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あなたの瞳におちて -愛した人は、元暗殺者-  作者: 島崎紗都子


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49 何故

 芳しい薔薇の香りが辺りに満ちる。

 艶やかに咲く薔薇たちが、月明かりを浴び夜露にしっとりと濡れていた。

 小さなつぼみから、美しくその花弁を開くことを待ち望んでいた薔薇たちは喜びを精いっぱい表現するように甘い香りを放ちその存在を誇示する。

 そして、愛する人の手によって、少しずつ花開き始めようとするサラもまた、今までとは少し違う雰囲気をその身にまとっていた。

 いつもと変わらないようでいて、どこか違う。

 少女のあどけなさを残しつつも、女性の色気を仄かに忍ばせたような。


「サラ」


 何かを言いかけようとして口を開き、そして閉じてしまったハルは視線を落とした。

 ハルの整った顔に蒼白い月明かりが落ちる。

 いつも言いたいことを、遠慮もなく言うハルがこんなふうに躊躇う素振りを見せるのは珍しい気がした。

 どうしたの? なあに? と、サラは首をわずかに傾げ、ハルの言葉の続きを待った。

 意を決したのか、視線を戻しまっすぐサラを見つめるの藍色の瞳に、くすぶっていた揺らぎは消えていた。


「もう、ここへ来るのは明日で最後にする」


「最後……?」


 言いかけてサラは小さく息を飲み、そして、ハルの言葉の意味を理解して大きく目を見開いた。


「明日、迎えに来る」


「ハル……」


 両手を口許にあて、サラは震える声を落とす。


「幸せにする」


 サラは違うわ、と首を振り、微笑んでハルの目をのぞきこむ。


「二人で幸せになるのよ」


 小さな両手がハルの頬を包み込んで引き寄せる。腰をかがめたハルの唇にサラはそっと自分の唇を重ねた。

 サラの手にハルの手が重ねられ指が絡む。

 甘い薔薇の香りに目眩を覚える。


 いいえ、目眩を感じるのはハルとのキスのせい。


 鼻腔をくすぐる薔薇の香りが媚薬となって、いっそう二人の感情を昂ぶらせ互いを欲して求め合う。

 唇を離し、熱を宿した薄茶色の目でサラはハルを見上げた。濡れた唇に、落ちる月影が艶やかな光が差し、かすかな吐息をこぼすサラの頬に、ほんのりと赤みがのぼった。






 サラの瞳に、月を背負うハルの姿が映し出される。






 絡んだ互いの指先が、離れたくない、離れるのが惜しいとばかりにゆっくりと解かれていく。最後の指が離れた瞬間、不意にハルの心の隅に得たいの知れない黒い影が差したのを感じた。


