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あなたの瞳におちて -愛した人は、元暗殺者-  作者: 島崎紗都子


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56 解き放つ怒り


 こつりと胸に寄り添ってきたサラの頭に頬を寄せ、髪に口づけをする。ふわふわの柔らかい髪が頬をくすぐり、ふわりとのぼる甘い香りに、まぶたを閉じる。


 愛しているサラ。

 まだ足りない。

 俺がどれだけサラを愛しているか、この思いを伝えるにはどうしたらいいのか。


 何度愛しているとささやいても、強くサラを抱きしめても、おそらく肌を重ね激しく壊れるほどに愛しても、自分の思いのすべてを伝えきれないだろうもどかしさに、ハルは眉根を引き締め震わせた。

 サラを抱きかかえ、ためらうことなく扉に向かって歩き出すと、サラがくすくすと肩を揺らして笑い出した。何? と首を傾げると、サラは悪戯っぽい笑みをこぼす。


「今日はこっちから? いつものようにバルコニーから帰らないのね」


「さすがに、サラを抱えて飛び降りるなんてできないよ」


「私を抱えていなくても、ここから飛び降りるなんて信じられないけれど。ねえ、ハルおろして。私ちゃんと歩けるわ。大丈夫よ」


「いやだ。離したくない。このまま、サラを抱いたまま連れて行く。俺がそうしたい」


「でも、重くてハルの腕が痛くなってしまうわ」


「重くなどないよ。いいから、おとなしく俺の腕に抱かれていて」


 と、サラの耳元でささやくように言うと、腕の中のサラは小さくうなずいた。

 窓から差す月明かりが、暗い廊下に仄かな光を落とす。


「まさか、こうして堂々と屋敷から出て行くことになるなんて思わなかったわ」


「こんな時間だから、堂々とは言えないけれどね」


「それもそうね。ねえ、ハル?」


「何? どうしたの?」


「ううん……何でもない」


「言ってごらん」


「好き……」


 ハルはもう一度サラの耳元に唇を寄せ、愛していると思いを込めてささやいた。 サラは恥ずかしそうにうつむいてしまう。

 屋敷内はしんと静まり返っている。おそらく誰にも見つかることなくここから抜け出すことができるだろうと思ったその時。

 背にその声がかけられた。


「サラ?」


 足を止め、ハルは背後を振り返る。

 視線の先に立っていたのは、夜着姿に肩掛けを羽織った美しい女性。匂い立つような美しさではない。清楚で可憐な、誰かが支え守ってあげなければ今にもふっと消えてしまいそうな儚い美しさ。けれど、弱々しいと思わせたのはほんの一瞬のこと。すぐに、その女性のうちに秘めた強さを、こちらを見つめる眼差しから感じ取ることができた。

 年齢とかもしだす雰囲気からすぐに、サラの母親であろうことはわかった。何より、顔立ちがサラとよく似ている。


「お母様……」


 サラの母、フェリアは驚いたように口許に手をあてた。が、すぐにその花のように美しい面にふわりと笑みを浮かべる。この状況を理解したようだ。

 自分の娘が誰の腕に抱きかかえられているのか。

 それは、サラが愛した男性(ひと)なのだと。

 フェリアの笑みは心の底から娘の幸福を願う母親の顔であった。けれど、これまで慈しみ育ててきた娘が、他の誰かの手に渡ってしまうという寂しさも、その顔にはかすかに浮かんでいた。


「お母様……私……」


 ごめんなさい、と呟いたサラの両腕が首に回り抱きつく。それは、たとえ引き止めても、私はこの人について行くのだという強い意志の表れであった。

 何も言わなくてもわかっているわ、というようにフェリアは緩やかに首を振り、そして、静かな眼差しを今度はハルへと向けた。


「どうか、サラを……」


 そこまで言いかけたフェリアだが、しかしいいえ、と頭を振り、その後に続く言葉を閉ざす。

 ハルは口許に緩やかな笑みを浮かべ、背後の女性に会釈をするように、わずかにまぶたを落とした。そして、女に背を向け再び歩き出す。



 ◇



「結局、俺のこと知られてしまったね」


 薔薇園にたどり着くと、ハルは抱えていたサラを下ろした。サラが最後に屋敷を見たいと願ったからだ。


「うん……でもね、嬉しくて少しほっとした。私、お母様にハルを会わせたいと思っていたから。あのね、この間お母様に誰かいい人ができたの? って聞かれたから、ハルのことを自慢したの。私の好きな人はとても素敵な人なのよって」


