58 報復 -1-
ソファーにゆったりと身をあずけ、ファルクは葡萄酒が注がれたワイングラスを片手に唇を歪めた。
あと三日もすれば、何もかも自分の思う通りになる。自分の願っていた通りにすべてが順調に。
そう思うと、気分が高揚しひどく興奮を覚えた。
ふつふつと、込みあげてくる笑いが止まらない。声を上げて笑い出したい気分だ。
手にしたグラスをゆっくりと転がすように回すと、芳醇な葡萄酒の香りが鼻腔をかすめていく。香りだけで心が酔いしれてしまいそうだ。
そう。
あと三日だ。
三日後にすべてが俺のものとなる。
あの小娘も、あの家もすべて俺のものに!
しかし……。
ファルクは片目を細め、忌々しげにくっと口の端をあげ舌打ちをした。
グラスの中の赤色の液体が、少女の首筋から流れ落ち、白い衣服を染める血の赤と重なった。
くそ!
あの生意気な小娘め!
葡萄酒を一気に飲みほし、口の端からこぼれた液体を荒々しく手の甲で拭いとる。
この手であの生意気な小娘に思い知らせるため、無理矢理抱いておとなしくさせてやろうと思った。
生意気な口をきき、いつも自分を見下す目で見ていたあの娘に己の怖さを刻みつけてやろうと。そうすれば、二度と夫となるこの自分に、反抗的な態度をとることもないだろうと思った。
だが、あの娘は自分の想像もつかない行動をとった。
持っていた短剣でこれ以上近づいたら死ぬと言い出したのだ。自分の身を傷つけてまでも逆らってきたのだ。
やむなく、あの場はあきらめるしかなかった。
引くしかなかった。
あれ以上騒がれでもしたら、後々面倒なことになりかねない。
だが、小娘を屈服させるつもりで抱こうとしていた肉欲をどうすることもできず、トランティアの屋敷を出てすぐ、その足で娼館へと向かい、思う存分商売女を抱き性欲を吐き散らし憂さを晴らしてやった。
ふと、ファルクは唇を歪めた。
だが、思えば何もわざわざ娼館に出向かずとも、部屋の鍵を差し出してきた、あの頭も身も軽そうな侍女でも代わりに抱いてやればよかったのではないか。ちょっと、甘い顔と言葉をかけてやっただけで、あの侍女は潤んだ目で、物欲しそうな目つきでこの私を見上げてきた。今にも抱いてといわんばかりに。
調教のしがいがある娘だ。自分好みにしつけ、存分に奉仕させてもらうのもいいだろう。
ああ……そういえば、あのがきの母親もいい女だったな。ああいう清楚な女は、どんなふうにベッドで乱れるのか、一度試してみたいものだ。
ファルクは葡萄酒の瓶の縁から流れ落ちる赤い液体を、舌を這わせるように舐め上げた。さらに、指先についた液体ももったいないとばかりにぺろりと音をたてて舐める。
それにしても、あのがきはまだ生娘なのか?
がきのくせに、夜会の時といい昼間といい、何人もの男を連れ歩いていた。それも、自分には釣り合わない、見た目のいい優男を。
生娘の方がいたぶりがいがあるというものだが、まあ、そんなことはどうでもいい。
それに、わざわざあんな青臭い小娘など相手にせずとも、寄ってくる女など腐るほどいる。こちらから声をかけずとも、色目を使い、この俺に抱かれたいと自ら進んで脚を開くばかで愚かな女どもが。
女など、己にとって性欲を処理する道具、はけ口にしか過ぎない。
まあ、どのみち、三日後にはあの娘も己の所有物となるのだ。そうなればあの娘はものを言わぬただの人形となる。
二度とこの俺に逆らうことはないただの人形に。
それでいいのだ。
そのために、これまで着々と準備も進めてきた。
欲しいのはあの娘自身ではなく、彼女のもつ家名なのだから。
「もうすぐだ。もうすぐ地位も名誉も何もかも、この私の手に転がり落ちる。私は最高に運のいい男だ! そして、それらを手にするだけの価値のある男なのだ」
グラスを持った手を高々とあげ、喉を鳴らしてくつくつと肩を揺らし、忍び笑いをもらす。
空になったグラスに新たな葡萄酒を注ごうと瓶に手を伸ばしたその時、ゆらりとテーブルに置かれた燭台の蠟燭の炎が揺れ動くのに眉をひそめた。
閉めてあるはずのバルコニーの窓から緩やかな風が流れ込んできた。
半分腰を浮かせ、ファルクはバルコニーへと目を凝らす。
バルコニーの入り口、揺れるカーテンの向こう、月明かりに照らされたその場所にたたずむひとりの黒い人影。
手にしたワイングラスをテーブルに置き、咄嗟にファルクはかたわらの剣をつかんだ。
侵入者はカーテンに手をかけ部屋へと足を踏み入れた。
「だ、誰だ!」
ファルクは剣の鍔に親指をかけゆっくりと抜き放つ。鞘走る無機質な音が静謐な部屋に響き渡る。抜き身の刀身が、虚ろげに揺れる蠟燭の炎を受けて仄かに光る。
姿を現したその侵入者──ハルは、窓の縁に寄りかかり、腕を組んでファルクを見据えた。
「ど、どうやってこの屋敷に忍び込んだ。外の警備たちはどうした!」
「警備たち?」
まるでそんな者などいたのか? という口調でハルは可笑しそうに肩をすくめた。しかし、その笑いもすぐに消え、口許に浮かべた笑いがぞっとするような冷笑へと変わる。
