64 報復 -7-
サラとの結婚を果たした後、密かに彼女に飲ませて物言わぬ人形に仕立て上げ、最後に殺すためとこの男が企んでいた毒を、ファルク自身の口許に持っていく。
「貴様がこれを飲め。そして、貴様自身がその人形とやらになればいい」
「ばかな、何をする! まさか本気で……うそだろう?」
ファルクはやめて、と小刻みに首を振る。
「解毒剤は持っていないのか?」
途端、ファルクのこめかみのあたりがぴくりと震えた。案の定、その様子からして解毒剤は持っていないということ。それもそうであろう。サラを殺すつもりでいたのなら、そんなものは最初から必要ない。そして、よもや、己自身がその毒を飲まされる羽目になろうとは想像もしていなかったのだから。
「おまえ、正気か!」
あり得ない、そんなことをするなど信じられないと、ファルクは懸命に身をよじる。けれど、肩にかけられたハルの足によって身動きを封じられ、どんなにもがいても逃れることはかなわない。
「くそっ!」
と、汚い言葉を吐き捨て、ファルクは咄嗟にハルの足を退けようと、右手でその足首をむずりと力強くつかむ。が、ファルクの口から上がったのは悲鳴。
指を折られていたことをすっかりと忘れていたようだ。
「誰か、誰かいないのか! 助けてくれ……殺される!」
このままでは本当に毒を飲まされてしまうと恐れたファルクは、とうとう救いを求めて叫び声を上げた。そして、そんなものなど飲んでたまるかと、唇をきつく引き結び、さらに口許に手をあてる。
「無駄だ」
情け容赦ない言葉を落とし、ハルはファルクの喉元へと手を伸ばし、ぎりぎりと締めあげる。
気道を圧迫されたファルクは、とうとう苦しくなって息を吸い込もうと口を開けた。すかさずその口に近づけた瓶を傾け、液体を半分ほど流し込むと、あごをつかんだまま、背後の壁にファルクの後頭部を叩きつけた。
頭を壁に強く打ち、うっと声をもらすファルクの喉がごくりと鳴った。
口に含んだ液体を飲み込んでしまったようだ。
落ちる一瞬の間。
「飲んで……」
ファルクは目をかっと見開き、あわわ、と口許に手を持っていく。
「飲んでしまったではないかーっ! 毒を! 毒を飲んで……ああ……ああああーっ!」
喉元を手で押さえながら身体を折り曲げると、その場で指を口許に持っていき、飲み込んでしまった毒を吐き出そうとする。が、ハルの手がファルクの手を押さえつける。
「誰が吐き出せと言った」
「何を言っている。毒を……毒を出さないと。おまえもさっきそれを舐めただろう。何ともないのか? おまえは平気なのか?」
「何だ? 俺の心配までしてくれるとは、ずいぶんと余裕だな」
「そうではない! 誰がおまえの心配などするものか! ああ……喉が胸が焼けるように熱い! 手が痺れてきた……ような気がする。きっと、神経が麻痺してしまったのだ」
「神経が麻痺した? それだけよく舌が回るのなら問題はない」
「何を根拠に問題ないと言う! ほ、ほら見てくれ……こんなに……こんなに手が震えてしまっているんだ」
「それは単純に恐ろしさに震えているだけだろう」
「し、死ぬ……このままでは死んでしまう!」
「少量、飲んだだけではすぐには死なないと、自分で言った」
「何が少量だ。私が言う少量とは、ほんの数滴のことだ。なのに、瓶の中身が半分も減っているではないか。半分もだ!」
「たった半分だ」
「だから、それは少量とは言わないのだ!」
「そうか」
「そうか……だと? しれっとした顔で言うな! おまえは馬鹿か? 馬鹿なのか!」
即効性のない毒だというのは、舐めてわかった。
飲んで胃の腑を焼くほどの刺激もなければ、すぐに手が痺れる症状があらわれることもない。ただ必要以上にこの男が大袈裟に騒いでいるだけ。とはいっても、毒を飲まされて冷静でいられるわけもないだろうが。
「頼む。お願いだ……毒を……」
「お願いの多い男だな」
ならば、望み通りに吐かせてやると、ファルクの胸ぐらをつかんで立ち上がらせ、壁に押しつけたままみぞおちに痛烈な膝蹴りを入れた。
