66 出会った場所で
ファルクの屋敷を去った後、その足でベゼレートの診療所へと向かった。
濃紺色だった天は徐々に白々と染まる夜明けの明るさに押され、月はぼんやりと白く、その存在を薄れかけようとしている。
まもなく、新たな一日の始まりを告げる鐘が鳴る。静寂に満ちた町にやがて、喧噪が訪れる。
サラが目覚める前にはここへ戻り、何事もなかったように側についているはずだった。けれど、ファルクが言っていた通り、診療所にサラの姿はなく、しんと静まりかえった診察室にベゼレートと、消沈したように頭をうなだれたテオが椅子に座っていた。
必ず戻ると約束したハルの言葉を信じて待ち続けていたのだろう、診療所に足を踏み入れるなり、椅子を後ろに倒さんばかりの勢いでテオは立ち上がった。
サラの身に何があったのか、ファルクとの一件をまったく知らないテオは、ハルが今までどこにいたのかも当然、知らない。
どこへ行っていたのかと咎めることも、何があったのかと問いつめることもなく、テオは申し訳なさそうにことの次第を語り、ただひたすら謝罪するばかりであった。
サラを引き止めることができなくてすまないと。
サラを連れ戻しにトランティア家から人がやってきたのは、自分がここを去った直後だった。
怪我の状態をきちんと診たい、今は安静にさせたい、連れ戻すにしてもせめて夜が明けてからにして欲しいと、もっともらしい理由を並び立ててサラを引き止めようとはしたものの、テオとベゼレートの説得にも応じず、やってきた屋敷の者は有無を言わせぬ態度で、なかば強引にサラを連れ帰ってしまった。
屋敷にも専任の医師はいる、と言い切られてしまっては、それ以上無理に引き止めることはできなかった。
目覚めてハルがいないことに気づいたサラは、しばし、求める姿を見つけ出そうと落ち着かない様子で辺りに視線をさまよわせていた。
こんな夜中にサラがたったひとりで屋敷を抜け出し、ここへ来られるはずがない。
誰によって連れてこられたのかと厳しく問いつめられても、最後までハルの名を口にすることはなく、おとなしく屋敷へと戻った。
ここで抵抗すれば、テオたちに迷惑をかけてしまうと配慮したのだろう。
「力が及ばず申し訳ありませんでした」
テオの隣で頭をさげるベゼレートに、ハルはいたたまれなさを覚えた。
謝罪しなければならないのは自分の方だ。関係のない、といってしまったら、テオは怒り出すかもしれないが、二人には迷惑をかけてしまった。
そんなハルの心情に気づいたのか、ベゼレートは。
「そんな顔をなさらずとも、私たちは大丈夫ですよ。それよりも、あなたはあなたのことを考えなさい」
サラの心配をしてあげなさい、と言ってくれた。
その言葉に救われた。
ベゼレートはただの町医者ではない。たとえ、今回の件を咎められ、トランティア家から何かしらの圧力がかかったとしても、彼ならばやり過ごすことはできるだろう。
これからどうするのだとテオに尋ねられ、サラが婚約者であるファルクによって命の危険にさらされている、などと話せるはずもなく、ましてや、そのサラを救うために自分がこれから何をしようとしているのかも言えることもできず……。
「決して、無茶だけはいけませんよ」
ベゼレートの言葉に曖昧な笑いをこぼし、ハルは二人に背を向け診療所を後にした。
向かった先はカーナの森。
ここへ足を踏み入れたのはあの時以来であった。
そう──
サラと出会ったとき以来。
カーナの森はアルガリタの町と隣町メイルを繋ぐ重要な通路。脇道はなく、起伏のない平坦な道が延々と続く一本道。道幅は馬車がすれ違えるほどの広さ。剣を振るうには問題はない。
ここでサラとの式を終えた後、賊に扮した暗殺者たちに自分たちが乗る馬車を襲わせようとファルクは企んでいる。その場面を人の目に触れられるのは、ファルクにとってはできるだけ、いや、絶対に避けたいはず。