「くそ! 役立たずめどもが……仕事もせずにさぼっているのか。全員くびにしてやる!」
どうやら警備の者たちがさぼっているとファルクは勘違いしているようだ。ハルが屋敷を巡回する彼らの目をすり抜け、ここまで忍び込んできたとは思わずに。
「ずいぶんと、彼女にひどい真似をしてくれたようだね」
押し殺した低い声音が夜の静寂を縫い取る。
彼女? と、一瞬考え込む顔をしたファルクは、すぐにああ……と片頬をゆがめて鼻白む。
「俺もいろいろとやってきたけれど、あんたも相当、低劣な人間だな」
「おまえは……」
ファルクの目が蠟燭の灯りに照らされた侵入者の姿と顔をようやく認識したようだ。
「……なるほど、昼間の男か。まさか、わざわざ私の所にまで乗り込んできて、仕返しにやって来たとでもいうのか? は! あんな小娘ごときに馬鹿馬鹿しい」
ファルクは口許を歪め吐き捨てた。そして、あたかも目の前の相手を、ハルを挑発するように言い聞かせる。
「おまえはあの小娘の男か? あの娘は以前、おまえとは違う別の男を連れ歩いていたのだぞ。髪の長い、優男だ。そのことを知っているのか? 知っていて、あの娘のためにここへ乗り込んで来たというのか?」
しばしの沈黙が落ちる。
「なるほど、他の男の存在を聞かされても、動じないというわけか」
ならば、とファルクはにたりと嗤い、質問を変えてきた。
「おまえはもう、あの娘とは寝たのか?」
しかし、ファルクの問いかけにやはりハルは答えない。そして、ハルの無言をファルクはどう受け止めたのか。
「あの娘はこの私が抱いてやったよ。思い出すだけでも愉快だよ。あの生意気な小娘を強引に組み敷き、泣き叫ぶあの娘の身体を無理矢理、奪ってやった。未成熟な身体を力で押し開き、積もった鬱積を一気にねじ込み叩きつけた。容赦なく、何度も何度もね。恐怖と絶望に歪む表情はたまらなかった。必死に抵抗し、あのくそ生意気な小娘が、涙をこぼし声を嗄らして私に許しを請うのだよ。ああ、ファルク様どうかお許しくださいとね。ふん! 従順な態度をとっていれば、少しは優しくしてやったものの。それしにても、あんながき、たいして面白みも何もなかったよ」
闇が闇を引き寄せる。
底知れぬ深い闇を。
ハルはまなじりを細めた。
けれど、ファルクは気づいていない。相手の隠そうともしない殺気に。その目の奥に揺れ動く憎悪の炎に。触れるもの全てを引き裂こうとする狂気の瞳に。混沌の闇は今まさに手を広げ飲み込み食らいつくそうとしている。
ハルは握った手をかすかに震わせた。
怒りで我を忘れそうになるのは久しぶりだ。
「どうだ? 悔しいか? 何だね。もっと、怒り狂うさまを見られるかと思ったが、案外、そうでもなかったようだね」
残念だよ、とファルクは戯けた仕草で肩をすくめる。
殺してやりたい。
この手で貴様を引き裂いてやりたい。指をひとつひとつ切り落とし、その目を抉り抜き、耳を削ぎ、舌を切り取り、顔を潰し、腹を裂いて臓物を引きづり出してやりたい。
もちろん、この男が自分を挑発するために、虚言を吐いているのはわかっている。だが、たとえ、言葉といえどもサラを侮辱し、貶めるような発言は許さない。
決して、許さない。
恐怖と絶望に顔を歪め、泣き叫び、涙を流して許しを請うということがどういうことか、この男にも教えてやる。
そうやって笑っていられるのも、いまのうちだ。
足を踏み出しかけたハルに、ファルクはまあ待て、と慌てて手で制する。
「やめておきたまえ。私はこれでも一個騎士団の隊長をつとめているのだよ。知らないのかい? 数々の剣術大会でも優勝をしてきた実力の持ち主だ。そんな私に、女のように細腰のおまえが勝てると思うか? 怪我はしたくないだろう?」
自分で実力の持ち主だと言ってしまうところが失笑ものだ。そして、その剣の使い手とやらが、シンに徹底的に叩きのめされた。よもや、ハルがそのことを知っているとは知るよしもなく、ファルクはさも誇らしげに続けて言う。
「はは! どうやら驚いて声もでないという様子だな。おまえも」
と、突きつけたファルクの指がハルの腰の剣を差す。
「その腰に剣を携えているようだが、剣を持つことで、自分が強くなれたと愚かな勘違いをしているのだろう。だが、おまえのような小僧など、ひねり潰すなどこの私にとって、わけもないということだ」
それにしても、よくもべらべらと喋る男だと、ハルは薄い嗤いを浮かべた。おまけに、反吐がでるほど気色が悪い。この変態男がサラの婚約者だと名乗るだけでも腹立たしい。不愉快だ。しかし、ハルのその嗤いも次のファルクの言葉によって表情から消えていく。
「そうだ。おまえに、いいことを教えてあげようではないか」
得意げな顔をするファルクに、次は何だとハルは眉根を寄せる。
「私はある組織に、サラ・ファリカ・トランティアの抹殺を依頼した」
じっと燭台の蝋燭の炎が燃えて揺れる。




