71 怖いのは、あなたと離れてしまうこと
ベゼレート医師の診療所から、無理矢理屋敷へと連れ戻され、ハルとも離ればなれになってしまって以来、ずっと沈みこんでいたサラの顔にようやく笑みが広がった。
きっと来てくれると信じていながらも、もしかしたら、もう会えないかもしれないと、どこか心の隅で不安さえ抱いていた。
けれど。
ハルが来てくれた。
迎えに来てくれた!
でも、どうしてこのカーナの森を通って出かけることをハルは知っていたのか……それも、まるで待ち伏せをしていたかのように。と、サラは不思議に思って首を傾げたが、しかし、こうしてハルが来てくれたのだと思えばそんな疑問もすぐに消えてしまった。
やっと、ハルに会える。
嬉しさで身体が震えた。が、しかし、ファルクの次の言葉にサラは凍りつく。
「かまわない」
「……はい?」
かまわない、とはいったいどういう意味なのか、と御者台の男は首を傾け聞き返す。
「ひき殺せ」
「ひ、ひき……っ! ファルク様、ご冗談を!」
とんでもないことを言い出すファルクに、男は素っ頓狂な声を上げた。
「私は冗談など言わないよ。相手はとるにたらない虫けら同様の人間だ。ごみくずだ! ひき殺したところで、まったく問題はない」
ファルクは問題ないと言うが、男にとっては大問題である。
「そ、そんなこと……!」
「この私がかまわないと言っているのだ。このまま馬車を走らせろ。これは命令だ! 逆らうことは許さない」
「しかし……!」
「いいかね? 私の命令に従えないのならどうなるか、わかっているね。おまえ程度の代わりなどいくらでも……」
「止めて!」
そこへ、ファルクの言葉を遮るように、大きく前に身を乗り出しサラは御者台に向かって叫ぶ。
「この! おまえは後ろでおとなしく座っていろ。口出しするな!」
「そうはいかないわ!」
ファルクはサラの頭を鷲掴みにして無理矢理後方へと押しやる。が、サラも負けじとファルクの肩に手をあて押し返す。
今日結婚式をあげ、はれて夫婦となった二人が背後で激しく揉み合い、言い合う姿に男はさらにおろおろとする。
ハルをひき殺すなんて、そんなことはさせない。
絶対に!
「止めて!」
「止めるな!」
「馬車を止めて!」
「そのまま走らせろ!」
「止めなさい!」
「ひき殺せ!」
交互に叫ぶサラとファルクの声に、御者台の男はどちらに従うべきかとためらう。そうこうするうちに、馬車は目の前を立ちふさぐ人物に迫ろうとしていた。
「ばかな、何故そこをどかない! 死ぬつもりか……どいてくれ! 頼むから……頼むから道をあけてくれ!」
「彼は……」
サラはドレスの裾をきつく握りしめた。
「何があっても彼は絶対にその場から動いたりしない! 寸前になってどうせ退くに決まっているなんて思っていたら、あなたは後悔する。馬車を止めなければ本当にひいてしまう! だから、早く馬車を止めて!」
サラの言う彼が、目の前に立つ人物だと男はすぐに悟ったらしい。そして、サラの言葉が男を決断に導いた。いや、まともな精神を持つ者ならおのずと、とる行動は決まっている。たとえ、ファルクの命令とはいえ、人をひき殺すなどできるわけがなかった。
「サラ様!」
もはや、御者台の男に迷いはなかった。馬車をとめようと手綱をしぼる。
「頼む……間に合ってくれ!」
御者台の男の叫びとともに、馬車は道の中央に立つその人物の手前で急停止した。
驚いた馬たちのいななきが天空へと駆け上がり、木の枝葉に身をひそめていた鳥たちが、馬の鳴き声に驚いていっせいに飛びたっていく。
そして、再び訪れた夜の静寂。
御者台の男は大きく息を吐き出しがくりと肩を下ろす。そして、はっとなって顔を上げた。