ならば、事をなすには人通りの途絶えた夜、もしくは早朝。
式の後に向かうと言い、さらに、暗殺者たち二十人が動くとなれば朝ということはまずない。
したがって、馬車が襲われるのは夜。
当然のごとく、夜の闇にまぎれて敵を殲滅させる方が自分も動きやすい。だが、問題は関係のない人間がたまたまカーナの森を通り、戦いに巻き込んでしまうことであった。それは避けたいところ。
アルガリタとメイル、双方の森の入り口をふさぐことなど不可能だ。人の出入りを制限することまではさすがに無理がある。
戦いを長引かせるつもりはない。わずかな時間で片をつける。
そのわずかの時間があればいいのだが……。
双方、通行禁止の札でも立てかけるか、と冗談めいた呟きをもらすハルの視線がふと、一本の大木に止まった。その木に歩み寄り、幹に手を添える。
思わず笑いがこぼれた。
忘れもしない。
初めてサラと出会った場所だ。
賊との戦いで不覚にも傷つき、動くこともままならず、この木の根元に座り込んでいたそこへ、一台の馬車が駆け抜けていった。
馬車の外観からして身分の高い者を乗せているとすぐにわかった。通り過ぎざま目に入った紋章はアルガリタでももとも由緒ある貴族、トランティア家の紋章であった。
過ぎていくその馬車を横目でみやると、突然、馬車が停止した。そして、止まったと同時に、中から転がり出るようにひとりの少女が現れた。少女は護衛の男たちが止めるのも聞かず、ドレスの裾を膝までたくし上げ、慌てた顔で真っ直ぐこちらに向かって走ってくる。
驚いたことに、足元を見ると裸足だった。
彼女がトランティア家唯一の跡継ぎである少女。
噂では、トランティア家のサラは少々変わり者だと聞く。しかし、変わり者というよりも……いや、こんな自分を好きだと言うのだからやはり変わり者なのだろう。
本人の姿を目にするのは初めてだったが、この国の──この国に限らずだが、おおまかな内情、主要な人物の情報は仕事がら頭に入っていた。
目の前に立った少女は息を切らせ、青ざめた顔で心配そうにこちらを見下ろす。
うっとうしい、俺にかまうな。
そんな目で俺を見るな。
誰ともかかわりたくない。
かかわるつもりはない。
おまえなどに情けをかけてもらわずとも、俺ならどうとでもなる。
今までそうしてきた。
これからも。
殺気にも似た気配を放って目の前の少女を睨みつけ遠ざけようとしたが、それに気づかないのか、気づいていても、それでも自分を心配しているのか、少女は逃げようともしない。それどころか、あなたを助けたい、私は味方、などとおかしなことを言い出した。
俺を助けたい?
笑わせるな。貴族のお嬢様が、偽善者面をして何だという。
世間知らずのお嬢様だ。だったら、少々怖い思いでもさせてやれば、すぐに泣きだして逃げだすだろう。そう思って、少女の細い首に手をかけ絞め殺すのは容易いと脅してやった。なのに、少女は泣き出すどころか、服が汚れるのもかわまず抱きついてきた。
思わず虚を突かれてしまった。
すぐに、我に返り少女の身体を引きはがそうとしたが、さらに少女はぎゅっとしがみついてきて……飲んだ薬の香りにあてられ自分の腕の中で気を失ってしまった。
何故、怪我人の俺が気絶したこいつを抱き抱えなければならない……。
そこから先は成り行きであった。
世間知らずと元々素直な性格というのも相まって、すれたところのない純粋な心を持った少女だった。どこかで得たい知れない自分を恐れながらも、それでも言いたいことをはっきりと口にする、元気のいい少女。自分の周りにはいなかった気質の少女だ。正直、興味がわいたのも事実。だが、身分がどうこういう以前に、自分とはあまりにも住む世界が違いすぎる。
由緒ある貴族のお嬢様と元暗殺者。
彼女がどんなに自分のことを好きだと言ってきても、決して相容れない存在。
けれど、いつしか自分の心の中にサラの存在が大きくしめていくようになって……。
いつから?
