70 月影の森
深更、満ちる時。
今宵は月も冴え冴えと。
天上を彩る数多の星々が、静寂の夜にささやきを繰り返す。
物音一つ聞こえない夜の森は、ただ不気味なまでに深閑とした気配が辺りを包み込むだけ。
森に潜む夜行性の獣たちですら、この場に現れた突然の来訪者に恐れをなし怯えているのか、息を殺し自らの気配を絶っているようであった。
地上に覆い被さる枝葉からのぞく月が夜空にかかり、皓々と蒼い光を落とす。その光も今宵はことさら身を切り裂く氷の刃のよう。
この森に踏み込んでからおよそ一刻が経とうとしている。
その間、通り過ぎて行く者は誰ひとりとしていない。シンと裏街の男たちが、うまくやってくれているのだろう。
ついと顔を上げ、ハルは天空を仰ぎ見る。
不思議と心は静かであった。
まぶたをわずかに伏せ、全ての感覚に神経を集中させる。
緩やかに流れる風の音。
その風によって揺れる木立の葉音。
そして、それらの音に混じり、遠くから微かに聞こえてくる物音を聞き、ハルはゆっくりと視線を上げた。
夜の静寂を震わせる馬蹄の音が遠くから。
徐々に近づいてくる馬車の行く手を阻むように、ハルは握りしめた剣を手に、月影の落ちる場所、道の真ん中に立った。
さあ──
前方に目を凝らし、やがて姿を現し始めた馬車の影をハルは見据えた。
来い。
◇
馬車の中、サラは窓枠に肘を乗せ、頬杖をついて、流れて行く窓の外の景色を眺めていた。
馬車に乗りこんでからずっとこんな調子であった。
足元には窮屈な靴を脱ぎ、ぶらぶらとつま先に引っかけて遊ばせている。
たっぷりと裾の膨らんだドレスのため、行儀悪く靴を脱いでいるのは隣に座っているファルクに見咎められることはなかった。
狭い馬車の中、同じ空気を吸っていると思うだけで気分が滅入りそうで、少しでもファルクから距離をとろうと、思いついては何度も座り直し、馬車の扉にぴたりとつくほど肩を寄せた。
真っ白な婚礼衣装に身を包んだサラの表情に陰鬱な翳が過ぎる。思わず重たいため息が薄紅色の唇からもれた。
結婚式は白々しい雰囲気の中、淡々といったふうに終わった。
みな、口を揃えてファルク様のような素敵な方が夫とは何て羨ましいとは言うものの、花嫁であるサラが始終不機嫌そうにしていたのだからそんな彼女の様子を見て、この結婚が花嫁にとって望むところではないことは誰の目にも明らかであった。それ以上に、頬を腫らしているサラの顔を見た者たちは、いったい何があったのかと訝しみつつも、あえて、その話題に触れることを避け、見て見ぬ振りをよそおいながら、形式的な祝いの言葉をかけ、そそくさとサラの元から逃げるように去って行った。
手放しで綺麗だ、愛していると心にもない言葉を口にするファルクに、サラはひとことも声を発することなく、にこりともせず、それどころか夫となるファルクとはいっさい目も合わせようとはしなかった。
そして、結婚式を終えた後、そのままアルガリタの南方にある別荘地で二人で過ごすことになるのだと知り、サラはさすがに顔を青ざめさせた。
この仮の結婚式もそうであったが、別荘地で、それもファルクと二人っきりで過ごすなど何も聞かされていない。
それに、何故こんな夜も更けようとした時分に馬車に乗って出かけるのか。それどころか、カーナの森は数ヶ月前に賊が現れたと警戒していることはファルクとて当然知っているはずなのに、何故、護衛のひとりもつけずに向かうのか。
嫌な予感が胸を不安にさせた。
それ以上に、屋敷を離れてしまったら、ハルとは会えなくなってしまう。自分の居場所がハルにわからなくなってしまうとサラは恐れた。
ハル……。
虚ろな目に映るのは暗い夜の森。
ぽっかりと口を広げているそこには深遠の闇。
ふと、絶望をともなって闇に飲み込まれていきそうになる感覚に囚われかけ、サラはふるっと頭を振る。それでも、隣に座っている男の顔を見るよりはましだと、サラは頑なにファルクから顔を背けたまま。
