた暗殺者たちですら、雇い主をかえりみようとはしない。
ハルは剣に手を伸ばし柄を握ると、ゆっくりとした動作で抜き放つ。この後の戦いを微塵にも感じさせない、ため息がでるほどに優美な仕草であった。
二十人の暗殺者たちに囲まれていても、やはり、動揺の欠片すらない。
鞘から解放された細身の刀は一点の曇りもない艶やな銀色。
刃が月華をはじいて、刀身の根元から切っ先に向かって嘗めるように青白い煌めきを放つ。
背後でサラが小さく息を飲んだのが聞こえた。
ちらりと後方を見やる。
言われた通り、サラが木の茂みに身をひそませたのを確認する。一方、誰にも相手にされないとようやく察したファルクも、己の身の安全を確保するため、馬車の陰に隠れ、顔だけをのぞかせ状況をうかがっている。
堕ちていけ。
深い深い闇の底へ。
心の中で呟くその言葉は、目の前にいる暗殺者たちに向けたものではない。
自分自身にだ。
剣を握る右の手首にひらりと揺れる藍色のリボンが視界の端をかすめる。
愛する人を守るため、今再び心を刃と化しこの手を血に染めよう。
己の未来に欠片ほどの救いはなくとも、愛する者が光に向かって進んでくれるのなら、それでいい。
それだけで剣を振るう理由はじゅうぶんだ。
自己犠牲。
そんなたいそうなものではない。
ただ、サラが好きだから。
どうしようもないくらい愛しくて、この手で守りたいと、そう思っただけ。
そして……。
もうひとり別れを告げなければならない人がいる。
サラにも話すことができなかった人物。
握った剣の柄を飾る真紅に金糸の模様がほどこされた飾り紐。
真紅に金糸、それはこの国では特別な意味を持ち、許された者のみ身につけることができる色。
暗殺組織を抜け、故郷であるレザン・パリューの地から逃れこの国にたどり着いて間もない頃、偶然、町で彼女と出会った。町娘に身を扮していたが、一目で彼女が何者かを知ることができた。
長い黒髪に凛とした光を放つ漆黒の瞳。
彼女との出会いを話せば長くなる。が、サラと同様また運命の出会いだったのかもしれない。
彼女には自分の素性を話した。話してしまったのは成り行きだ。それでも、恐れる素振りを見せず、真摯な目で毅然とした姿で自分を見つめ返し、俺の力が欲しいと言ってくれた。
どうか力を貸して欲しい、と。
すまない。
心の中で彼女に詫びる。
この戦いが終わった後、自分はアルガリタの国を離れることになるだろう。その身に何かあった時には必ず駆けつけると約束した。けれど、その約束はどうやら果たせそうにもない。
ハルは懐に視線を落とす。
だが、必ずその手にあの男から奪った毒の小瓶を、言い逃れのできない証拠とともに届けることを約束しよう。そして、偽りの女王自らこの国の法を犯しているという罪をその手で暴いて糾弾しろ。
いや……。
こんな些細なことで、イザーラを追いつめるには不十分な証拠かもしれない。それでも、世間に何かしらの波紋を投げかけることは可能なはず。
あなたなら、できるだろう?
アリシア。
未来のアルガリタの女王。
あなたが進む先にも、光さす明るい未来があることを俺は信じている。
そのためにも──
雲が流れ月が隠れた。
落ちた闇の中、ハルは口許に静かな笑みを刻み。
地を蹴った。
「はひっ!」
おかしな声を上げたのはファルクであった。
ハルが向かったその先に三人の暗殺者の姿。
彼らは動かない。いや、真っ先に自分たちが標的にされたのだと気づいた時にはもう……。
闇夜に銀の軌跡を描いて三度閃くハルの剣。その剣筋に迷いはなく、慈悲もない。直後、三人の暗殺者が声を発することもなく、どさりと地面に崩れ落ちる。
まともにハルが繰り出した剣を目で追うことができた者はいるだろうか。
おそらく否。そこで、ようやくハルの出方をうかがっていた残りの暗殺者たちもいっせいに動き出した。
一人目の暗殺者が声もなく攻め込む。その攻撃を軽くいなして、最初の一撃を相手の心臓目がけて貫く。低い呻き声を上げる敵を後方へと足で蹴り倒し、刺さった剣を抜き、抜いた刃で後方から迫る敵を息もつかぬ速さで薙いでいく。
剣の軌跡をたどって鮮血が舞う。
まるで無残に散らされた真紅の薔薇の花びらが虚空を彩るように。
濡れて赤く、鮮やかに。
さらに、踏み込んできた二人のを刃を打ち交わすこともなく地に伏した。
剣を横に一閃させた状態で地に片膝をつき、ハルはひとつ浅い呼吸を落とす。剣を握る右手首に、藍色のリボンが風にひらりと揺れる。
まずは。
七人──
誰ひとりとして逃しはしない。
闇に包まれたカーナの森に、疾くと黒い疾風が翔ける。
それは死を呼ぶ黒い疾風。
「ああ……」
思わず声をもらし、サラは両手で口許を押さえ込む。
ハルが戦う姿を初めて目の当たりにした。
目眩にも似た感覚に足元をよろめかせ、側の木の枝を咄嗟につかむ。が、つかんだ枝はもろくも根元からぽきりと折れ、サラはその場に両手両膝をついて座り込んでしまった。
叫び声をあげることもなく一人、二人と次々に倒れていく敵の姿。
いとも簡単に、あっけなく。
現れた奴らなど相手にもならないという戦いぶりであった。この程度のことなど、たいしたことではないと口にしたハルの言葉に偽りはなかった。それでも、いったい敵が何人いるのかわからない。途切れることなくハルに襲いかかってくる。
手が震えた。
足に力が入らず立ち上がることさえできない。
奇妙な気配を感じて戦慄く。
剣を交える音がほとんど聞こえない。
敵の上げる叫び声も。
苦しみに悶える姿も。
ハルは一撃で相手に反撃の隙も与えず倒していく。
強い。
これがハルの強さなの。
私……ハルがあいつらに殺されてしまうかもしれないなんて。
先ほどまで抱いていたそんな不安は杞憂以外のなにものでもなかった。ハルが負けることはない。だが、素直に喜べる状況ではなかった。
夜会の時、シンとファルクが剣を交えたものとはまったく違う。力業でファルクを押し、遠くから流れ聞こえる円舞曲にあわせ、まるで踊るように剣を振るシンの戦いに、剣技の美しさに目を奪われ胸が高鳴った。しかしそれは、あの時シンはファルクの命までとろうとはしていなかったから。そのことをわかっていたから。けれど、目の前で繰り広げられているのは正真正銘の殺し合い。どちらかが生きるか死ぬかの命をかけた戦い。もっとも、圧倒的な強さで一方的にハルが敵を倒している状況ではあったが。
その時、馬車の側、背を向けているハルに狙いを定め、一人の敵が弓に矢をつがえたのが目に入った。
「ハル! 後ろ!」
声を振り絞り、身を乗り出してサラは叫んだ。
たまらず地についた両手で土を掻く。
この森で賊に襲われた子どもを助けるため戦ったハルは、その賊が放った矢に肩を貫かれ深手を負ったのだ。
いや……。
ハル、気づいて。
お願い!
「ハル!」