「かは……っ」
ファルクの口から液体が吐き出された。
前のめりになったファルクは咄嗟にハルの両腕をきつくつかんですがりつく。そして、そのままずるずると床に膝をついて崩れ落ちた。
まだ吐き足りないと思ったのか、ファルクは口の中に指を突っ込み、毒を吐き出そうと試みる。けれど、すでに吐くものもなく、血に染まった胃液が流れるばかり。
涙と鼻水、血に染まったよだれを垂らし、苦しげに嘔吐するファルクの無様な姿を、彼に憧れる社交界の貴婦人たちが目にしたら、逆上せていた気持ちも一気に冷めがっかりするだろう。
両手を床につき、肩を揺らして荒い息をつくファルクを横目に、ハルは落ちた瓶の蓋を拾う。
「これは、俺が預からせてもらう」
はい? と、言葉尻を上げてファルクは聞き返してきた。
「預かるとはどういう意味だ。え? おまえはこの私に嘘をついていたのか!」
足元でファルクが何やら騒いでいたが、考え事に沈んでいたハルの耳には届いていないようであった。
ファルクの罪を明らかにし、処刑台へと送るつもりはもとからない。何より、この毒を差し出した人物がイザーラの手の者だというのなら、これを然るべきところへ持っていったとしても無意味だ。
偽りとはいえ、相手はこの国の女王。
ファルクごと証拠を握り潰し、何事もなかったことにしてしまうだろう。
それだけの力が相手にはある。
ハルは手の中の小瓶を握りしめ、わずかにまぶたを落とした。
この瓶をファルクの手から直接、あの方の手に渡すにはどうすればいい。つかんだこの好機を無駄にしないためにも。
考えろ。
ハルはゆっくりと視線を上げた。
やはり、三日後のカーナの森。
すべてはそこでだ──
「おまえ……この私を騙したな。許さない。許さないぞ!」
そこで、ようやくハルは深い思考の底から浮き上がった。
「騙したとはおかしな言いがかりをつける。そもそも、俺はこの瓶を返すとは言っていない。いや……三日後に返してやる」
「またしてもおかしなへりくつを並べやがって。それに、三日後だと? 何故、今ではなく、三日後だ。意味のわからないことを!」
汚れた口許を手の甲で拭い、憎悪をみなぎらせた目をハルに向けるファルクは悔しげにぎりぎりと歯を鳴らした。
「いかれた野郎が。おまえ……私に何かあったらどうなるか、忘れたわけではあるまいな」
「ああ……」
「何が、ああ……だ!」
ファルクに万が一のことが生じた場合、婚約者であるサラは殺してしまえとこの男はアイザカーンの暗殺者たちに命じた。
他の誰かがサラと結婚し、己が啜るはずのうまみをすべて持っていかれないようにという浅ましい考えだ。
「そういえば、そんなことを言っていたな……つい、感情のままに貴様を殺してしまうところだった」
そこへ。
扉の向こうから騒がしい声が聞こえてきた。何人かの足音がこちらへと向かってくる。
ファルクの叫び声を聞きつけたのであろう。ようやく今頃になって屈強な男たちが部屋になだれ込んできた。見たところ、この屋敷の護衛の者か。その数、五人。
「はひっ! ひ、ひーっ!」
奇妙な声を発し、ファルクは床を這いつくばって、現れた男たちの元に救いを求めるよう近寄っていく。そして、情けないことに、彼らの後ろにこそこそと隠れてしまった。
ファルクの変わり果てた姿を見た男たちはうっ、と声をもらして顔を歪める。
「……ファルク様!」
「これはいったい。どうされたのですか……」
見るも無残な姿で床にへたりこみ、自分たちの足元にすがりつく主人を見下ろし、いったいこの部屋で何が起きたのかと、状況を確かめるように男たちは薄暗い部屋を見渡す。
倒れたテーブル。
こぼれたワイン。
砕けたグラス。
放置された抜き身の剣。
床を染める血。
そして最後に、彼らの視線が部屋にたたずむひとりの少年ハルへと向けられた。
男たちが現れても、ハルに動揺の欠片も見あたらない。
「おまえら! 駆けつけるのが遅いではないか。何故すぐにやって来ない。賊だ。賊が侵入したのだ。それも凶悪な賊だ!」
