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あなたの瞳におちて -愛した人は、元暗殺者-  作者: 島崎紗都子


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53 会いたかった

 静かだった。

 物音ひとつない静寂に包まれた部屋。

 いつものように、バルコニーからサラの部屋に忍び込んだハルは、いつもと様子が違うことに違和感を抱く。

 いつもなら、自分の気配にすぐ気づき、サラが嬉しそうな笑みを浮かべて抱きついてきたのに、それもない。

 トランティアの屋敷の側でゼクス家の紋章がほどこされた馬車を見かけ、嫌な予感を抱いて、もしやと急いで駆けつけたが、すでに昼間見かけたあのファルクという男の姿はなかった。

 けれど、ハルはぎりっと奥歯を噛んで顔を歪めた。

 息苦しいくらい重くそして、肌をぴりぴりと刺す張りつめた空気。その漂う空気の中に、胸が悪くなるほどの悪意の残滓すら感じた。

 嫌な予感はあたってしまった。

 間違いなく、あの男は少し前までこの部屋にいた。そして、サラも。

 サラはどこに。


「サラ……」


 と、小声で呼びかけてみるが返事はない。

 ここにはもういないのか。あるいは、あの男に連れ去られてしまったか。

 さらに部屋の中へと足を踏み入れ、辺りを見渡したハルは厳しく眉を寄せた。

 床には数冊の本と文机の上にあったと思われるさまざまな物が、まるで投げつけたかのように散らかっている。そして、床に転がっている一輪挿し。その一輪挿しに挿してあった薔薇が、花弁を散らし無残な姿となって床に落ちていた。

 この部屋で何があったのか容易に想像がついた。

 つまり、駆けつけるのが遅かったのだと、ハルは手のひらに爪が食い込むほどきつく手を握りしめる。


 どこだサラ? どこにいる。


 ハルの視線がふと、部屋の隅に置かれているベッドへと向けられた。

 天蓋つきのベッドから落ちる紗の幕が、開けられたバルコニーから流れる風にゆらりと揺れた。凝った闇の中、そこに呆然としたように小さくなって座り込んでいるサラの姿を見つけ、ハルは急いで走り寄る。もどかしいとばかりに落ちる薄布を手で払いのける。


「サラ……っ!」


 うつむいていたサラの顔がゆっくりと上がった。伏せていたまぶたの奥に、焦点の定まらない虚ろな目を見つけ、ハルは息を飲む。

 かすかに動くサラの唇が、声にはならない声で何かを呟く。


 ハル、会いたかった……。


 唇の動きを読み、目の前の少女を抱きしめようとして、ハルは手を伸ばしたが、その手が虚空でとまった。

 乱れた髪。

 両脇で結ばれていた藍色のリボンの片方は解けかけ、もう片方は完全にとれてしまったのか見あたらない。

 服を引き裂かれ胸元があらわとなった姿。両方の頬が赤く腫れ、口の端から血が流れていた。膝の上に置かれた手には、一振りの刃を剥き出しにした短剣が握られている。

 まさか、とハルは息を飲みベッドをざっと見渡す。が、乱れた形跡はない。いや、サラの手に短剣が握りしめられているのを見れば、どういう状況だったのかなど考えずとも察することはできた。

 この小さな身体で、精いっぱいあの男に抗ったのだ。

 たったひとりでこの暗闇の中、ひどい目にあわされても、サラは決してあきらめず、あの男の暴力に耐え戦った。


「ハル……」


 虚ろだったサラの瞳に、徐々に生気が戻り始める。


「ハル、会いたかった。来てくれた……」


 しかし、すぐにサラははっとなって胸元に視線を落とし、違うと激しく首を振る。


「これは……これは違うの! 私ちゃんと自分の身を守ったわ。だから、ハルが思うようなことは何もないの。ほんとうよ。信じてお願い。信じて……」


 必死の目で訴えかけるサラの頬にハルは手を添え、わかっているとうなずいた。

 声がでなかった。

 うなずくことしかできなかった。こんな時に何の言葉もかけてあげられることができない情けない自分が腹立たしくさえ思った。それ以上に、サラを守ることができなかった自分が許せなかった。


「信じてくれる?」


「……ああ、信じている」


 押し殺した声がハルの口からもれる。それだけを言うのがやっとだった。

 ハルは大きく息を吸って吐き出した。吐き出した息が震える。


 落ち着け……落ち着くんだ。

 今、俺が取り乱してどうする。

 本当なら今すぐ、あの男の元へ行って、殴り殺してやりたいくらいだ。

 いや、ただ殺すだけでは俺の気がすまない。徹底的にあの男を痛めつけ、全てを壊し、声も出せないほどの屈辱と苦痛を与え、地獄の底に叩きつけてやりたい。


 ハルの瞳の奥に狂気の色が揺れた。しかし、ハルは首を振り、落ちかけた殺意の影を振り払う。


 まだだ。まだ、怒りを爆発させる時ではない。

 今はサラを安心させることだけを考えろ。


 ふと、ハルの視線がサラの首筋に向けられた。そこに、残された傷跡はサラが手にした短剣の刃で傷つけたものであった。


 俺があんなことを教えてしまったばかりに……。


 結果、それでファルクを退けることができたとしても、こんなことをサラにさせてしまったことをハルは悔やむ。

 ハルの手が頬から、そっとサラの首筋に滑り落ちる。傷口に触れられることを恐れたのか、サラは眉根を寄せ、目をつむって肩をすくめた。ハルの指先が傷口を避けるようにサラの首筋を指先でなぞる。