ひらひらと舞い落ちる枝葉の中、剣を片手に前方に立ち尽くす、すらりとした細身の、ひとりの少年の姿を確かめ男はほっと息をもらし、ひたいに浮かんだ汗を拭った。
少年はその場から一歩も動くことなく馬車を見据えていた。その顔に、怯えも焦りも見あたらない。あまつさえ、唇に薄い笑いさえ浮かべているように見えるのは気のせいか。 必ずこちらが馬車を止めると確信してのことであろう。
豪胆な性格だ。
命知らずにもほどがある。
何てやつだ、と男は喘ぐように呟きをもらす。
走る馬車の前に立ちふさがるなど普通では考えられない。一歩間違えればひかれていたかもしれないのだ。
もし、ファルクを恐れて命令に従っていたらと思うと……。
今頃はとんでもないことになっていた。
男は顔を青ざめさせ、ぶるっと恐ろしさに身を震わせた。
サラは馬車から降りようと扉に手をかける。けれど、そうはさせないとファルクに肩をつかまれ引き戻された。
「おまえは私のものだ!」
「私はあの人のものよ」
「おまえはこの私の妻となったのだ!」
「いいえ! こんな形ばかりの結婚など何の意味もなさない」
サラは冷めた眼差しでファルクを見下ろす。
「彼のところへ、行くわ」
「行かせるものか!」
「私に触れないで!」
「誰にも渡さない!」
「いやよ、離して!」
サラの行動は素早かった。
行儀悪く片足を持ち上げ、ぶらぶらとつま先に引っかけていた靴を手に取ると、それでファルクの顔面目がけて腕を振り上げ、振り下ろした。
躊躇うことはなかった。
靴のかかとが見事にファルクの眉間に命中する。
「うがっ!」
悲鳴を上げ、ファルクは両手で顔を押さえ込む。その隙を狙い、サラは馬車の扉を大きく開け放った。鬱々とした車内の空気を払うかのように、新鮮な風がさっと流れ込んできた。
扉の縁に両手をかけ身を乗り出すと、サラは勢いよく馬車から飛び降りた。
風を孕んで白いドレスの裾がふわりと大きく膨らむ。
「待て!」
飛び出して行こうとするサラを引き止めようと、伸ばしたファルクの手から、サラのドレスの裾がするりとすり抜けていく。ファルクが手につかんだのは、何もない虚空であった。
「くそっ! このがき!」
口汚く罵るファルクの声を背中に流し、地面に裸足で降り立ったサラは勢いよく駈けだした。
迷うことなくハルの元へとまっすぐに。
離れた場所に、照らす月華を身にまとい立っているその姿はずっと待ち焦がれていた人。
気持ちが急いて足がうまく前に踏み出せない。それは足元にまとわりつくドレスのせいだと気づき裾を膝までたくしあげる。
髪を飾っていた花が風にさらわれ後方へと流れ散っていく。
もちろん、覚えている。
ここは、ハルと私が初めて出会った場所。
あの時と同じ。
そう、あの時もこうしてドレスの裾を持ち上げ、ハルの元へ駆けつけるために走った。
月明かりだけの暗い道。
けれど、夜の闇など怖くない。
怖いのは、ハルと離ればなれになってしまうこと。
ハルに会えなくなってしまうこと。
会いたかった。
ハルに触れたかった。
強く抱きしめたい。
抱きしめて欲しい。
たった数日会えなかっただけなのに、胸が苦しくて痛くて、どうしようもないくらい、せつなくて泣きそうになった。
こんな寂しい思いはもうしたくない。
見上げた夜空に星が瞬く。
きらきら、きらきらと。
深い藍色の空を駆け抜けていくは走り星。
ひとつ、そしてまたひとつ、夜空に軌跡を描いて流れていく。
色を取り戻したサラの顔にとびっきりの笑顔が浮かぶ。
花のように可憐に。
星のように輝いて。
闇を照らす光のように。
ハルの元まであと少し。
再びあなたに会うことが叶った。
もう絶対に離れたりしない。
大好き。
「ハル!」
サラは両手を大きく広げ、息を弾ませ愛する人の名前を呼んでその胸に飛び込んだ。