賊と叫ぶファルクの声に、男たちはいっせいに剣を抜いて身がまえ、部屋をきょろきょろと見渡す。剣をかまえたものの、肝心の賊ははたしてどこに? と言った様子であった。
男たちの目にハルの姿は映してはいるものの、よもや、そのハル自身が賊だとは思っていないらしい。
「何をしている。早くそいつを捕らえろ! いや、殺してしまってかまわない。殺せ……殺せ、殺せ殺せっ! 八つ裂きにして、番犬どもの餌にしてしまえ。骨まで犬畜生にしゃぶらせてやるのだ!」
しかし、男たちは剣をかまえたまま、その場から動くことができず、固まったように立ちつくすだけ。ファルクがそいつと指さす人物はやはり目の前に立つ少年。だが、凶悪な賊というからには、どんな極悪な顔をしたやからかと思いきや。
男たちの視線がハルにそそがれたまま離れない。中にはぽかんと口を開けている者もいる。
ファルクが剣の名手だということは誰もが知っている。しかし、そのファルクがまさか、あの少年にここまで追いつめられたというのか。筋肉質で上背のある体型のファルクに対し、そこに立つ少年は女性のように細身な身体つき。とうてい、こんな惨い真似をするなどとは思えなかった。
信じられないと、現れた男たちは何度も、足元に座り込んでいる自分たちの主とハルを交互に見やる。
「ファルク様、凶悪な賊というのは、まさかあの少年のことですか?」
確かめずにはいられなかったのか、ひとりの男がファルクに尋ねる。
「おまえは馬鹿か! 他に誰がいるという。あいつが賊だ!」
「しかし……」
「おまえら気をつけろ。かなり頭のいかれた野郎だ。女みたいにきれいな顔をして、やることはえげつないぞ! とんでもないドSだ!」
「はあ……つまり、ファルク様はあの少年に、やられたのですか……?」
おそるおそるといった態で、男はファルクに問いかける。すると、ファルクはひくひくと頬を引きつらせた。
「違う。断じて違うぞ。この私が、あんな餓鬼ごときにやられるわけがないではないか!」
ならば、この状況はいったい? と男たちは揃って不思議そうに首を傾げる。
「あの餓鬼が卑劣な手を使って……そう、私の持っていた毒を奪い、無理矢理私に飲ませて殺そうとしたのだ。まるで、悪魔の所行。そう、あいつは人間ではない悪魔だ!」
ハルはやれやれと肩をすくめた。
己の体面を保とうとしたとはいえ、咄嗟に言いつくろうにしても、もっとましな言いわけを思いつくことはできなかったのか。
「どく……ですか?」
何やら聞いてはいけないことを聞いてしまったとでもいうように、毒と繰り返すその男と目が合ったファルクは、はっとなって顔を引きつらせる。
「そ、そうではない。何を勘違いしている。私は毒など知らない。私が持っていたわけではない」
「ですが……」
たった今、私の持っていた毒を云々、とおっしゃったでは……と、男はもごもごと口ごもる。
「ええい、黙れ黙れ! そんなことはどうでもいいのだ。雇われの分際でいちいち細かいことを詮索してくるな。おまえたちはただ、私の命令に従えばいいのだ。ああーっ!」
言っていることが支離滅裂なうえ、とうとう逆に切れてしまった。最後の悲鳴はまたしても指が折れていたことを忘れ、手を激しく床に叩きつけたからだ。
「ふ……ははっ! 何にしてもこれはまさに、形勢逆転というやつだな。やはり、私は運がいい。神は最後の最後にこの私に味方をしてくれた」
助けが現れたことによって気持ちに余裕を取り戻したのか、ファルクはお得意の芝居がかった仕草で両手を大きく広げた。それにしても、これだけの目にあわされながらも、運がいいと言えるこの男のめでたさにハルは失笑する。
「そのようだな」
「そうだとも」
「だが、これを救いだと思うのなら、次に味わう絶望はより深いぞ」
「は、何とでも言え。この私にさんざんな真似をしやがって、ただで済むと思うな。このくそ餓鬼が!」
これだけの人数の男たちを相手に、さすがのおまえも、どうすることもできないだろうと、ファルクは勝ちを得たように高笑いを上げ、ハルに向かって真っ直ぐに指を突きつけた。