 血は乾いたが、傷口はまだ生々しい。


「手が震えて少し切ってしまったの。でも、あの男、慌てた顔して部屋から去っていってしまったわ。痛みはないし、もう平気」


 だから、心配しないで、とサラはにこりと微笑んだ。


「サラ……」


 身体を包み込むようにサラを抱きしめた途端、小さく痛いと悲鳴を上げ身をよじった。

 きつく力を込めて抱きしめてはいない。

 すぐにサラの身体から離れたハルは、裂かれた衣服に手をかけた。サラは見られたくないのかうつむいて、いや、と首を小さく振る。


「ごめん。身体を見せて」


 ハルは、そっとサラの破れた服を脱がせ目を細めた。

 恥ずかしそうに胸元を両手で隠し、身体を丸めるサラの背と脇腹に残された無数の赤紫色の痣。そうとう乱暴に、容赦なく痛めつけられたのだろう。そうでなければ、こんな痣など残らない。


 あの男!


 小さくて、強く抱きしめたら折れてしまいそうなくらい華奢で、可愛らしくて、だから、大切に壊さないように、怖がらせないように、無理をさせないように、それでも自分の思いを伝えるように、優しく抱いたサラの身体があの男によって、無残にも傷つけられた。


 怖かっただろうに。こんなに傷をつけられて痛かっただろうに。

 心も体も悲鳴を上げながら、サラは俺の名を呼び、助けを求めたはず。


「くそっ!」


 思わずもれてしまった言葉に、サラは驚いたように目を丸くして小首を傾げた。


「くそだなんて、ハルがそんな言葉を使うなんて珍しいわ。すごく意外。初めて聞いた」


 ハルでもそんなことを言うのね、とくすりと肩をすくめ無邪気に笑うサラを見て、ハルは眉をきつく寄せた。着ていた上着を脱ぐとサラの細い肩にふわりと羽織らせた。


「サラ、短剣を俺に渡して」


「うん、でも指が強ばって……」


 放せないのと、頬を引きつらせて笑いながら答えるサラの手にハルは手を重ねた。そして、きつく両手で短剣を握りしめているサラの指を、一本一本開かせるように解き、短剣を受け取る。まだ強ばっているサラの手を両手で包み込み、口許に持っていくと口づけを落とした。


「もう大丈夫だから」


 守ってあげられなくてごめん。


「うん」


「俺が側にいるから」


 もう一度サラは嬉しそうにうなずいた。


「ハルが来てくれて嬉しい。もう何も怖くない。本当よ」


 サラの笑みに偽りはなく、無理して笑っている様子はない。

 それがむしろ痛々しく感じられた。


「何故……」


 何故、そうやって笑える。

 こんな目にあって、どうして笑おうとする。

 何故、すぐに助けに来なかったのだと泣いて俺を責めない。何故、あの時、自分を連れていってくれなかったのかと、俺をなじらない。あの時、屋敷には帰さず、ためらわずにサラを連れていってしまえば、こんなむごい目にあうこともなかった。


 ハルはゆっくりと首を振った。


 わかっている。

 彼女はそういう娘ではない。決して俺を責めるようなことは言わない。いつだって、サラは俺に笑顔を向けてくれた。どんな時でも眩しいくらいの笑顔を。


「だって、ハルが来てくれたのだもの。会いたいと思ったらハルはちゃんと私の前に現れてくれた……っ」


 不意にサラは顔をしかめ頬に手をあてる。切れた口の中の傷が痛んだのだろう。

 ハルはそっとサラの口許の血を親指で拭いとる。


「傷の手当てをしないと。それから服を……」


 その時であった。


「サラ様……?」


 扉の向こうでそっと呼びかける侍女の声に、サラはびくりと肩を跳ね上げ顔を強ばらせた。


「あの、先ほどファルク様がお帰りに……何だか様子がおかしかったようなので、気になって……サラ様? もうお休みになられたのですか? サラ様、入ってもよろしいですか?」


 失礼します、と遠慮がちの声と同時に、かちゃりと音をたて扉の把手が動いた。

 来てはきてはだめ、と答えるサラの声は弱々しく、扉の向こうにいる侍女には届かない。

 静かにゆっくりと扉が開く音。

 このままではハルの存在がばれてしまうと、サラはおろおろとした顔でハルを見上げる。

 ハルは静かにまぶたを半分伏せた。

 その顔に焦りも動揺もなく、むしろ落ち着いていた。


「侍女に見つかってしまうわ。ハル、お願い隠れて」


「いや……」


 ファルクがここへ来たことを侍女は知っている。ここで、顔を腫らせ、服を引き裂かれぼろぼろとなったサラの姿を見られてしまっては、たとえ、婚約者の仕業だとしても、彼女に悪い噂がたってしまう。それこそ、侍女たちの噂話の餌食となってしまうだろう。

 そんなことはさせない。

 それだけは避けなければならない。

 しかし、ハルは苦笑いを浮かべた。


 もっとも、この状況を見られては、俺がやったと思われても仕方がないか。

 どちらにしても。


「ハル!」


「口止めと、少しばかり彼女を利用させてもらう」


「何をするの……?」


 不安そうな顔で見上げるサラの髪をなで、大丈夫だからと、安心させるようにハルは微笑んだ。


「彼女に危害を加えるつもりはないよ。だから、これから俺のすることに驚かないで、ここでおとなしく待っていて。いいね?」


 そして、ハルがとった行動は──


 素早くベッドからおりたハルは、短剣を手に、今まさに顔をのぞかせ部屋に入ろうとしている侍女の元へ足音もたてず素早く動いた。

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