52 脅しと賭け
ちくりと指先に刺さった薔薇の棘の痛みに、サラはゆっくりと視線を自分の手元に移していく。
握りしめていた手のひらを開くと、そこにはいびつに歪んでしまった一輪の薔薇。
散った花びらの一枚が、サラの手を優しくなで床に落ちる。
あの時、シンは薔薇の棘を丁寧にすべて取りのぞいてくれた。しかし、月明かりだけが差す暗がりの中、花の根元にあった小さな棘までは取りきれなかったらしい。けれど、それが今のサラの危機を救ってくれた。
小さな痛みであったけれど、それでも、落ちかけたサラの意識を呼び戻すにはじゅうぶんな痛みであった。
シン、ありがとう。
私、まだ大丈夫。
どうして、あきらめてしまおうと思ってしまったのだろう。
そろりと視線をあげたサラの目が、部屋の隅のベッドへと向けられる。
そう、あきらめるにはまだ早い。
気力を振り絞り、サラはあごにかけられたファルクの手を両手でつかんだ。そして、遠慮など必要ないと、相手の肉を食いちぎらんばかりの勢いで、その手に思いきり歯をたて噛みついた。
「うあ……っ! 痛い……痛いじゃないか! 痛い……痛いっ!」
凄まじい悲鳴を上げ、ファルクはサラの髪をわしづかみにして引きはがす。
もはや抵抗する気力さえもないと油断していたファルクは、予想外のサラの行動に憤怒の形相を浮かべた。
「このくそがきっ! ゆ、許さない……許さないからな!」
泡唾を飛ばし、ファルクが激怒の声を上げる。あまりの声の大きさに一瞬、驚いて怯みそうになったが、何とか持ちこたえる。
この男の暴力になど屈しない。
この状況から逃れるため、今は自分の身を守ることだけを最優先に考えて、最後まで抗ってみせる!
痛みに頬を引きつらせ、噛まれた手をもう片方の手で押さえながら身体を丸めて身悶えるファルクの側をすり抜け、転がる勢いでベッドへと走ると、重なった枕の下に手を差し込みそれをつかんだ。
あった……あったわ!
手に触れたそれを握りしめ、すぐにファルクをかえりみる。
サラが手にしたのは護身用の短剣であった。
以前、ファルクが勝手にそれも深夜に部屋に現れたことを思いだし、部屋に鍵はかけたが、それでも万が一の時のためにと、眠る前に枕の下に忍ばせておいたのだ。
まさか、本当にこの短剣を使うことになろうとは思いもしなかったが。
「意外だよ。君がこんなにも激しい娘だとはね。少し驚いてしまった」
ファルクは噛まれた手の、指の根元から指先に向かって、ねっとりと舌を伸ばし這わせるように舐めあげた。
ファルクのその仕草に、ぞわりと全身がそそけ立つ。
気持ちが悪い……。
「それに、自らベッドへ行くとは、嫌がっていたわりには実はその気だったのかな? そうやって男どもを誘っていたのかな? 何も知らないという可愛い顔をして」
まったく、どうしようもなく嫌らしい娘だと、くつくつと肩を揺らして笑い、ファルクは襟元を緩める。が、ファルクの視線がふと、窓に向けられた。つかつかと、窓辺へと歩み、カーテンを束ねるロープを乱暴に引き抜くと、にやりと笑いながらサラを振り返る。
「さて、お仕置きの続きをしなければいけないね。きついお仕置きを」
「来ないで!」
ロープの端と端を握り緩めては伸ばすを繰り返し、ファルクはゆらりと身体を左右に揺らして近寄ってくる。
「暴れたりしないように、両手をきつく縛ってあげよう。かなり痛くするけど、これはお仕置きだからね。それに、痛くなければお仕置きの意味がないだろう」
男らしく凜々しい顔立ちに、爽やかな笑顔と柔らかな物腰。社交界の女性たちの憧れの的であるこの男の本性は、とてつもなく残忍で嗜虐的であった。
「来ないでと言ったわ」
「謝っても、もう許さないよ。私を怒らせたのがいけない」
ファルクの目がサラの胸元へと移る。
