68 戦い前夜 -憂慮-
静かな──
物音ひとつない、静かな夜であった。
ベッドしか置かれていない殺風景な部屋。
窓の下に剣を抱えじかに床に座り込んでいたハルは、何を見るとはなしに虚ろな目を闇に据えていた。
カーナの森から自宅へと帰った後、微動だにせず、食事もとらず、こうして座り込んだままの状態であった。
もれる呼吸さえ夜の闇に溶け、己自身すら闇に同化していく感覚。
暗殺をしていた時は、仕事の前はいつもこうであったことを思い出す。
すべての感情を捨て、ただ殺しの道具となるために。そして、静かにその時がくるのを待ち続ける。
しかし、その静寂を突如つき破るように、壊さんばかりの勢いで扉が大きく開かれた。開いた扉は外壁に派手な音をたててあたり、跳ね返る。
そこに立っていたのは──
騒々しい。
今、何時だと思っているのか。
すでに町も人も眠っている時間。
そんな大きな音をたてたら、近隣の者が驚いて目を覚ましてしまうではないか。
月明かりをまとったその人影は、すらりとした長身に細身の体躯。首の後ろで緩く結わえた長い髪が背で揺れる。しばし、固まったように扉の入り口に立ち尽くしていたその人物は、闇に目を慣らすように部屋の中を見据え、そして、ようやく窓の下に座り込んでいる自分の姿をとらえ。
「おまえ!」
と、声を張り上げ、ずかずかと部屋の中へ踏み込んできた。
ハルは、おまえか……と、特に驚いたふうもなく、感情ひとつない低い声でぽつりとこぼす。
「おまえか……じゃねえよ! そんな部屋の隅っこで灯もつけず、ひとりで膝を抱えて、いったい何してんだよ!」
何をしているのだと問いかけられても、答えようがない。
何もしていないのだから。
「サラとあいつの結婚式が三日後ってカイの奴から聞いて。いや、もう明日になるが、どうなってんだと思ってずっと、おまえのことを探していたんだ。なのに、おまえは……」
目の前に立つ人物──シンは、今にもつかみかからんばかりの勢いであった。
どうやら、サラの結婚式が早まったという話はシンの耳にも届いたらしく、それを聞いて、いても立ってもいられなくなり、何度もここへ足を運んできたようだ。けれど、部屋に来ても誰の姿もなく、裏街の人間を使ってようやく、ハルがサラを連れてベゼレート医師の診療所へやってきたところまでは突き止めたが、結局、サラは屋敷へと連れ戻され、その後、ハルの姿は途絶え、そうこうするうちに、いよいよ結婚式が明日へと迫ってきたというわけであったという。
てっきりサラを連れ出して、とうにこのアルガリタの町を離れてしまっていると思っていただけに、拍子抜けだという様子だ。
自分を見下ろすシンの目は、みすみすファルクにサラを渡してしまうつもりなのかと、責めているようでもあった。
「サラがあの野郎と結婚するって聞いて落ち込んでいるのか? いや、まさかだよな。おまえが落ち込むってがらじゃねえしな……それとも、サラとうまくいかなかったのか? 仲よさそうに町を歩いていたって、聞いたぞ」
シンもまた、サラの身に何があったのか知らない。
サラとはうまくいかなかったのか? と問うシンの声に、わずかな感情の揺れを感じ取る。
「はは、だとしたら俺にとっては、まさに好機だな。サラを奪うぞ。いいのか?」
と、冗談めかして言う。が、確かにシンにとっては好機であろう。
シンがサラに思いを寄せているのは知っている。以前、シンに酒場に呼び出された時、おまえが相手にしないのなら俺がサラを貰うと言っていた。あの時の言葉は自分をサラの元へ向かわせようとけしかけるようであって……。
これまで特定の女は作らず、知り合った女性とは互いに割り切った関係を貫いてきたシンであったが、どうやら、この男にしては珍しく、サラには本気であるようだ。そして、今もサラに対する思いは捨てきれずにいる。
ハルの瞳にかすかな、憂いにも似た翳りが帯びる。
ファルクとの件を片付けた後、自分はサラの前から姿を消すつもりだ。
もう、会うつもりはない。従って、その後のことをとやかく言うのは筋違いであろう。たとえ、シンがサラを口説き、サラがシンの思いに答えることになろうとも、文句は言えない。
