54 口止め
待って! とサラが声を上げた時にはすでに、短剣を手にしたハルは扉の前。
かちゃりと遠慮がちに薄く扉が開かれたと同時に、そろりと顔をのぞかせるようにして現れた侍女の腕をとり、部屋の中へと引きずりこむ。
素早く部屋の鍵をかけ、悲鳴を上げかけた侍女の口を片手でふさいで側の壁へと押しつけ身動きを封じる。
あっという間のことであった。
まばたきをすることも忘れ、驚いたように目を丸くする少女の顔は思っていたよりもまだ若い。おそらくサラと同じ年、あるいは、もう少し上といったところか。
少々気がひけるものを感じたが、ここで騒がれ事が広がってしまえば、もっと面倒なことになる。何より、サラの体面を汚すわけにはいかない。
絶対に、他の者にこのことを知られるわけにはいかない。
口止めと、そして、少しでも早くサラの怪我の手当をするためにも、この侍女には少しばかり役だってもらおうと思ったのだ。
すべてはサラを守るため。
可哀想だが、少しばかり、怖い思いをしてもらうのも仕方がない。
ハルはゆっくりとひとつ、瞬きをした。そして、開いたまぶたの奥の、その藍色の瞳からすっと感情が消えた。
侍女は目を見開き、何が起きたのかわからないという様子でハルを見つめ、そして、視線だけを動かし部屋の中を見渡した。
物が散乱した部屋。さらに、ベッドの上、乱れた格好のサラの姿に、侍女はこれ以上はないというほど目を大きく見開いた。
おそらく、ハルのことを賊か何かと思い、サラを襲ったのだと勘違いしたのだろう。そして、それを見てしまった自分も同じ目にあう、あるいは、もしかしたら殺されてしまうと怯えた。
「んん……っ!」
侍女のくぐもった声がハルの手のひらからもれる。
口をふさいでいるハルの手を両手でつかみ、引きはがそうと抵抗を試みるが、本気で押さえつけている男の力にかなうわけがない。
「騒ぐな」
「……っ!」
「騒いだら」
どうなるかわかっているな、とハルは手にした短剣をくるりと器用に回転させ逆手に持つと、侍女の喉元にあて抵抗する気力を削ぐ。
まだあどけなさを残した侍女の顔が一瞬にして恐怖に凍り歪む。
抗うことをあきらめ力なく両手をたらし、声を出すことも、うなずくこともできず、侍女は殺さないでと、必死に目で訴えかける。
「ハル……!」
ベッドの上からサラがやめて、と叫ぶ。
サラの声に、侍女は目の前の少年が賊ではないことを悟ったらしい。しかし、そうでないのなら、この少年はいったい何だというのだろうか?
状況がまったくわからない。けれど、今自分は殺されかけようとしている。そんな思いがあからさまに侍女の表情にあらわれていた。
ハルは思わず苦笑する。
侍女に危害を加えるつもりはない、だから、驚かないでとサラに伝えたが、やはりそうもいかなかったようだ。もっとも、こんな状況を見せつけられて、おとなしくしていろという方が無理なことである。
わかってはいたが、だが、やめるつもりはない。
首筋にあてた短剣はそのままに、ハルはゆっくりと侍女のふさいでいた口から手を離した。
「ころ、殺さ……」
歯をかたかたと鳴らし、侍女は目に涙を浮かべ震える声で懇願する。
「俺のいうことに従えば、殺しはしない」
「何でもきくから……だから……」
殺さないで、と涙混じりに弱々しい声を落とす侍女に、ハルは意味ありげな笑いを口許に刻む。
「そう簡単に男に、何でもと言ってしまっていいのか?」
「……」
ハルはふっと笑って、喋りやすくなるよう、侍女の喉元にあてていた短剣を少しばかり緩めた。
「サラが怪我をした。傷の手当をしたい。消毒薬と包帯、冷やしたタオルを用意しろ。着替えもだ。用意したら、誰にも見つからずにここへ戻って来い」
「む、無理……そんなのできない」
「無理?」
ハルは目を細めて侍女を見据える。
「だって!」
声を上げかけて、侍女は慌てて息を飲む。
「着替えならこの部屋に。でも、それ以外のものは別の部屋に行かなければ手に入らないわ。こんな夜遅くに、こそこそしたら誰かに気づかれてしまう……誰にも見つからずになんて無理……」