引き裂かれた服の胸元から肌があらわとなっていたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「私はね本当はおまえのようながきには興味はないのだよ。そんな青臭い身体を見ても欲情する気にもなれない。だけど、おまえは私のものだということをわからせてあげないといけないからね。さあ、今度こそ逃がさないよ」
サラは握りしめた短剣を、ためらうことなく一気に鞘から抜き放った。
落ちる月影が短剣の刃を青白く照らす。
どうしよもなく手が震えた。それでも、決してこの短剣を取り落とすまいと、しっかりと柄を握りしめる。
立ち止まったファルクはほう? と片方の眉を上げた。
「何だね、それは?」
「見ればわかるでしょう」
「そんなものを私に向けてどうするつもりかな? 私に斬りかかろうというのかい? 人を傷つけたこともないおまえに、そんな勇気などあるのかな? そんなことより、この私に傷ひとつつけることができると思っているのかな?」
どこまでも馬鹿な娘だと、ファルクは呆れたように肩をすくめる。
ファルクを傷つけるつもりなどもとよりない。
サラは鞘から抜いた短剣の刃を自分の首筋にあてた。
「ここから出て行きなさい」
「出て行きなさいだと? この私に命令をするのかね。婚約者であるこの私に」
「それ以上近寄ったら、私に少しでも触れたら、私……私、ここで死ぬわ!」
ファルクは可笑しそうに唇を歪めた。
「死ぬ? はは! おまえにそんな度胸など……」
「脅しではないわ。本気よ」
ファルクはくつりと嘲笑を交えて唇の端を吊り上げて笑う。
もちろん、脅しだ。
死ぬつもりなどない。
ハルは過去に大切な人を失っている。もし、ここで私が死を選んでしまったら、ハルの心に消えない傷をさらに負わせてしまうことになる。だから、ハルのために、ここで命を絶つつもりはない。
これは賭だ。
ここでファルクがあきらめて引いてくれることを、ただ祈るしかない。
ハルの瞳を思い出して。
あの凄烈な瞳を。
私は本気だとこの男に思わせ、たじろがせるほどの強い瞳を私も真似るの。
サラは大きく息を吸い、そして、ゆっくりと吐き出した。
ファルクを見据えるその瞳に力強い光が宿る。
「本気よ」
ひやりと冷たい刃の感触。震える手と加減の知らない力によってあてられた刃が首筋の薄い皮膚を裂く。鋭い痛みが走った。じっとりと、生暖かいものが首筋から鎖骨を伝い、胸元を流れ落ちていく。引き裂かれた衣服の胸元がたちまち赤に染まった。
これには、さすがのファルクも慌てたようだ。
「私がここで死んでしまったら、おまえはこの家も何もかも手に入らなくなる。それでもいいのね」
「お、落ち着きたまえ」
「ここでおまえのいいようにされるくらいなら、私は死を選ぶ」
「だから、落ち着いてと……」
まあまあ、と顔を引きつらせ、ファルクは両手を広げサラの行動を制する。
「動かないで」
静かな声の中に含むサラの気迫に、とうとうファルクも根負けするしかなかったようだ。
忌々しげにちっと舌打ちを鳴らし、ファルクは手にしていたロープを床に叩きつけた。
「まったく不愉快きわまりない娘だ! だけど、まあいい、どのみちあと三日もすればおまえはこの私のものとなるのだから」
あと三日……?
訝しむサラの表情からその思考を読み取ったファルクはおや? 愉快そうに眉を上げた。
「おやおや、聞かされていなかったのかい? あなたと私の結婚式が三日後だということを。ああ……この私が冗談を言っているのだと思っているのかい? だったら、朝になったらあなたのお祖母様にでも聞いてみるといい」
そんなの、知らない。
式は夏の終わりだとお祖母様は言っていたのに、どうして?