視界の端にすらその姿が目に映るのが許せないとばかりに、窓の外の闇に視線を向けていた。
それにしても、隣に座るファルクの顔は見るにも耐えない悲惨なものであった。
頬を青紫色に腫らし、腫れたせいで片目が歪んでいる。
口を開くたび抜けた歯が嫌でも目について、いつものように、お得意の爽やかな笑顔を作ろうとはするものの、歯の抜けたみっともない顔では女性を虜にしてきた笑顔も台無しであった。むしろ、不快にさえ感じさせた。
屋敷の侍女たちも、そんなファルクの顔を見て、眉根を寄せたり、中にはうつむいて笑いをこらえている者もいた。
さらに、右手の指を怪我したのか、ぐるぐると包帯が巻かれている。
当然、回りの者たちは何があったのかとファルクに問いかけるが、ファルクは、ぼんやりと考え事をして階段を踏み外してしまったと笑いながら答えた。けれど、それが嘘であることはすぐにわかった。
間違いなくハルがやったのだ。
それ以外、考えられなかった。
けれど、サラは内心ほっとしていた。
もっとひどい状態となったファルクの姿を目にすることになるのではと恐れていたから。それこそ腕を斬り落とされているのではと思っていたくらいだ。
けれど、そのハルもとうとう、姿を見せることはなかった。
式が始まる前にはきっと迎えに来てくれると思っていただけに、正直、心にぽっかりと穴が開いてしまったよう。もしや、本当にハルの身に何かあったのかと、一抹の不安さえ胸を過ぎった。
いいえ、ハルに限って絶対にそんなことはあり得ない。
けれど、サラのそんな不安に追い打ちをかけるように、馬車に乗り込む直前、ファルクはこう告げた。
「何かを期待しているのならあきらめるのだね。あのきれいな顔の少年は助けには来ないよ。何故なら、この私が始末してやたのだから」
「な……!」
サラはそんなことはないと反発しそうになって、ぐっとこらえ、出かかった言葉を喉の奥にとどめる。そして、ふいっとファルクから顔を背けた。
「当然の報いさ。この私の愛する妻に手を出したのだからね」
ハルがファルクにやられるなど考えられない。だけど、もしファルクの卑劣な罠にはまり万が一ということも……ないとは言い切れない。
それでも、サラはいいえ、と首を振って否定する。
ハルよりもファルクの方がずっと年上とはいえ、これまでくぐり抜けてきた人生経験は明らかに違うとサラは思っている。つまり、ファルクなどよりもハルの方が一枚も二枚も上手だ。そんなハルがファルクの罠などに陥るはずがない。
私の気持ちを動揺させようとして、わざとそんなことを言っているのだわ。
だめよ、この男の言葉に惑わされてはだめ。
信じなければ。
ハルを信じなければ……。
「ふ、そうやって生意気な態度をとっていられるのも今のうちだ」
ファルクの手がサラの頬へと伸ばされた。
「私の可愛いお人形、さん」
お人形さんと言った瞬間、ファルクは意味ありげに口許を歪める。
その人形という意味がファルクにとってどういう意味かを知らないサラは、触らないでと、頬に伸びたその手をすかさず払いのけた。
ファルクはくつくつと喉の奥で含むような笑いをもらし、肩をすくめた。
そのファルクも、馬車に乗ってから、ずっと何やら落ち着かない様子であった。そわそわしているのが伝わってくる。それがカーナの森に入ってからいっそう強くなった。
いったい何なの?
この胸のざわつきは何?
何が起ころうとしているの?
その時であった。
「危ない!」
御者台の男が大声で叫ぶのを聞き、ファルクは前屈みになって身を乗り出した。
「何事だ?」
「人が……人が道の真ん中に立って……」
「人だと?」
眉根を寄せたファルクはにやりと口の端を上げて嗤う。すぐにその人物が誰かを察したようだ。そして、同じく、サラもそれがハルだということに気づきはっとなって視線を前に向ける。
ハル!