 素敵な人か……と、ハルは苦笑いを浮かべる。

 自分はそんなふうに言われるような人間ではないのに。

 この手は数え切れないほどの人間の命を絶ってきた、汚れた人殺しの手。


「ハルは素敵よ。ほんとうよ。そして、私にとって一番大切な人」


 まるで自分の心の中を読み取ったかのように、サラは真剣な顔でもう一度言う。そして、背後を振り返り、今は灯ひとつないトランティアの屋敷を見上げた。

 生まれ育ったこの屋敷に戻ることはないかもしれない。

 サラの細い肩に落ちる艶やかな月影。そして、その背がほんの少し寂しそうに見えたのは気のせいではないだろう。

 やがて、思いを断ち切るようにサラはくるりとこちらを振り返り、ふわりと笑む。

 ふと、その姿がサラの母親の姿と一瞬重なったように見えた。


「ねえ、私のお母様とてもきれいだったでしょう? みんなお母様のこと、すごく美人だって褒めるのよ」


 嬉しそうに母親を自慢するサラを見下ろすハルの瞳がふっと和む。


「サラに似ていた」


 驚いたように目を開くサラの頬に蒼い月が照らす。


「私がお母様に似ているなんて……嘘よ、そんなこと、今まで言われたことないわ」


「似ているよ、とても。でも」


 静かで触れることさえためらってしまうほど儚げで、それでいて芯の強さを秘めた、そんな美しい女性だった。後、数年もすればサラも、回りの者が目を瞠らせるほど美しい女性に変化するだろう。そのサラを、自分は見守っていくことができる。

 いや……。

 この手でもっと美しく咲かせてみせよう。


「でも?」


 何? と、首を傾げてサラが問い返す。


「今のサラは、まだ可愛らしいって言葉があてはまるね」


 照れたように顔を赤らめ、歩み寄ってきたサラがとんとひたいを胸に押しつけてきた。


「私どうしてしまったのかしら……少し変だわ。身体が熱くてめまいがする。足も何だか地についていない感じでふわふわするの」


 サラのひたいに手をあてるとひどく熱かった。

 張りつめていたものすべてが一気に解かれ、気が緩んでしまったせいもあるのだろう。


「……少しだけ、こうさせて」


 体重をかけてきたサラの腰に腕を回して支える。


「私、ハルに甘えてばかりね。もっと、しっかりとしなければいけないのに」


「もっと、甘えておいで。サラのすべてを受け止めるから」


 寄り添ってくるサラの髪を優しくなでると、腕の中の少女は緩やかにまぶたを閉ざした。


「もう少し、こうしていてもいい? ハルの腕の中にいると、とても落ち着くの。そうして髪をなでてくれるのも好き……気持ちがよくて、とても安心……する」


 そのまま、すっと眠りに落ちていくかのように、腕の中でサラは意識を手放してしまった。


「サラ……」


 と、小声で呼びかけあごに手をかけ上向かせる。半開きになった唇から、静かな吐息がもれる。すっかりと安心しきっているのか、腕の中で眠るサラの顔は穏やかだった。目覚める様子はない。

 眠るサラを見下ろし、痛々しく腫れ青紫色に変色したその頬に、ハルは沈痛な面持ちで顔を歪めた。


 今はただ眠るといい。

 今だけは何もかもすべてを忘れて。


 そして、ハルは大きく空を振り仰いだ。

 夜の海には凍える月。

 凍てつく月の光がそのままハルの藍色の瞳に映り溶けていく。

 サラの細い身体を抱きしめ、小刻みに身体を震わせた。


 もういいだろうか。

 ずっと抑え込んできたこの激怒(いかり)を。

 解き放ってしまっても。


 ふつふつとわき上がる感情は激しい怒り。

 胸のうちにくすぶっていた怒気の炎がこの身を焼きつくし、それでもまだ足りないとさらに勢いを広げる。その炎に煽られ心の奥深くに眠らせていたもうひとりの自分が目を覚ませと、揺さぶり呼びかけている。

 すっと手を伸ばし、側の薔薇の蔦を握りしめる。それは無意識の行動。そして、握っていた薔薇の蔦を怒りにまかせ力の限り引きちぎった。


 さっと──


 舞い上がった花びらが駆ける風に乗って夜の虚空を舞い上がり、暈を描いた蒼白の月に黒い影となってひらひらと踊る。

 散った花びらの数枚が、ゆらりとサラの髪に落ちた。

 手のひらに、指の腹に食い込んだ棘の痛みに、ハルはきつく握っていた手のひらを開く。棘に傷ついた指先から、ぷつりと血の玉が浮かび、その血玉はじわりと膨れあがり指の腹の上で滲んだ。

 ハルは唇に指先を持っていき、浮かんだ血をちろりと舐める。

 指先が痙攣するように震えた。

 疼く痛みと舌先に覚えたかすかな血の味。そして、新たに浮き上がる指先の血の玉が、記憶の奥底に封じた忌まわしい過去を鮮烈に呼び戻す。


 今一度、あの時の自分を思いだして戻れ。


 細められた目の奥、藍色の瞳をかすめるのは狂気の影。あるいは、ようやく愛する人を傷つけたあの男に報復に向かえるという狂喜の光。

 目覚めようとする危険なもうひとりの自分の本性に、己自身ですら戦慄を覚えた。

 愛しい人は深い眠りの底。故に、この醜い感情を悟られることも、冷たい光を孕んだ瞳も見られることはない。

 薄く開いた唇からもれるのは震える吐息。

 鎮めなければ何をしてしまうかわからない。

 否──

 ハルは端整な顔にぞっとするほどの冷たい笑いを刻んだ。

 鎮める必要などない。


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