 ──何故、この手を離してしまったのだろうか。


 恥ずかしそうに頬を赤らめたまま、衣服の裾をふわりとひるがえし、軽やかな足どりで屋敷へと向かって歩き出すサラの背に。


「サラ」


 と、思わず呼び止めてしまった。

 すぐにサラが立ち止まり振り返る。


 ──何故、今この場で彼女を連れ去ろうと決心しなかったのだろうか。


 もし、サラが連れていってと口にしたら、俺はそうしただろうか。


 大切な人ほど手放してはいけないと、知っていたはずだったのに。

 なのに。


 ──何故、同じ過ちを繰り返してしまったのだろうか。


「ハル、今日はありがとう:」


 にこりと無邪気な笑顔をこぼし、サラがまた明日ね、と小さく手を振り去って行く。

 サラ、と伸ばしかけた手がそのまま虚空でとまる。


 まだ間に合う。

 まだ引き止められる。

 まだ……。


 今すぐサラの元に駈け寄り、その手をつかんで連れ去っていこう。むしろ、サラ自身だってそれを望んでいる。なのに、足が一歩も動かないのは何故だろうか。

 サラの姿が徐々に遠ざかっていく。そして、その小さな姿が咲き誇る薔薇の影に隠れ消えてしまっても、ハルはしばらくそこから動くこともできず、その場に立ちつくした。



 ◇



 トランティアの屋敷を出たハルは一台の馬車が、屋敷から少し離れた場所に止めてあるのに気づき眉をひそめる。

 馬車の中に人が乗っている気配はない。ただひとり、留守をあずかっている御者台の男が退屈そうに大あくびを何度も繰り返してはうつらうつらとしていた。

 馬車に飾られた紋章はゼクス家のもの。

 サラの婚約者であるゼクス家の馬車がトランティア家に訪れても別に不思議なことではない。けれど、すでにもう遅い時間。それも、何故、屋敷の敷地から離れた場所に、それもまるで人目を忍ぶように止めているのか。

 不安という小さなしずくが静かな水面に落ち波紋をつくるように、胸に暗い影が広がっていく。

 それは不吉な予感。

 直感は鋭いほうだ。説明抜きの勘は侮れないし、その予感は今までたいがいあたることが多かった。それによって身に降りかかる危険を回避できたことも何度かあった。

 ハルは視線を落とし強く手を握りしめた。

 ならば何故、先ほどの不安を曖昧にせず、サラを引き止めず屋敷へ帰してしまったのか。

 別れ際、自分に向けたサラの無邪気な笑顔が脳裏によみがえる。

 立ち止まり、ハルはトランティア家の屋敷を大きく振り仰いだ。


 サラ……!


 今来た道を戻るのももどかしいとばかりに、ハルはゼクス家の馬車に向かって駆け出した。居眠りをしている御者台の男は、ハルが近づいたことにさえ気づかない。

 身軽な動作で馬車の屋根に登ると、そこから高く跳躍し屋敷の壁を超えた。

 わずかな馬車の揺れに気づいた御者台の男は、うん? と寝ぼけまなこで背後を振り返る。が、すでにハルの姿は壁の向こう。

 気のせいかと男は視線を元にもどし、再びこくりこくりと首を上下に振り始めた。

 結局、覚悟が足りなかったのは自分の方だったということに。

 今さら気づくとは。

 己の不甲斐なさを悔いる羽目になろうとは。



 ◇



 ハルと別れ、部屋に戻ったと同時に、今日は何も用はないからと侍女たちを部屋から遠ざけた。いつもよりも早く仕事から解放された彼女たちは、嬉々とした表情でサラの部屋を去っていった。

 早めに眠りにつく者もいれば、恋人に会いに行った者もいるだろう。今頃は各々、自由な時間を楽しんでいるに違いない。

 とさりとベッドの上に仰向けになって倒れ、サラはふうっと息をついた。

 ひとりきりになりたかった。

 幸せな気持ちに浸りたかった。

 そっと、胸に手をあて、今日一日の出来事を思い浮かべ、頬を顔を赤らめ胸を熱くする。


 私、ハルと……。


 まだ身体に痛みが残っている。無我夢中でハルにしがみついていた両腕も、心なしか重く感じられた。


 ハル、優しかったな。

 どうしよう。

 私とても幸せ。

 幸せすぎて怖いくらい。


 そのままころりとうつぶせになり、枕を抱えそこに顔をうずめる。

 明日、ハルが迎えに来てくれると言ってくれた。ようやく、ハルと一緒になれるのだと思うと胸が苦しいくらい喜びに震えた。

 屋敷を出る支度をする必要はない。この身ひとつで出ていくつもりだった。

 きっと、この先楽しいことばかりではないだろう。辛いことも苦しいこともあるはず。それでも、ハルと一緒ならすべてを乗り越えていけると思った。


 ハルと一緒ならどんなことでも……。


 今日はもうこのまま眠ってしまおう。そうしたら、すぐに朝が来る。

 幸せに満ちた朝が。

 その時、かすかに扉のきしむ音が聞こえ、サラはそろりとベッドから身を起こした。


 何?