シンと目を合わせようとしないハルの態度に、明らかに様子がおかしいと気づいたシンは整った眉を寄せ、首を傾げた。
「なあ、おまえ……本当にどうしたんだ?」
おもむろに、腰をかがめたシンが顔を近づけ、そろりとハルの頬へ手を伸ばしてくる。 シンの長い髪が背から肩を滑り、胸元へと落ちる。
窓から落ちる月影に、シンの濃い紫の瞳が艶やかな色を帯びる。
「そんな顔をして、何があった?」
シンの手がハルの頬に触れた刹那、ハルは顔を上げた。
その手は何だ、といわんばかりに睨みつけるようにシンを射貫く。
はっとなって、シンは慌てて手を引っ込め、その手でいやー、と戯けた仕草で頭をかく。
「それはその……あまりにもおまえが艶っぽい……じゃなくて、つらそうな顔をしてるから、慰めて、いや、元気づけてやろうかなとか、思ったりなんかして……必要なかったな」
と、シンは頭をかきながら口ごもる。
「顔が近い。どけ」
ハルは鼻であしらい、離れろとばかりに手でシンを追いやる仕草をする。
まったく何を考えているのか。
しかし、ハルはふと、何かを思いついたような、いや……思いついたというよりも、決意を固めたという顔で緩やかに視線を上げ、あらためて目の前に立つシンを見上げた。
「シン」
「何だよ。やっぱり、慰めて欲しいとか?」
「おまえに頼みがある」
あらたまった口調で、それもシンと名を呼び、真剣な表情で頼み事があると切り出したハルに、それまで戯けていたシンの顔にもすっかりと笑いが消えた。
そもそも、ハルがシンに頼み事をするなど初めてのこと。よほど切羽詰まった事情に陥ったのか。
何にせよ、ハルひとりではどうにもならない何かが起きた。あるいは、起ころうとしている。そして、それはあまりいい出来事ではないということは、シンにも容易に想像できたはず。
それでもシンは。
「何でも」
迷うことなく、躊躇う素振りもみせず、即座にそう答える。
おまえの頼みならどんなことでも聞いてやるぞというように、シンは口の端を上げ不敵に笑う。
頼み事とは何だと聞いてくることも、おまえがそんなことを言い出すとは珍しいとも、余計なことはいっさい口にしないところがこの男らしい。
「他の誰でもない、おまえにしかできなくて、おまえにしか頼めない」
いったん言葉を切ったハルの藍の瞳に、切実な色が揺れ動く。
「……力を、貸して欲しい」
「そんなふうにおまえに頼られると、ますます張り切りたくなるな。俺にとっては最高の口説き文句だぞ。何でも言ってみろ。力になってやる」
頼られてよほど気分がいいのか、それとも、頼ってきたのがハルであったというのがなおさらか、シンの表情はことさら嬉しそうであった。
俺にできることならではなく、何でもやってやるというシンの頼もしい返答に、張りつめていたものが全身からすっと、抜けていくのを感じた。
「明日の晩、カーナの森に人を立ち入らせないようにして欲しい」
「カーナの森に、人を?」
わずかに眉をあげて問い返すシンの目をまっすぐ見つめたまま、ハルは静かに、そして、ゆっくりとうなずいた。案の定、シンは驚きに目を見開く。
「それはまた……」
声をつまらせるシンのその先の言葉は、無茶なことを言い出す、と続けたいのだろう。しかし、無茶だと思うのは当然のこと。
メイルとアルガリタの町を行き来するには、カーナの森を通るしかなく、他に迂回する路はない。
確かに、夜ともなればめっきり人の通りも減少する。が、それでもまったくなくなるというわけではないのだ。
「無理ならいい」
「おい……そんな思いつめた顔で俺に力を貸して欲しいと言っておきながら、無理ならいいって、引くのが早すぎるだろ。それに、俺はできない、とは言っていない」
ハルはふっと笑った。
この男なら、嫌な顔ひとつせずに、頼み事を引き受けてくれるだろうことはわかっていた。
だからこそ。
「そうだな。事情も話さず力を手を貸してくれとは、あまりにも勝手がすぎる話だな」
「別に、話したくないなら無理に話さなくてもいいぞ」
こういうところも、シンらしいといえばシンらしい。しかし、ハルはいや、と首を振る。
サラが関係するならば、シンにとってもまったく無関係というわけでもない。
むしろ、話すべきであろう。
一呼吸置き、ハルは事情をシンに打ち明けた。