「私があなたのお祖母様にお願いをして式を早めさせてもらったのだよ。愛するあなたと一日でも早く一緒になりたい、夏の終わりまで待てないとわがままを言ってね。あなたのお祖母様はそれはそれは喜んでくださったよ。むしろ、それは願ってもないことだと。息子も……つまりおまえの父親だね、どうしようもない女にそそのかされ、骨抜きにされて頼りがないから是非、私にこのトランティア家を盛り上げて欲しいとおっしゃってくださった。もっとも、正式な式は当初の予定通りだが、まずは内輪でささやかなお祝いをして、ひとまず夫婦になってしまおうということ」
サラは唖然としてファルクを見つめ返す。
一瞬、短剣を握る手が緩みそうになったが、はっとなって慌てて握り締めなおす。
お祖母様がそんなことを……。
私、聞いていない。
聞かされていない!
「私のものとなった時は、どうなるかよく覚えておくといい。こんな真似をして、この私を怒らせたことを嫌というほど後悔させてあげよう。これまでのように自由など与えてはあげないよ。部屋に閉じ込め、一歩も外には出さず、私のいいつけに素直に従うよう、私の妻として相応しい女になるよう、厳しくしつけなおしてあげよう。ああ、そうだ!」
ファルクは何かいいことを思いついたとでもいうように、ぽんと手を叩く。
「おまえを可愛がっているところを、あの少年にも見せてあげるのも面白いかもしれないね。おまえもそう思わないか? 思うだろう? 私の妻となる女に手を出した罪をあの少年にも思い知らせてあげよう。ああ……今から愉しみだよ。あの男の澄ました顔が、きれいな顔が、悔しさと怒りで歪むさまを見るのは!」
ファルクの顔にじわりと愉悦的な色が広がっていく。それを見たサラは嫌悪もあらわに眉間を寄せた。
ファルクはシンに打ち負かされている。おそらく、ファルクの言うあの少年とは、ハルのことを言っているのだろう。そんなことをしたら、ただで済まないのはファルクの方だということも知らないで。
「たっぷりと、思い知らせてあげよう」
いたぶってあげよう、と嗜虐的な笑みを口許に広げた。が、すぐにその顔から笑みが消え、怒気もあらわな目でサラを見据える。
「覚悟するといい」
そう言い残すと、ファルクは肩を怒らせ、くるりと背を向け扉に向かって歩いて行く。
乱暴に扉を閉める音に、サラびくりと肩を跳ねた。
遠のいていくファルクの足音に耳をこらす。
どうやら戻ってくる気配はない。
それでも、まだ安心はできないと警戒して、サラは短剣を首にあてたままベッドの上で表情を硬くし座り込んでいた。
どのくらいそうしていただろう。
もしかしたら、ほんのわずかな時間だったのかもしれない。けれど、サラにとってはずいぶんと長い刻のように思われた。
静けさの戻った室内に、自分の荒い息だけが聞こえる。
まだ、身体の震えが止まらなかった。
心臓が破裂しそうなくらい音をたてている。
もう、ファルクは戻ってこないと判断して、サラはようやく短剣を首から離し柄を握りしめたまま両の手を膝の上に下ろす。そして、首筋の痛みにうつむいて唇を噛むと、胸元が赤く染まっていたことに気づき顔を青褪める。
私、あんな奴に負けたりしなかった。
ちゃんと自分を守ってみせた。
でも、私すごい格好。
ハルが迎えに来るまでに何とかしなければ。
顔を洗って髪を整えて、それから着替えもしなければ。
こんな姿をハルに見られたくない。
でも、もう動けない。
足が震えて立てない。
ハル。
サラは泣きそうに顔をくしゃりと歪めた。
「ハル……会いたい」
消え入りそうなほどのサラの声が、夜の静寂を震わせた。
早く夜が明けることを待ち望む。
けれど、暁を告げる鐘はいまだ遠い。