 侍女の誰かが用を思い出し、戻ってきたのだろうか。だが、一言も声をかけることもなく部屋に入ってくるのはおかしい。


「誰?」


 呼びかける声も待たずして、何者かが部屋の中へと身を滑らせる気配。

 嫌な予感に心臓がどきりと鳴った。

 部屋の中は文机に灯された蝋燭のみ。灯に照らされた人物の顔を見てサラは息を飲む。そして、その不届きな侵入者に怒りもあらわに眉根を寄せた。

 扉の前に立っていたのは婚約者のファルクであった。

 何故、彼がこの部屋に入って来られたのか。


「どうして……? 鍵はかけたはずなのに」


 間違いない。

 部屋に入ったと同時にしっかりと錠をおろした。この間のように、勝手にこの男が部屋に入って来ないようにと。


「ああ、鍵かい?」


 にやりと口の端を歪め、ファルクはそれを見せつけるようにぶらぶらと眼前で揺らしてみせた。

 それは、部屋の鍵であった。


「何故? という顔だね。可愛い婚約者に会いに来たというのに、あなたの部屋は鍵がかかっている。だから、あなたの侍女に部屋の鍵を渡すようお願いしたのですよ」


 サラはこくりと喉を鳴らした。


「愛しい婚約者とどうしても二人っきりで会いたいと、ちょっと甘い声でお願いをしたら、すぐにこの鍵を差し出してくれた」


「そんな……」


「お礼にその侍女にキスをしてあげたよ。ついでに、しばらくこの部屋には近寄らないようにと言いつけて。それにしても、主も主なら、その主に仕える侍女も侍女だ。まったくしつけがなっていないようだね。まあ、私がこの屋敷に来ることになったら、あなたも侍女たちも、しっかりと教育し直さなければいけないみたいだ」


 楽しみだよ、と肩をくつくつと揺らしファルクは笑いながら言う。


「帰って! 今すぐここから出て行って!」


「こうしてわざわざあなたに、愛する婚約者に会いたくてやって来たというのに、帰れとはずいぶんとつれないのだね」


 白々しい言葉を口にのせ、ファルクが大仰に肩をすくめる仕草をする。


「この間もそうだけれど、こんな時間に部屋に来るなんて常識外れだわ! 帰って!」


「まあまあ」


「いいから帰って……帰りなさい!」


 ああ、うるさいとばかりにファルクは耳を押さえ、そして、にやりと笑ってサラを見つめる。


「それはそうと、昼間知らない男と薔薇園で会っていたね。夜会の時に連れ歩いていたのとは違う男。あの後、どこに行ったのかな?」


 背筋が震えた。

 そうだった。

 この男に、薔薇園でハルと一緒にいたところを見られてしまったのだ。


「恋人かい? ずいぶんと細腰のきれいな男の子だったね。この間の夜会で見た男といい、あなたはああいう軟弱そうな男が好みなのかい?」


 その見た目軟弱そうに見えるシンに、あっけなく剣で打ちのめされたということをすっかりと忘れているのか、いまだ認めたくないのか。


「そういえば、侍女たちから聞いたよ。夜中にあなたの部屋から誰かと会話をしている声が聞こえたと。もしかして、その男を部屋に呼んで会っていたのかい? 部屋で何をしていたのかな?」


「あなたには関係ないでしょう」


 サラはベッドから降り、ファルクと距離をとったまま少しずつ扉の方へと向かう。

 部屋を抜ける扉は一カ所だけ、それもファルクの背後だ。

 ファルクの側を抜けない限り、部屋の外へ出ることはかなわない。


「あなたは男をたぶらかす悪い娘だ。それとも、悪い男の甘い言葉にすぐ騙されてしまう軽率な娘かな?」


「早く出ていって!」


 しかし、ファルクはサラの言葉を聞いていない。


「まあ、男に免疫のないあなたが騙されてしまうのも仕方がないだろう。だけど、私という婚約者がいながら、他の男に簡単についていってしまうあなたも悪い」


 ファルクはぺろりと舌で唇を舐めた。


「そういう悪い子には、お仕置きをしなければならないようだね」

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