いつからだろう……。
大切な人を目の前で二人も失った。あの時の悲しみは今でも心の傷となって残っている。悲しい思いをするくらいなら、二度と誰も愛したりはしない。そう、心に決めていたはずなのに。結局、サラのひたむきさに心を動かされ堕とされてしまった。
あんなに真っ直ぐな気持ちをぶつけられたのは、生まれて初めてだった。
サラが好きなのだと気づかされてから、彼女に対する思いは加速していった。
なのに、どうして……こんなことになってしまったのだろう。
「……どうしてっ!」
声を振り立て、握ったこぶしを力の限り木に叩きつけた。
幹の表面がぱらぱらと崩れ落ちる。
ずきりと手の指が痛んだ。その痛みが、やりきれない胸の痛みと重なり顔を歪める。その胸の痛みをどこかへ押しやろうと、もう一度こぶしを振り上げた。が、その手が虚空で止まった。
心の空爆にいいようのない虚しさが広がっていく。
力なく腕をたらし、木にひたいを添えふっと笑うと、そのまま崩れるように地に膝をつき、木に背中をあずけ座り込む。
ハルはきつく手を握りしめ震わせた。
光を求めようとしたこの身を縛りつけるかのように、見えない鎖に絡め取られ身動きができなくなって、さらなる深い闇に沈んでいく。それは、断ち切ることのできない運命という名の強固な鎖。
どんなに抗っても。
抜け出せない。
断ち切れない。
人殺しであるおまえが人並みの幸せなど許されると思っているのか、おまえにそれを望む資格はない。何を勘違いしていた。現実を思い知れと突きつけられたようで。
ならば何故、サラと俺を出会わせたというのか。あまりにも残酷な運命ではないか。ファルクの屋敷を去る間際、より深い絶望を味わうとあの男に言った言葉がまさに自分自身にあてはまり、笑うしかなかった。
ハル、好き。
ハルがいてくれたら、私は何もいらない。
ずっとハルの側にいるから。
私がハルの側にいてあげるから。
サラの無邪気な笑顔が脳裏を過ぎっていく。
大切にしたい、優しくしてあげたい。
愛したい。
手放したくない。
けれど……。
ふと、思い出したようにハルは懐からリボンを取り出した。それはサラに贈った藍色のリボン。サラの部屋に落ちていたものであった。
ハルは明るくなり始めた空に視線をさまよわせた。
覆い被さる木々の合間からのぞく淡い光の筋。
ゆるりとリボンを握っていた手を持ち上げ、木々の合間からこぼれる細い光の束に手を伸ばして透か見る。
さわりと吹く風に、指からこぼれたリボンのはしがなびく。
届かない。
手を伸ばしても、あの光には届かない。
届くはずもない。
どんなに光に焦がれたところで、それを手にすることは叶わない。
伸ばした手をおろし口許へと持っていくと、握りしめたリボンにそっと口づけをする。視線を落とし、静かにまぶたを閉じた。閉ざされる寸前まで、まぶたの奥に揺らぐその瞳にはせつない色がにじんでいた。
ここでサラと出会った。
そして、ここが別れの場所。
まつげを震わせ、再び目を開く。
サラ、お別れだ。
次に会うときが最後。
二度と会うことはない。
サラの未来に影を落とそうとするすべての根源を取りのぞき、同時に俺を好きだと思ってくれるサラの気持ちも断ち切る。
彼女を守る為に身をひくという選択もありだ。と、そう自分の心に言い聞かせた。
自分と一緒にいれば組織に存在がばれてしまったとき、サラを確実に巻き込む。それでも、危険を承知でサラは俺とともにいたいと言ってくれた。そして、どんなことがあろうと、サラを命がけで守ると決心した。しかし、それは組織にばれない可能性もある、ということが心のどこかにあったから。
アイザカーンの組織二十人を手にかければ、いずれ、間違いなくレザンの組織の耳に届いてしまう。組織の情報網をもってすれば、誰の仕業かなどすぐに知れてしまう。これまでばれずにのうのうと生きてこられたのが奇跡なのだ。
組織の追跡を逃れながらの生活は過酷なものとなる。おそらく、サラには耐えられないだろう。
ハルが思うほど私は弱くはない、とサラは言うかもしれない。けれど、本当はそんな生やさしいものではないのだ。捕らえられてしまえば自分もサラも、どういう運命が待ち構えているか想像に難くない。
組織に己の居所を知られるとわかっていて、サラとは一緒にはいられない。
もう、側にはいられないけれど。
サラの望みも、俺の願いも叶えることはできなかったけれど。
俺の気持ちは変わらない。
ずっと、サラのことだけを思い続けているから。
ずっと──
愛しているよ、サラ。
指に絡んだリボンを握りしめ、ハルはゆらりと立ち上がった。
そして、これがサラのためにしてあげることのできる。
俺の戦いだ。