そう、とハルは目を細めて薄く嗤い、侍女のあごに添えていた短剣の刃で相手の顔を上向かせる。
どうやら、今置かれている自分の状況がわかっていないらしい。
口答えをする余裕があるというのなら。
なるほど、遠慮はいらないということだな。
「だったら、取りに行きやすいよう、あんたの身体に傷のひとつでもつくってやろうか。どこがいいか言ってみろ。自分の傷の手当てだと言えば、何も不思議には思われないだろう? こんな時間だ、みな早く休みたい。少しばかり怪我をしたところで、誰もたいして気にとめることもない」
侍女の顔から一気に血の気が引いていく。
「わ、わかったから……用意するから。すぐに……」
「できないのではなかったのか? それともさっき言った言葉は嘘だったと?」
「許して……」
頼りない声を落とし、とうとう侍女の目から涙がこぼれ落ちる。
「もし、誰かに見つかったらそれこそ、怪我をしたのだと言え、理由などいくらでも考えつくだろう」
侍女はわかった、と何度も首を縦に振りうなずいた。
「それと、わかっているだろうが、おまえがこの部屋で見たことは俺のことも含めて決して誰にも言うな」
「……」
「ファルクがこの部屋に来たこともだ」
喉元にあてていた短剣を水平にかまえ、ゆっくりと侍女の目元まで持っていく。
刃が両方の眼球に触れそうな、まばたきをすれば、まつげが刃にあたるほどの間近な位置であった。
喉の奥で引きつった悲鳴を飲み込み、侍女は目の前の刃から逃れようと身を引くが、背後が壁では逃げることはできない。いや、少しでも動いたら……。
「やめ……て……」
「いいな」
声も出せずに侍女は口だけをぱくぱくとさせる。
「何も見ていないと誓わなければ、おまえのその両目を切り裂く。これは脅しではない。本気だ」
押し殺したハルの声音に、侍女は動くことはおろか、瞬きをすることもできず、涙を流し硬直したままその場に立ち尽くす。
サラの婚約者であるファルクが帰った後の様子を見に、この部屋にやって来ただけなのだろうが、まさか、こんな羽目になるとは彼女自身、思いもよらなかっただろう。
だが、少々腑に落ちない点があった。
それを確かめるまでは、許すつもりはない。
もちろんこれは脅しだ。暗殺をしていた頃なら、他人が聞けば吐き気をもよおすほどの非情で残酷なこともやってきた。それが仕事だった。が、今は……いや、サラが見ている前でそんな惨いことをするわけがない。
女はたいがいお喋りだ。喋るなと強く念を押しても、ここだけの話し、と言ってすぐに得意げに他人に秘密をもらす。だから、たとえうっかりでも、口が裂けてもこの夜のことを決して他人に口外したりしないよう、相手の心に深い恐怖心を植えつける。
それが目的だ。
「……から」
かすれた声で侍女が涙まじりに呟く。声を発することさえ、やっとという状態であった。
「聞こえない」
即座に切り返したハルの一言に、侍女は唇を震わせた。
「ハルどうしてしまったの。何をするの! やめて、ミリアを傷つけてはだめ。ハル、お願い……そんなことしてはだめ!」
再び、サラの引き止める声に、どうやらここまでだなと、侍女には気づかれないようハルは軽く息を吐く。これ以上はサラの方が限界であろう。彼女のことだ、侍女を庇うため飛び出してくるに違いない。そして、思っていた通り、サラがベッドの上で身動いだのが視界の端に入る。
「サラ。おとなしく待っていてと言ったはずだ」
侍女に視線を据えたまま、すかさず、ハルは動こうとしたサラを来るなと止める。有無を言わせぬハルの命令に、サラは動くに動けずおろおろとしていた。
「誓えないのか? なら」
「待って……い、言わない……誰にも、絶対に言わない。見ていないと誓うから……から……いで」
最後の言葉はほとんどは涙声で聞き取ることができなかったが、必死で助けを求めていることだけは理解できた。
ハルは短剣を下ろした。と同時に、助かったとばかりにつめていた息を吐き出す侍女の身体から力が抜けていく。足下を崩しかけた侍女の腕をつかみ、無理矢理立ち上がらせる。
まだだよ。まだ、気を抜くには早い。
少しばかり、おまえには確かめたいことがある。
泣きじゃくる侍女の頬にハルは手を添えた。次は何をされるのかと恐れ、侍女が怯えた目でハルを見上げる。
男が女性の部屋へ訪ねてくるには非常識な時間だ。サラがファルクを自分の部屋に招き入れるはずがない。たとえ、何か事情があったとしてもサラがあの男と二人きりになることを望むわけがない。
ファルクの馬車はトランティアの屋敷の隅、それも人目につかないように止めてあった。おそらくファルクはこっそりとこの屋敷を訪れた。そのファ ルクが強引にサラの部屋に押し入って来たにしても、すでにみなが寝静まった屋敷内で、何故この侍女だけがファルクがやってきたことを知っていたのか。そして、ファルクが帰った後に、こうしてわざわざ様子を見に来るとは。
つまり、部屋にファルクを導いたのはこの侍女。けれど、ファルクをサラの部屋に通したものの、二人のことが気になった。だから、ファルクが帰った後に心配になってこうして様子を見に来た。
おそらく、そんなところであろう。
この侍女とファルクの間にどんな会話が、そして、何が交わされたかまでは知るすべはない。
だが……。
ハルは口の端を上げ緩やかな笑みを作る。
「誰かとキスをした?」
侍女は驚きに目を見開き息を飲む。
唐突すぎるハルの問いかけに、取りつくろう暇さえなかったようだ。
「たとえば、ファルクと?」
侍女にしか聞こえない声でハルは小声で問いかける。侍女の目が何故それを知っているの? と言わんばかりに動揺に揺れていた。
頬に添えていたハルの親指が、そっと侍女の唇の端をなぞる。
「あんた、鏡を見ていないのか? 口紅がよれている」
よく見れば、薄い紅色の口紅が唇の端に跡をひいてにじんでいた。
指摘され、侍女は慌てて手の甲で唇を拭う。
「違っ!」
自分でこすったのだと言い訳をすることもできたであろうに。
「わ、私……そんなつもりでは……だって、ファルク様が突然、私にっ!」
さらに言葉を継ごうとした侍女の唇に指先をあて、その先の言葉を封じる。
うかつにも、サラがいる前で何を喋ろうとするのか。彼女の言い訳など、どうでもいい。興味もないし、聞きたいとも思わない。
何故、サラの部屋にファルクを通したのだと責めるつもりもない。いや、責めれば、あの男からサラを守ることができなかった自分の不甲斐なさの八つ当たりとなってしまいそうだったから。彼女にもっとひどい仕打ちをしてしまうかもしれないから。
「名前」
青ざめた顔の侍女の頬に再び手を添え、頬を濡らす涙を親指の腹で拭う。たった今まで侍女を脅していたとは思えないほどに、ハルの手は優しく、浮かべる笑みも相手の心を惑わすほどに艶やかであった。
侍女はどういう反応をとったらいいのかわからないと戸惑った表情から、一転して頬を赤らめハルを見つめ返す。
恐怖で涙していたその目が熱を帯びたようにとろりと潤む。
今さらながらにハルが異国の者で、さらに目を瞠るほどの整った容貌だということに気づいたのだ。けれど、ハルの目を細めた瞳の奥に、ゆるりと危うい炎が揺れていることに侍女は気づいていない。
わずかに身をかがめ、ハルは侍女の顔に自分の顔を近づけていく。
「あの……私……」
何を勘違いし何を期待したのか、侍女はうっとりとした声をもらす。が、しかし、ハルの次の言葉が再び侍女を絶望に叩きつける。
「ミリアというんだね。覚えておくよ。もし、約束を違えたら、どうなるかわかっているね。おまえも、おまえの家族も親しい人も恋人も、おまえがかかわってきた者全員、探し出して……」
侍女の耳元に唇を近づけ。
「殺してやる」
と、ハルは静かな声でささやいた。
「ひっ!」
「どこへ逃げても隠れても無駄だよ。必ずおまえを見つけ出す」
苛烈すぎるハルの瞳に見据えられ、壁に背をついたまま、ずるずると腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった侍女をハルは半眼で見下ろした。




